古今著聞集 序・目録・卷一
橘成季
(『古事談・古今著聞集・十訓抄・榮華物語』 國史大系15 經濟雜誌社 1901.10.15)
※ 〔原文頭注等〕、【原文割注】、(*入力者注記)。振り仮名・振り漢字を施した。
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序
惣目録
巻一 神祇
古今著聞集序
夫著聞集者、宇縣亞相(*源隆国)巧語之遺類、江家都督(*大江匡房)淸談之餘波也。余稟二芳橘之種胤一、顧二璅材之樗質一、而琵琶者賢師(*藤原孝時)之所レ傳也、儻辨二六律六呂之調一、圖畫者愚性之所レ好也、自養二一日一時之心一。於戯春鶯之囀二花下一、秋雁之叫二月前一、暗感二幽曲之易一レ和。風流之随二地勢一、品物之叶二天爲一、悉憶二彩筆之可一レ寫。繇レ茲或伴二伶客一、潜樂二治世之雅音一、或誂〔注丨誂、原作詑。今從一本。〕二畫工一、畧呈二振古之勝槩一。盖居多二暇景一以降、閑度二徂年一之故、據-二勘此兩端一、捜-二索其庶事一。註緝爲二三十篇一、編次二十卷、名曰二古今著聞集一。頗雖レ爲二狂簡一、聊又兼二實録一。不三敢窺二漢家經史之中一、有二世風人俗之製一矣。只今知三日域古今之際有二街談巷説之諺一焉。猶愧三淺見寡聞之疎越一、偏招二博識宏達之盧胡一。努〻不レ出二蝸廬一。謬比二鳴〔注丨鳴、一本作鴻。似是。〕賓一。于レ時建長六年(*1254)應鐘(*十月)中旬、散木士橘南袁愗(*憗カ)課二小童一、猥叙二大較一而已。
古今著聞集惣目録
(*各話題目〔青字〕は古典大系本により補う。)
古今著聞集卷第一
神祇第一
[一]
天地いまだわかれず渾沌雞の子のごとし。そのすめるはたなびきて天となり、にごれるはしづみとゞこほりて地となる。ときに天地のなかにひとつのものあり。かたち葦牙のごとし。すなはち化して神となる。國常立尊これなり。それよりこのかた天神七代地神五代なり。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御子神武天皇よりぞ人代とはなりにける。この御とき戊子のとし九月にはじめてもろ〳〵の神祇まつられけり。第十代崇神天皇六年に天照大神を笠縫邑にまつり奉る。同七年に天社國社をよび諸國諸神の神戸をさだめらる。そのゝち世おさまり民ゆたかなり(*原文「ゆたたなり」)。第十一代垂仁天皇廿五年三月にあまてる御神の御をしへにしたがひて、伊勢の國いすゞの川かみにいはひ奉て、第二のひめみこ〔ひめみこ、一本作皇女。〕倭姫命を齋宮にたてまつられけり。およそわがてうは神國として、大小の神祇部類けんぞく權化の道感應あまねく通ずるものなり。いはゆる神功皇后の三韓をたいらげ給ふにも、天神地祇こと〴〵くあらはれ給ひけるとぞ。これによりてかたじけなくも廿二社のそんしん〔尊神〕をさだめて、もつぱら百王百代の鎭護にそなへ奉る。天子よりはじめてしよじんにいたるまで、そのめいとくをあふがずといふ事なし。くはんむ天わうの御宇えんりやく元年(*782)五月四日、うさのみや御たくせんに、むりやうごうの中に三界に化生して、方便をめぐらして衆生をみちびく。名をばだいじざいわうぼさつといふなりとおほせられけり。あはれにたうとくこそはんべれ。
[二]
内侍所はむかしは淸凉殿にさだめをかれ〔をかれ、一本作おき。〕まいらせられ〔られ、一本此下有たり二字。〕けるを、をのづからぶれい(*むらいトモ)の事もあらば、そのおそれ有べしとて、温明殿にうつされにけり。此事いづれの御時のことにかおぼつかなし。かの殿淸凉殿よりさがりたる便なしとて、内侍所にさだめられたる方をば板敷をたかくしきあげられたりけるとぞ。天德内裏燒亡に神鏡みづからとびいで給て、なんでんの櫻の木にかゝらせ給ひたりけるを、をのゝみや殿(*藤原實賴)ひざまづきて、御目をふさぎて、警蹕をたかくとなへて、御うへのきぬの袖をひろげて、うけまいらせられければ、すなはちとびかへりて、御袖にいらせ給たりと申つたへて侍り。