古今著聞集 卷七
橘成季
(『古事談・古今著聞集・十訓抄・榮華物語』 國史大系15 經濟雜誌社 1901.10.15)
※ 〔原文頭注等〕、【原文割注】、(*入力者注記)。振り仮名・振り漢字を施した。
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目録
第八 能書
第九 術道
(目録)
古今著聞集卷第七
能書第八
[二八五]
尺牘の書疏(*書状)は千里の面目なりといへり(*『顏子家訓』雜藝篇)。凡六文は躰(*六文八體。六書と書の八體。)のすがたをあらはす輩、驚鸞反鵲(*筆勢の譬)のいきほひをならふ人、わづかに一字の跡をのこして、はるかに万代のほまれをいたす。もろ〳〵の藝能の中に手跡まことにすぐれたり。
[二八六]
嵯峨天皇と弘法大師とつねに御手跡をあらそはせ給ひけり。ある時御手本あまた取出させ給て、大師に見せまいらせられけり。其中に殊勝の一卷ありけるを、天皇おほせごと有けるは、是は唐人の手跡なり。其名をしらず。いかにもかくはまなびがたし。目出たき重寶なりとしきりに御〔御、據一本補〕秘藏ありけるを、大師よく〳〵いはせまいらせてのち、是は空海がつかうまつりて候物をと奏させ給たりければ、天皇さらに御信用なし。大きに御不審ありて、いかでかさる事あらん。當時かゝるやうにはなはだ異するなり。はしたてゝも〔も、據一本補〕及ぶべからずと勑定有ければ、大師御不審まことに其いはれ候。軸をはなちてあはせ目を御〔御、一本旡。當衍〕叡覽候べしと申させ給ひければ、則はなちて御覽ずるに、その年その日〔日、集覽(*史籍集覽)本作月〕靑龍寺に於て書レ之沙門空海と記せられたり。天皇此時御信仰有て、誠にわれにはまさられたりけり。それにとりて〔て、據一本補〕いかにかく當時のいきほひにはふつとかはりたるぞと尋ね仰られければ、其事は國によりて書かへて候也。唐土は大國なれば所に相應していきほひかくのごとし。日本は小國なればそれにしたがひて當時のやうをつかうまつり候也と申させ給ひければ、天皇大きにはぢさせ給ひて、其後は御手跡あらそひもなかりけり。
[二八七]
大内十二門の額、南面三門(*美福門・朱雀門・皇嘉門)は弘法大師、西面三門(*談天門・藻壁門・殷富門)は大内記小野義材(*小野美材。小野後生男。小野篁孫)、北面三門(*安嘉門・偉鑒門・達智門)は但馬守橘逸勢、をの〳〵勅をうけ給て垂露の點をくだしけり。東面三門(*陽明門・待賢門・郁芳門)は嵯峨天皇かゝせおはしましける〔ける、一本此下有ふり(*なりカ)二字〕。まことにや、道風朝臣(*小野道風。小野葛絃男。小野篁孫。三蹟の一人)大師のかゝせ給たる額を見て難じていひける、美福門は田廣し、朱雀門は米雀門と畧頌(*短詩)につくりてあざけり侍ける程に、やがて中風して手わなゝきて手跡も異やうに成にけり。かゝるためしをそれられけるにや、寛弘年中〔中、據一本補〕に行成卿美福門の額の字を修飾すべきよし宣旨をかうぶりける時は、弘法大師の尊像の御前に香花の具をさゝげて、驚覺して祭文をよまれけり。件の文は江以言(*大江以言)ぞ書たりける。
今蒙二明詔一而欲レ下レ墨、則疑有下黷二聖跡一之冥譴上。更憚二聖跡一而將レ閣レ筆、亦恐拘下辭二明詔一之朝章上。晋退(*進退)慙レ心、胡尾失レ歩。伏乞尊像示二以許否一。若可レ許可レ請者、尋二痕跡一而添二粉墨一。若不レ許不レ請者、随二形勢一而廻二思慮一。王事靡レ盬。盍レ鑒二於此一。尚饗。
とぞかゝれて侍りける。此門ども或は燒失しあるひは顛倒して、今は〔今は、據一本補〕わづかに安嘉・待賢門のみぞ侍りける。實にや此安嘉門の額はむかし人をとりける。をそろしかりける事かな。
[二八八]
延喜の聖主(*醍醐天皇)醍醐寺を御建立の時、道風朝臣(*小野道風)に額かき參らすべき由仰られて、額二枚を給はせけり。一枚は南大門、一枚は西門の料也。眞草兩樣にかきて奉るべき由勑定有ければ、仰にしたがひて兩樣に書てまいらせたりけるを、眞に書たるは南大門の料なるべきを、草の字の額をはれの門にうたれたりけり。道風是を見てあはれ賢王也とぞ申ける。其故は草の額殊に書すましておぼえけるが叡慮にかなひて、かく日比の義あらたまりてうたれける、まことにかしこき御はからひなるべし。それをほめ申なるべし。
[二八九]
知足院入道殿(*藤原忠實、富家殿)、法性寺殿(*藤原忠通。藤原忠實男。書法は法性寺流と呼ばれた。)と久安(*1145−1151)の比より御中よからずおはしましける時、法性寺殿まいらせ給たりけるに、こゝろみ申されんれうにや、四枚屛風を一帖めしよせさせ給ひて、是に物書て給へと申されたりけるに、御硯引よせさせ給て、墨をしばしすらせ給て、中にもちいさかりける筆をとらせ給て、紫蓋〔蓋、一本作藍〕之峯(*中国の五岳のうち、南岳衡山の五峯の一。祝融・天柱・芙蓉・紫蓋・石廩)嵐踈と三句を大文字にて四枚に書みてさせ給てまいらせられたりければ、禪閤(*藤原忠實。禪定太閤の太閤は攝關・太政大臣の尊稱)御覽じて、これは重物なりとて、やがて寳藏に收られけるとぞ。
[二九〇]
大納言なる人の若公を淸水寺の法師に養はせけり。父もしらざりければ母のさたにてやしなはせけるに、乳母法師になして淸水寺の寺僧になして、名をば大納言大〔大、據一本及下文補〕別當とぞいひける。こちなかりける(*味氣ない)名な〔な、原作の。今從一本〕りかし。件の僧以の外に能書を好みて、心ばかりはたしなみてわれはとぞ思たりける。當寺の額は侍從大納言行成(*藤原行成)の書給へる也。年ひさしく成て文字みなきえてかた〔かた、據一本補〕ばかり見ゆるに、此大納言大別當文字のみな消うせぬとき我修復せんといへば、古老の寺僧等さしもやんごとなき人の筆跡をば、いかゞたやすくとめ給はんとかたぶきあひければ、いかなる聖跡重寳なりとも、あとかたなく消うせんには何の益かあらん。別してわたくしの點をもくはへばこそ憚もあらめ、かたばかりも其跡のみゆる時、もとの文字の上をとめて(*留めて)あざやかになさんは何の難かあらん。ふるき佛にもはくをばおすぞかしなどいへば、誠にさもありとてゆるしてけり。其時額をはなちてあらたに地彩色して文字の上とめてけり。かゝる程に次の日俄に雷電おびたゞしくして、その〔その、據一本補〕額を雨そゝぎて〔て、據一本補〕みな墨を洗ひて、只もとのやうになしてけり。ふしぎの事也。いかなるよこ雨にもかく額のぬるゝ事はなきに、そのうへたとひ雨にぬれんからに、やがてすこしもも〔も、據一本補〕とにたがはず、さいしきも文字も消うすべき事かは。是はたゞ事にあらず、おそろしきわざなりといひてのゝしる程に、四五日をへてかの大納言大別當夭亡しにけるとなん。
[二九一]