されども此事おぼつかなし。其日の御記に云、天德四年(*960)九月廿四日申ノ刻、重光朝臣(*未詳)來申云、火氣頗ル消罷テ至二温明殿一求レ之ヲ。瓦上有二鏡一面一。其徑(*原文「經」)八寸、頭雖レ有二一瑕一圓規甚以分明ニ露出ス。俯二破瓦ノ上一。見レ之者無レ不レ驚。或御記かくのごとし。小野宮殿の事みえず、おぼつかなき事也。寛弘のぜうもうにはやけ給たりけれども、すこしもかけさせ給はざりけり。其時の公卿勅使行成卿(*藤原行成)なり。宸筆の宣命はこの御時はじまれり。長久ノ燒亡にぞやけそんぜさせ給にける。それより其やけさせ給ひたる灰をとりて、からびつに入奉りていまおはします是也。世のくだりざま神鏡の御さまにて見えたり。神威いつとてもなじかはかはり給ふべきなれども、世のくだり行さまをしめし給ふゆへに、かくなりゆかせ給ふにこそ。今行末いかならん。かなしむべきこと也。
[三]
延長八年(*930)六月廿九日夜、貞崇法師勅(*俗姓三善氏)を承りて淸凉殿に候して念佛し侍りけるに、夜やう〳〵ふけて東のひさしに大なる人のあゆむをと聞えけり。貞崇すだれをかきあげて見ければ、あゆみかへるをとして人見えず。其後又小人のあゆみくるをと〔をと、集覽本作聲。〕す。やう〳〵ちかくなりて、女聲にてなにゝよりて候ぞととひければ、勅を承りて候よしをこたふ。小人のいひけるは、先度汝大般若の御讀經つかうまつりしに驗ありき。はじめ歩み來りつるものは邪氣也。彼經によりて足やけそんじててうぶくせられぬ。後のたびの金剛般若の御讀經奉仕の時は驗なかりき。此よしを奏聞して大般若の御讀經をつとめよ。我はこれ稻荷(*伏見稻荷社)の神なりとてうせ給ひぬ。貞崇此よしを〔を、一本旡。〕奏聞し侍けり。
[四]
三井寺の鎭守新羅明神は、娑竭羅龍王の子也。智證大師(*圓珍)渡唐の時、大師の佛法をまもらんとちかひ給てかたちをあらはし、かの寺にあとをたれ給へる也。圓滿院僧正明尊(*俗姓小野氏。道風孫。)はじめて祭禮をおこなはれける。明神よろこばせ給ひて、一首の和歌を詫宣し給ける、
からふねに法まもりにとこしかひはありけるものをこゝの〔の、原作に、據一本改。〕とまりに
[五]
慈覺大師(*圓仁)如法經かき給ひける時、白髪の老翁杖にたづさはりて山によぢのぼりけるが、あなくるし、内裏の守護といひ此如法經の守護といひ、年はたかく成てくるしう候ぞと宣ひけり。たが御わたり候ぞと尋申されければ、住吉の神也とぞなのり給ける。皇威も法威もめでたかりけるかな。住吉は四所おはします。一御所は髙貴德王大菩薩乘レ龍。御託宣にいはく、我是兜率天内髙貴德王大〔大、據一本補。〕菩薩也。爲レ鎭-二護國家一垂-二跡於當朝墨江邊松林下一。久送二風霜一、時有レ受レ苦。自當二北方一有二一勝地一。願奏-二達公家一建-二立一伽藍一、轉二法輪一云々。これによりて神宮寺をば建立せられける也。又津守國基申侍けるは、南の社は衣通姫也。玉津島明神と申也。和歌の浦に玉津島の明神と申は此衣通姫也。昔彼浦の風景を饒に思食し故に、跡たれおはしますなりとぞ。
[六]
北野宰相殿(*菅原輔正)は天神(*菅原道眞)四世の苗裔也。圓融院の御侍讀として道の名譽ゆゝしくおはしましけり。天元四年(*981)に太宰ノ大貳に任じて、同五年(*982)九月に府につきて安樂寺をじゆんれいし給けるに、堂舍は〔堂舍は、一本此下有かず二字。〕ありといへども塔婆未だ見えず。建立のぐはんもとよりありけるによりて造營を始られけり。聖廟よろこび思しめしける故に、永觀二年(*984)六月廿九日の御詫宣にいはく〔いはく、一本作云。〕、大貳朝臣兼式部大輔事に〔に、一本作又、似是。〕希有有爲二家面目一。大貳朝臣内外共末孫又存二信心一。依レ發二造塔寫經之大願一、我深信廻レ謀令二當任一。暫停二他事一早遂二此願一。致二合力一之人々現世後生之大願皆成寸〔寸、一本旡、當衍。〕、生々世々因果令レ熟云々。寺家別當松壽みづからこれを記す。