法深房(*藤原孝時)が持佛堂をば、樂音寺と號して管絃の道塲として、道をたしなみける輩たへず入來の所也。後には阿釋妙樂音寺と三字をくはへて、ちいさき額を書てほとけの帳に打たる也。あみだ・尺迦・妙音天(*妙音樂天、辨才天)などを安置して、常に法花經を轉讀して、音樂を供する故にかくは名付たる也。件の額誂へ申さんが爲に、建長三年(*1251)八月十三日綾小路三位入道行能(*世尊寺行能、寂然。藤原伊經男)のもとへむかはれたりければ、禪門日來所勞にて侍けるが、其比ことに大事にて、立居る事だにかなはざりければ、ふしたる所へ請入て、ねながら對面せられけり。所勞の躰まことに大事げなりけり。腹ふくれていきだは〔たは、原作とを。據一本改〕しき(*息がせわしない)とて、物いはるゝも分明ならざりけるが、から〔ら、據一本補〕くしていはれけるは、かゝる〔かゝる、原作今日、據一本改〕病床へ入申てねながら見參する事は其憚侍れども、かつは㝡後の見參なり。御わたりめづらしくうれしく侍る。さるにても來り給へるゆへ何の料にて侍るぞととはれければ、法深房こたへられけるは、凡かく程の御事にておはしましける、つや〳〵しり奉らず。いさゝか所望の事侍りてまうでつれども、此御やう見まいらせては更に其事思ひよるべからず。今御平愈の時こそ申さめといはれければ、禪門所勞はさる事なれども只仰られよ。たま〳〵の見參にいかでかとしゐていはれければ、法深房此額の事をいはれてけり。その時禪門大におどろきて、掌をあはせ涙をながして、不可思儀の事に侍りとてかたられけるは、先年近江國より僧來りて申事侍き。あさましく古く成たる寺あり。其寺を少しもあがめ興隆すれば、魔妨をなして住僧も怖畏をなし、田園をも損亡せしむる事、年をおつてはなはだしき也。此事をまのあたりみればそのをそれ侍れども、たちまちに荒廢せん事かなしく侍れば、猶〔猶、一本旡〕興隆の思ひあり。額かきて給へと申侍りしかば、則かきてあたへ侍き。其後四五年をへて件の僧又來て申侍しは、此額を打てより魔の妨なし。住僧も安堵し寺領も豐饒也。喜悦の思ひをなすところに、此額のゆへなりと夢想のつげあり。此事のかたじけなさに、參りて事の由を申入侍也とて、掌を合せてさり侍り〔り、一本作に〕き。然るに去八日此病につかれてふしたるに、あかつきに及びて夢に見るやう、天人と思しき人、額をもちて來りて此額の文字損じたる、なをして給へとてたぶと見れば、先年かきたりし近江國の額也。げにも文字せう〳〵消たる所あり。夢の中になをして奉りつ。天人悦べる〔べる、據一本補〕けしきにて歸り給はんとするが、見かへりて今五ヶ〔ヶ、原作十。據一本改。下同〕日がうちに又額あつらへ奉るべき人あり。必ずかき給べし。一佛淨土(*阿彌陀淨土)の緣たるべき也とてさりぬと思ふ程に夢さめぬ。此事によりて心の中に日ごとに相待ところに、けふ五ヶ日滿也。然るに〔に、一本作を〕此額あつらへ給ふ。是一佛淨土のえん也。やがて書侍べきにこの額にをきては精進して書侍べし。いかにもこれ書はてんまではよも死侍らじとて、なく〳〵随喜せられける也。抑天下に道にたづさはる人おほけれども、御邊の道におきては又對揚(*比類)なし。それにつきては我道こそ侍けれ。其故は今度閑院殿遷幸に年中行事障子をかくべきよし宣下せられたりしを、入道は此所勞の間かなはず。經朝朝臣(*藤原經朝、寂朝。藤原行能男)は訴訟によりて關東に下向す。これによりてふるき障子を用らるべきよし其さたありけるを、武家より其儀不レ可レ然、いかやうなりともかの家の子孫かき進ずべき也と申によりて、經朝朝臣が子生年九才の小童(*藤原經尹カ)かたじけなく勅定(*後深草天皇の勅)をうけ給て書進せをはんぬ。これをもて是を思ふに、御邊の道と入道が道とこそならぶ人なかりけれと自讃せられ侍也。世に管絃者おほかれども、誰か御邊とひとしき人ある。手かき(*書家)又おほけれ共朝の御大事にあふもたゞこの家ばかり也。さればかゝる夢想もありて、一佛淨〔淨、今意補〕土の緣となり申べきにこそとて、感涙をたるゝ事かぎりなし。このことさらにうけることにあらず。法深房かたり申されしうへ、三位入道このことをしるしたる狀に判を加へて、法深房のもとへおくりたる狀をかき侍也。