都督いよ〳〵信心を發して、三年が中に多寳塔一基をたてゝ、胎藏界の五佛を安置〔安置、原作あん、今從一本。〕し法花經〔經、據一本補。〕千部を納め奉る。これをひがしの御堂となづく。禪侶をおきて不退のつとめを致さる。彼〔彼、原作其、據一本改。〕の卿宰府(*在府)のあひだ寺家の佛事・神事の儀式・寺務のあるべき次第など委しく記しをかれて、三卷の書と名付て寳藏に納めて今に傳はれり。秩滿の後都へ歸給て長德二年(*996)に參議に任じ、寛弘六年(*1009)十二月に八十五にてうせ給。其後神とあらはれて叢祠(*原文「叢詞」)を庿壇(*北野天神)の傍にひらかる。萬壽三年(*1026)三月に贈正一位の加階にあづかり給ひけり。
[七]
一條院御時、上總守(*上總介〔かみ〕)時重(*未詳)といふ人有。千部の法花經讀誦の願心中にふかゝりけれ共、身まづしくして僧一人かたらふべきはからひなし。思ひかねて日吉のやしろに詣でて二心なく祈申けるに、神感ありてはからざるに上總守に成にけり。任國の㝡前の得分〔得分、原作とくいん、據一本改。〕をもて千部の經を始てけり。其夜の夢に貴僧枕に來て云、よき哉〳〵汝一乘のてんどくくはだつることをとて、感涙をながしておはしましけり。時重かく仰られしは誰にておはしまし候ぞと尋申ければ、貴僧われは一乘の守護十禪師也とこたへさせ給ひて、哥をなん詠じたまひける。
一乘の御法をたもつ人のみぞ三世の佛の師とはなりける
時重かたじけなくたうとく覺えて、生死をばいかでかはなれ候べきと申ければ、
極樂の道のしるべは身をさら〔ら、原作ゝ、據一本改。〕ぬ心ひとつのなをきなりけり
扨かへらせ給ひけるが、立歸りて又詠ぜさせ給ひける、
朝夕の人のうへにも見聞らんむなしきそらのけぶりとぞなる
無常を悟るべき由を終には示してさり給ひにけり。あはれにたうとき事也。
[八]
長暦二年(*1038)に天台座主の闕いできたりけるに、三井寺の明尊大僧正をなさるべきよし關白殿(*藤原賴道)しきりに執申させ給ひけり。山僧此事を聞て蜂起して、十月廿七日五六百人下洛して、左近の馬塲に集まりて奏狀を奉りにけり。此事によりて霜月の受戒もとどまりに〔に、據一本補。〕けり。同三年〔1039〕二月十七日山僧關白殿の門前へ參りてうれへ申けり。十八日にも參ておめきのゝしる(*原文「のゝじる」)聲おびたゝ敷ぞ侍ける。平の直方・同繁貞に仰られてふせがせられける程に、互にきずをかうぶるものおほかりけり。かゝる程に山の敎圓僧都(*藤原孝忠男。東尾房。)、明尊僧正と同意〔意、原作宗、據一本改。〕の聞え有ければ、山僧敎圓をからめてにげさりにけり。とかく怠狀してゆりに〔に、據一本補、下同。〕(*次の「蒙りにけり」を指す。)けるとかや。さて敎圓僧都座主には成にけり。賴壽(*藤原信理男。)・良圓(*藤原實資男。)兩僧都蜂起の張本也とて勅勘蒙りにけり。去程に同七月廿四日より玉體例ならぬ御事有。さま〴〵の御禱〔禱、一本作祈。〕共をこなはれけれ共御減(*驗)なくて日數つもらせ給〔給、原作行、據一本改。〕ける程に、八月十日さんわうの御詫宣有て兩僧都をめされけり。其後ほどなく御減〔減、一本作驗。〕ありける。嚴重なる御事なり。
[九]
同年中比、大中臣佐國祭主になりたりけるを、同三年(*1039)四月二日荒祭宮の御詫宣に祭主なしかへらるべきよしありけり。遷宮の間に不法〔不法已下十八字、據一本補。〕の事有けるゆへとかや。そのあひだに嚴重の事どもあれ共恐れあれば記さず。六月廿六日佐國つゐに伊豆の國へ流されにけり。かゝる程に七月十日荒祭宮齋宮の内侍に御詫宣あり。祭主配流しかるべからずとありけり。同十六日かさねて御詫宣ありて、佐國が孫淸佐をめして仰られけるは、佐國を〔を、據一本補。〕流さるゝ事しかるべからず。先日の詫宣にも配流の事なし。然るをかくのごとく大きなる誤りあり〔あり、一本旡。〕。をこなはるゝ旨道理にそむけり。はやくめしかへすべきよし奏聞すべし。佐國いまだ伊勢の國のさかひを出ざるにめすべき也。勅定待ばをそかりぬべし。是より使をつかはしてめしかへすべしと侍ければ、齋宮の史生をもちてめしにつかはされにけり。此よし奏聞せられければ、同十九日佐國めしかへされけりとなん。其比御詫宣たび〳〵有けり。かたじけなかりける事也。