[二九二]
行成卿(*藤原行成)いまだ殿上人の比、殿上にて扇合と云事ありけるに、人々珠玉をかざり金銀をみがきて我おとらじといとなみあへりけり〔り、原作る。今從一本〕。かの卿はくろくぬりたるほそぼねに黄なるかみはりて、樂府の要文を眞草に打まぜて、ところ〴〵かきて出されたりける。御門御覽ぜられて、此扇こそいづれにもすぐれたれとて、御前にとゞめられけるとかや。彼卿の孫に帥中納言伊房(*藤原伊房。藤原行經男)とておはしけるもいみじき手書也けり。春日大明神の示現によりて御經藏といふ額を一枚かきておき給たりければ、只今うつべき經藏もなければ、いまあるやうあらんずらんとて置たりける程に、帥もうせ給てのち遙に年月へだゝりて、思の外に公家より一切經を安置してまいらせられける時、たれか額をば書べきとさた有けるに、彼帥の子孫の中より、かゝる事有てかの帥書をける額ありとて出されたりければ、うたれけるこそ神慮に叶ひて有ける事、やんごとなくおぼゆれ。(*國史大系本文はここで改行。)
むかし佐理大貳(*藤原佐理。藤原敦敏男)任はてゝのぼられけるに、みちにて伊與の三島明神の詫宣ありて、かの社の額かゝれたりける(*『大鏡』)も目出たかりけり。
[二九三]
弘法大師は筆を口にくはへ、左右の手に持、左右の足にはさみて、一同に眞草の字をかゝれけり。さて五筆和尚とも申なるとかや。ふしぎなることなり(*『本朝神仙傳』)。
古今著聞集卷第七
術道第九
[二九四]
術道一にあらず、その道まち〳〵にわかれたり。推古天皇十年(*602)百濟國より曆本・天文・地理・方術(*醫術・卜占等)書を奉りてよりこのかた、道をならひ傳〔傳、一本作侍。同イ本與此同〕て今にたゆる事なし。其中に秘術しるしをあらはして奇異多く聞ゆ。くはしくしるすにいとまあらず。
[二九五]
御堂關白殿(*藤原道長)御物忌に、解脱寺(*東三條院詮子創建)僧正觀修(*俗姓志紀氏)・陰陽師晴明(*安倍晴明。安倍益材男)・醫師忠明(*丹波忠明。丹波重明男)・武士義家〔義家、一イ本旁書曰時代不審也〕朝臣(*源賴光カ)參籠して侍けるに、五月一日南都より早瓜を奉りたりけるに、御物忌の中に取入られん事いかゞあるべきとて、晴明にうらなはせられければ、晴明うらなひて、一の瓜に毒氣さぶらふよしを申て、一をとり出したり。加持せられば毒氣あらはれ侍べしと申ければ、僧正に仰て加持せらるゝに、しばし念誦の間に其うりはたらきうごきけり。其時忠明に毒氣治すべきよし仰られけれ〔けれ、據一本補〕ば、瓜を取まはし〳〵見て、二所に針をたててけり。其後瓜はたらかず成にけり。義家に仰て瓜をわらせられければ、腰刀をぬきてわりたれば、中に小蛇わだかまりて有けり。針は蛇の左右の眼に立たりけり。義家何となく中をわると見えつれども蛇の頭を切たりけり。名をえたる人々のふるまひかくのごとし。ゆゝしかりける事也。この事いづれの日記にみえたりといふ事をしらねどもあまねく申傳へて侍り。
[二九六]
陰陽師吉平晴明子(*安倍吉平。安倍晴明男)醫師雅忠(*丹波雅忠。丹波忠安男)と酒をのみけるに、雅忠盃をとりてうけてしばしもたれけるを、吉平みて御酒とくまいり給へ。只今ないのふり候はんずるぞといひけり。其ことばたがはずやがてふりければ、酒がぶときてこぼれにけり。ゆゝしくぞかねていひける也〔也、一本旡。似是〕。
[二九七]
九條大相國(*藤原伊通。藤原宗通男)淺位の時、なにとなく后町(*常寧殿)の井を立よりて底をのぞき給ける程に、丞相の相あひ見えける。うれしくおぼして歸りて鏡をとりて見給ければその相なし。いか成ことにかとおぼつかなくて、又大内にまいりて彼井をのぞき給ふに、さきのごとく此相見えけり。其後しづかにあんじ給に、かゞみにてちかくみるにはその相なし。井にて遠くみるには其相あり。此事大臣にならんずる事とをかるべし。つゐにむなしからじ〔じ、原作ん。據一本改〕と思ひ給けり。はたしてはるかに程へて成給にけり。此おとゞはゆゝしき相人にておはしましけり。宇治のおとゞ(*藤原賴長)もわざと相せられさせ給けるとかや。
[二九八]
宇佐大宮司なにがしとかや、癩病をうけたる由聞へありて、一門の者ども改補せらるべきよし訴へ申ければ、大宮司はせのぼりて醫師にみせられて實否をさだめらるべきよし奏し侍ければ、和氣・丹波のむねとあるともがらに御尋有けり。中原貞説(*和氣貞説。和氣貞相男。一時丹波門生)もおなじく召に應じて御尋に預りけり。各白らいといふ病のよしを奏しけり。療治すべきよしの勘文(*上表文)を奉るべきよし仰下されければ、めん〳〵に罷出てしるして參らすべき由申けるに、貞説申けるは、非重代の身にて一卷の文書のたくはへなし。知りて侍る程の事は當座にて勘がへ申べしとて則しるし申けり。もろ〳〵の醫書ども皆悉く引のせてゆゝしく注申たりければ、叡感有て申うくるに隨ひて和氣の姓を給はせける。後には諸陵正になりて子孫いまにたえず。
[二九九]
野々宮左府【公繼】(*藤原公繼。藤原實定男)おさなくおはしける時、母儀さまをやつしてぐし奉りて、播磨の相人とて名譽の者ありけるにゆきて、相を見せ〔見せ、一本旡。一イ本旡見字〕させられけり。相人よく〳〵見申て必一にいたり給べきよしを申けり。母儀あらがひて、是はさ程の位にいたるべき人にあらず。さぶらひ程のものゝ子にて侍なりとの給ひければ、相人申けるは、まことに侍にておはしまさば撿非違使などに成給べきにや。いかにも大臣の相おはします物をと申けり。後德大寺左大臣の末の子にておはしけるが、このかみ(*藤原公綱、藤原公守、藤原公廣。)みなうせ給て家をつぎて、大將をへて左右大臣從一位にいたりて天下の權をとり給ける。ゆゝしく相し申たりけるなり。此事をおとゞ(*公繼)聞たもち給て、相をならひて目出たくし給ひけるとぞ。わがすがたなどをもかゞみを見て相してかねてしり給たりけるとぞ。
[三〇〇]
後鳥羽院御熊野詣有けるに、陰陽頭在繼(*賀茂在繼。賀茂在宣男)をめしぐせられけるに、毎日御所作に千手經を被レ遊ける。件の御經を御經筥に入られたりけるをとり出されけるに、その御經見へず。いかにもとむれどもなかりければ、在繼をめしてうらなはせられけるに、いかにもうせざるよしを申て、猶よく〳〵もとめらるべし。あやまりていまだ箱の内に候ものをと申けり。其後又もとめられければ御經箱のふたに軸つまりてつきたりけるをえ見ざりけり。叡感ありて御衣を給はせけるとなん。
古今著聞集卷第七 終
目録
第八 能書
第九 術道