[一〇]
延久二年(*1070)八月三日、上總國一のみやの御詫宣に、懷姙の後既に三年にをよぶ。いま明王の國をおさむる時にのぞみて、若宮を誕生すと仰られけり〔けり、原作それ、據一本改。〕。これによりて海濱を見ければ明珠一顆ありけり。かの御正體にたがふ事なかりけり。ふしぎなる事なり。
[一一]
後三條院御時、くにのみつぎ物廣田(*廣田社)の御まへの澳にておほく入海の聞えありければ、宣旨をかのやしろへ下されて、みつぎ物をまつたうせられぬよし逆鱗ありけるに、社のほとりの木一夜にかれにけり。主上きこしめしおどろかせ給て、なだめ申されければ、木もとのごとくさかえにけり。其後舟も入海せざりけり。
[一二]
大學寮の廟供には、昔はゐのしゝ・かのしゝをもそなへけるを、ある人の夢に尼父(*孔子。字仲尼)のの給はく、本國にてはすゝめしかども、この朝にきたりし後は、大神宮來臨同レ禮。穢食供すべからずとありけるによりて、後には供せずなりにけるとなん。
[一三]
知足院殿(*藤原忠實。宇治殿・富家殿。)内覽のせんじをとゞめられさせ給たる事ありけり。ねん比に春日大明神にきねんせさせ給ける程に、大明神北政所につかせ給ひて、今一世はあるべきなりと兩三度仰られけり。哥を一首よませ給たりけるとかや、尋てしるすべし。大明神還〔還、原作遷、據一本改。〕御の後ぞ北政所れいの御心には成給にける。はたして更に又御しゆつし有て天下のまつりごとを執せ〔執せ、一本作執させ三字。〕給にけり。是くだんの(*併〔しかしながら〕を件と誤記カ)大明神の御めぐみ也。
[一四]
元永元年(*1118)四月九日、顯通大納言(*源顯通。)中納言・右〔右、據一本補。〕衞門督にて公卿勅使奉りて下られけるに、いづれの宿とかやにて宸筆の宣命をとりおとして〔て、據一本補。〕たゝれにけり。いそぎ人を返しつかはして求められけれど、日次などはたがひてや侍りけん。父の大相國(*源雅實)其時右大臣にておはしけるが、この事をきかれて家つぐまじきものなりとぞ宣ひける。保安三年(*1122)正月廿三日に大納言にはなられけれども、四月にむねを煩ひて、父のおとゞにさきだちて八日にうせられにけり。おとゞの案にたがはざりけり。中院右大臣(*源雅定。顯通弟。)宰相中將にて侍けるぞ家をばつがれける。
[一五]
基隆朝臣(*藤原基隆。藤原家範男。)周防國をしりける比、保安三年(*1122)十月にかたりけるは、彼國に嶋の明神とておはします。神主牢籠(*逼迫)の事有て、論じけるもの有とて神田をかりとらんとしければ、寶前(*広前)より蛇三百計出たり。其内につの有二つ有けり。しばしありて入ぬ。其後猶からんとしければ、烏數萬とび來りて、神田の稻の穗をくひぬきて、みな神殿の上に葺けり。ふしぎの事也。遠〔遠、原作本、據一本改。〕國の神かゝる事中〳〵おはするもの也。
[一六]
さか〔か、原作る、據一本改。〕とのさゑもんの大夫源の康季は年比賀茂につかうまつりけり。ある夜御戸開に參りける程に、鴨川の水出て通がたかり〔かたかり、一本作かたなかり。〕ければ、岸のうへに思ひやり奉りて居たりけり。かゝる程に御戸開きまいらせんとするに、いかにもひらかれさせ給はざりければ、社司共せんつきてねぶり居たり〔たり、一本旡。〕ける程に、ある社司の夢に、康季が參るをまたせ給ひて、開かぬよしを見てけり。是によりて氏人共をむかへにつかはしたりければ、岸の上に忙然としてゐたりけるをすくうがごとくにしてまいりにけり。其後ぞ御戸はひらかれにける。康季かく神慮に叶ひけるゆへにや、さしも有がたき大夫の尉に近康・康綱・康實・康景、四〔四、原作累、今從一本。〕代たえず成にけり。此外季範・季賴・季實・季國・康重・康廣も此康季が子孫にてみな此職をきはめたり。他家にはありがたき事也。
[一七]
保延五年(*1139)五月朔〔朔、一本作一。〕日祈雨の奉幣有けり。大宮の大夫師賴卿(*源師賴。源俊房男。)奉行せられけるに、大内記・儒弁(*儒者の辨官)さはりありて參らざりければ、宣命をつくるべき人なかりければ、上卿は〔は、一本旡、似是。〕しのびて宣命をつくりて、少内記相永作たるとぞ號せられける。此宣命かならず神感有べきよし自讃せられけるに、はたして三日雨おびたゞしくふりたりけるとなん。
裏書云、彼宣命詞、
天皇賀詔旨良麻止掛畏支其大神乃廣前爾恐美恐美毛申給波久止申須。今年之春東作之比爾、雨澤順レ旬天年穀有レ年倍支由乎令二祈申一給比支。而毛神明乃靈鍳爾依天稼穡乃豐登乎期給爾、頃月昊雲久凝膏雨不レ灑天、百穀漸枯禮萬民苦レ業都倍之。大神者〔者、據一本補。〕日域爾垂レ跡多末倍留遂〔遂、恐當作邃。〕窟雨師、傳レ名太末倍留靈祠奈利。然則名山大澤與利興レ雲之致レ雨之天、赤土得二潤澤之應一、濟疇誇二獲收之功一牟古止波、大神乃旡レ限支冥助爾可レ在之止所二念行一天奈牟、故是以吉日良辰乎擇定天、官位姓名乎差使天、禮代乃大幣乎令二捧持一天、黑毛乃御馬一疋乎牽副天奉レ出賜布。掛畏大神此狀乎平久聞食天、炎氣忽二散天嘉澍旁降天、田園滋茂之天人民豐稔奈良牟。天皇朝廷乎寳位無レ動久常石堅石爾夜守日守爾護幸給比、食國乃天下乎毛無爲無事爾守恤給倍止恐美恐美毛申給波久申。
保延五年(*1139)五月一日 作者少〔少、據一本補。〕内記文屋相永
[一八]
隆覺法印(*源顯房男。源雅實弟。)、保延五年(*1139)に興福寺別當に成たりけるを、衆徒用ゐざりければ、隆覺いかりをなして數百騎の軍兵をおこして、十一月九日三方より興福寺をうちかこみてけり。隆覺が方の兵寺中へみだれいらんとする間合戰に及びて、隆覺が方の軍兵多く命を失ひ〔失ひ、一本此下有に字。〕けり。廿餘人は生取にせられにけり。隆覺衆徒の頸を切て御寺を燒うしなふべきよし下知たりければにや、隆覺が兵の中に放火の具を持たる物有けり。寺の外の小家一二燒たりけれども雨ふりてきえにけり。大かた合戰の間ふしぎ共多かりけり。春日山に神光有けるが合戰はてゝ見えずなりにけり。ある人の夢にも御寺の方の兵鹿のかたち成けりと見けり。又神主時盛(*大中臣經元男。)が夢には弓袋さしたる兵數萬騎ありけり。時盛あやしみて問け〔け、原作そ、今從一本。〕れば、春日大明神の御合戰御訪に、藤入道殿まいらせ(*原文「のいらせ」)給ふ兵也とぞ答へける。時盛驚く程に隆覺が兵入にけり。大明神の御はからひにて衆徒合戰利〔利、一本作理。〕にしける。嚴重也ける事也。藤入道殿とは誰の御事にか。宇治の左府(*藤原賴長)御記(*台記〔治相記〕)には御堂(*原文「御室」)の御事にやとぞ侍なる。
[一九]
いつ〔いつ、一本此下有の字、似是。〕比の事にか、德大寺のおとゞ(*藤原實能)熊野へ參り給ひけり。讃岐國しり給ひける比也ければ、かれより人夫おほくめしのぼせて侍けるが、多くあまりたりければ少々返し下されける中に、ある人夫一人しきりに歎き申けるは、高き君の御德によりて幸に熊野の御山拜み奉らん事を悦び思ひ〔び思ひ、據一本補。〕つるに、あまされまいらせて歸下らん事かなしき事也。たゞまげて召ぐせさせ給へと奉行の人にいひければ、さりとては餘りたれば、さのみ何のやうにせん〔せん、一本此下有ぞ字。〕といひければ、なく〳〵愁へて只御功德に食ばかりを申あたへ給へ。いかにも宮づかへは仕候べしとねん比に申ければ、あはれみて具せられけり。實にもかひ〴〵しく宿々にては人もをきてねども、諸人がこりの水をひとりと汲みければ、こりざほ(*垢離小男カ)となづけて人々もあはれみけり。さておとゞ參りつき給ひてほうべいはてゝ、證誠殿の御前に通夜して、參詣の事ずいきのあまりに、大臣の身に藁沓・はゞきを着して、長途をあゆみまいりたるありがたき事也と心中に思はれて、ちとまどろまれたる夢に、御殿より髙僧出給ひて仰られけるは、大臣の身にてわら沓・はゞきして參りありがたき事に思はるゝ事、此山のならひは院・宮みなこの例也。あながちにひとり思はるべきことかは。こりざほのみぞいとおしきと仰らるゝと見給ひてさめにけり。おどろき恐れて其こりざほのことを尋らるゝに、しか〴〵と始よりの次第申ければ、あはれみ給ひて國にやしきなど永代かぎりてあて給ひけり。いやしき下臈なれ共心をいたせば神明あはれみ給ふ事如レ此。
[二〇]
應保二年(*1162)二月廿三日、中納言實長〔長、原作仲、據補任改。恐依訓誤者、下同。〕卿(*藤原實長。藤原公行男。)日吉行幸行事の賞にて、從二位をゆるされける。後德大寺左大臣(*藤原實定。)同官にてこえられにけり。なげきながら時々出仕せられけれども、同日には出仕なかりけり。かゝる程に故〔故、一本作後。同イ本與此同。〕右大臣(*藤原公能。號大炊御門。)大炊御門の家に行幸有しふるき賞をつのりて、同年八月十七日同從二位をゆるされけり。されども猶下臈也。長寛二年(*1164)潤十月廿三日大臣めしのつゐでに共に大納言に任ず。さりながらもうらみは猶盡せず。永萬元年(*1165)八月十七日大納言を辭して正二位をゆるさる。かんだちべくわんをやめて加階の例めづらしけれ共、實長卿こえかへさんの思ひふかくて思たゝれけるとぞ。とかくしてしづまれ侍けるを世の人おしみあへりけり。思ひわびてさまをやつしてひそかに春日社に詣て、身の行すゑ思ひ定むべきよし祈請せられける程に、若宮俄にかんなぎに御詫宣有てさきの大納言を召出し給ひけるを、しばしはまことしからず思ひて、猶立かくれられたりけれ共、ふしぎ(*原文「ざ」)成しるしども侍れば、たへかねて出られにけり。將相の榮花を極めて君につかへん事程有べからず。思なげく事なかれと仰られければ、信仰の涙をのごひ歡喜の思をなして下向せられにけり。其比詩哥の秀句も多く聞えける中に、
罷レ官未レ忘二九重月〔月、一本作日。同イ本與此同。〕一。 有レ恨將レ逢二五度春一。
かぞふれば八とせへにけりあはれわが治しことは昨日と思ふに
これらを聞て世の人いとゞおしみあへる事かぎりなし(*原文「かがりなし」)。かくて年月をふる程に、治承元年(*1177)三月五日、妙音院のおとゞ(*藤原師長。藤原賴長男。)内大臣にておはしましけるが、太政大臣にのぼり給ひ〔給ひ、一本旡。〕て、小松のおとゞ(*平重盛)大納言の左大將にて侍けるが、内大臣にのぼられけるかはりに大納言にかへり成つゝ、六月五日内大臣程なく大將を辭し申されければ、さりとも此闕にはとたのみ深かりけれ共とかくさはりて月日の過ければ、此のぞみ成就せば嚴島に詣づべき由心の中に願を立られける程に、十二月廿七日つゐに左大將になられにけり。若宮の御詫宣も思ひ合せられ、嚴島の宿願もたのみ有てぞ思ひ給ひける。同三年(*1179)三月晦日いつく島(*原文「いづく島」)に參るとて出られにけり。大納言實國卿(*藤原實國。藤原公敎男。)・中納言實家卿(*藤原實家。藤原實定弟。)などともなひ侍けるとぞ。此日中御門左府(*藤原經宗。藤原經實男。)も參り給〔給、一本此下有たり二字。〕けり。三條左大臣入道(*藤原實房。藤原公敎男。)その時大納言なり。六條の太政大臣(*藤原賴實。藤原經宗男。)の中將にて侍りけるもおはしける、伴ひ申されけり。此度の事にや、中將かの島の寳前にて太平樂の曲をまはれけるが面白かりける事也。
[二一]
仁安元年(*1166)六月、仁和寺の邊なりける女の夢に、天下の政不法なるによりて、賀茂の大明神日本國をすてゝ他所へわたらせ給べきよし見てけり。同七月上旬祝久繼(*賀茂久繼。賀茂能久男。)が夢にも同體に見てけり。是によりて泰親(*安倍泰親。安倍泰長男。)・時晴(*漏時晴。)をめして占はせければ實夢の由各申けり。
[二二]
治承四年(*1180)九月、高倉の院いつくしま(*原文「いづくしま」)に御幸ありけり。御願文みづから御草ありて殿下普賢寺殿(*藤原基通。藤原基實男。)淸書させ給ひける。希代の事にや。彼御願文ことに目出度かりければ、後日に藏人宮内少輔親經(*藤原親經。藤原俊經男。)表を書て奉りけるとなん。
[二三]
興福寺の僧のいまだ僧綱などにはのぼらざりけるが、學生などには〔などには、一本作にては、或是。〕侍けれ共いとまづしかりければ、春日社に參りて申けれ共其しるしもなかりければ、寺のまじらひも思ひたえて八幡に詣でゝ七日こもりて祈念しけるに、或夜夢にゆゝしげなる客人の參り給へりけるに、大菩薩御對面有由なり。客人それがしと申僧やこもりて候と申給ければ、さる事候と答へ申させ給けり。又客人宣はく、件の僧年來我を賴みて朝夕にせめ候つれ共、今度必出離すべきもの也。もし樂にほこりなばいかゞと思ひ候へば、ひかへて御ゆるし有まじく候と申させ給ひけり。此僧この事をきゝて、此客人は誰にてわたらせ給し〔し、一本旡、恐衍。〕ぞと人に尋ければ、春日大明神の御わたり也と答て〔て、一本作へ、似是。〕けり。扨夢さめぬれば今生のけちゑん〔けちゑん、一本作結願、恐非。〕もうれしく、來世の得脱もたのもしくて、なく〳〵本寺に歸りて、他事なく後生のつとめをはげみて、つゐに往生をとげにけり。此事山の桓舜(*源到遠男。)が稻荷の利生蒙り、日吉のさまたげさせ給けるためし(*発心集等。)にすこしもたがはず侍けり。
[二四]
誰と聞侍しやらん、名をばわすれにけり。其人八幡に參て通夜したりける夢に、御殿の御戸ををし開かせ給ひて、誠にけだかき御こゑにて武内(*武内宿禰。)とめしければ、畏と申〔と申、據一本補。〕て參らせ給。御ていを見奉れば、高年白髪の俗形まします。御裝束は分明ならず。御前に畏て侍ひ給ひ、御ひげ白くながく〔白くながく、一本作ながくしろく。〕して、御居だけとひとしかりけり。又御殿の内よりもさきの御こゑにて、世中亂なんとす。しばらく時政(*北條時政。)が子になりて世を治むべしと仰出されければ、ゝゝ〔ゝゝ、一本作云々。〕唯稱しておはしますと思ふ程に夢さめにけり。此事を思ふに、されば義時朝臣(*北條義時。)は彼御後身にや。その子泰時(*北條泰時。)までもたゞ人にはあらざりけり。
世の中に麻はあとなくなりにけり心のまゝのよもぎのみして
此哥は彼朝臣(*北條泰時。)の詠也。思ひあはせられてはづかしくこそ侍れ。
[二五]
前攝津守橘以政朝臣、わかくより賀茂につかうまつりけるに、四品の望につかれて、思ひあまりて申文を書て、御戸開の夜參りて、何となき願書のよしにて、社司をかたらひて御寳殿にこめてけり。御戸さしまいらせて後、四品の所望かなはねば大明神の御はからひにまかせまいらせんとて申文をこめつる也と披露しければ、社司・氏人等當社の御ふかくに成ぬべしとて、神主一日に百度をなんしける。はたして四品ゆるされにけり。
[二六]
俊乘房(*重源。俗名紀重定。紀孝重男。)、東大寺を〔を、一本旡。〕建立の願を發して、其祈請のために太神宮に詣でゝ、内宮に七ヶ日さんろう、七日みつる〔る、一本旡。〕夜の夢に寳珠を給ると見侍ける程に、其朝袖より白珠おちたりけり。目出度〔目出度、原作日出て、據一本改。〕忝思ひて包みて持て出ぬ。扨又外宮に七日さんろう、先のごとく七日みつる夜の夢に又前のごとく珠を給はられけり。末代といへども信力のまへに神明感(*に以下四字原文闕。)應をたれ給ふ事かくのごとし。其珠一は御室に有けり。一つは卿二品(*源賴朝。)のもとに傳はりて侍ける。夢に大師(*弘法大師)、汝は東大寺つくるべきもの也としめさせ給ひける、はたしてかくのごとくたゞ人にはあらぬ也。
[二七]
熊野に盲目の者、齋燈をたきて眼の明らかならん事を祈る有けり。此つとめ三年に成にけれ共しるしなかりければ、權現を恨まいらせて打ふしたる夢に、汝が恨所そのいはれなきにあらね共、先世のむくひを知べき也。汝は日高河の魚にて有し也。かの河の橋を道者渡るとて南無大慈三所權現と上下諸人唱へ奉る聲〔聲、一本旡。〕を聞て、其縁によりて魚鱗の身をあらためてたま〳〵うけがたき人身を得たり。此齋灯の光にあたる縁を以て又來世に明眼をえて次第に昇進すべき也。此事をわきまへずしてみだりに我を恨る、愚なりとはぢしめ給ふと見てさめにけり。其後ざんげ(*さんげ、さんけトモ。)して、一期をかぎりて此役〔役、此上一本有齋燈の三字。〕をつとめける程に眼もあきにけり。
[二八]
助僧正覺讃(*俗姓藤原氏。)は先達の山ぶし也。那知千日行者、大峯數度の先達也。五十にあまりて有職にも補せざりけるをうれへ、若王子によみて奉りける、
山川のあさりにならでよどみなば流れもやらぬ物やおもはん
夢の中に御返事を給りける、
あさりにはしばしよどむぞ山川のながれもやらぬものなおもひそ
[二九]
承元四年(*1210)正月十六日、大外記良業(*淸原良業。淸原賴業男。)しにたりけるに(*原文「したりけるにに」)、十六日のあかつき(*原文「あかづき」)河内守繁昌〔昌、一本作雅。〕(*平維茂裔孫。)が夢に、賀茂の御前にて除目をこなはるゝけしき也けるに、小折紙に大外記なかはらの師方(*中原師方。中原師直男。)と書れたりと見て覺にけり。いそぎ此由もろかたにつげたりければ、多年〔年、原作く、據一本改。〕つかうまつりたるしるしと覺て忝たのもしく覺えけるに、やがてその夜大外記に成にけり。さきに助敎仲隆・師髙・師季(*中原師季。中原師綱男。)など競望しけるうへ、師方は大監物にて未だ儒官をへざりければ、ぢきに拜任いかゞとさた有けり。重代けいこのもの也けれ共、引たつる人もなかりけるに、忝〔忝、原作亦、據一本改。〕神恩を蒙りて先途(*家柄による極官。)を達してける、目出度程のものなりけり〔けり、據一本補。〕。
[三〇]
前大和守藤原重澄(*藤原成實男カ。)は、賀茂につかうまつりて太夫尉迄のぼりたる者也。若かりける時兵衞尉に成侍らんとて、當社のこ〔こ、原作土、據一本改。〕屋(*土屋倉〔つちやぐら〕。土藏。)を造進したりけり。嚴重の成功にて社家推擧しければ、はづるべきやうもなかりけるに、たび〴〵のぢもくにもれにけり。重澄が上(*上、原作神、據一本改。)の社の師(*御師。)にて侍けるものに申付て、ぢもくの夜祈請せさせける程に、まどろみたる夢に稻荷より御使とて〔とて、據一本補。〕參たるもの有。人出合て是を聞に、かの御使の申けるは、重澄が所望殊更に任ぜらるべからず。我ひざもとにて生れながら我をわすれたるものなりと申ければ、申つぎの大明神に申いるゝよしにて度々御問答ありけり。さらば此度計なされずして思ひしらせて、後の度のぢもくになさるべしと申ければ、御使歸りぬ。師おどろきて急ぎ重澄がもとへ行て、此由を語りて驚あやしむ程に、其夜のぢもくにははづれにけり。此夢の誠をしらんがために稻荷へ參て、つぎの度のぢもくには申も出さゞりけれ共相違なくなされ〔なされ、一本作成。〕にけり。
[三一]
太夫の史淳方(*小槻淳方。)わかゝりける時常に賀茂へ參りけり。ある夜下の社に通夜したりけるに、人來て淳方に告けるは、汝必ず太夫史にいたるべきもの也。其時偏頗有べからず。氏人祐繼(*賀茂祐繼。賀茂祐賴男。)といふ者あり。それを師とすべしとてうせにけり。夢さめてふしぎの思ひをなして祐繼といふ氏人やあると尋ければ、禰宜祐賴が次男にいまだ年わかきもの有と聞て、尋あひて祈りすべき由ちぎりて、其後祐繼も禰宜に至り淳方も前途(*先途。前出。)をとげてけり。官務九年が間淸廉の聞えありし、偏に神の御計ひなりと覺えてやんごとなし。
[三二]
二條宰相雅經卿(*藤原師實裔孫。)は、賀茂大明神の利生にて成あがりたる人也。そのかみ世の中あさましくたえ〴〵にして、はか〴〵しく家なども持ざりければ、花山院(*藤原忠經カ。)の釣殿に宿して、それより歩行にて、ふるにも照にも只賀茂へ參るを〔を、一本此下有もて二字。〕つとめとしてけり。其比よみ侍りけり。
世中に數ならぬ身の友千鳥鳴こそわたれかもの川原に
此哥心のうちばかりに思ひつらねて、世にちらしたる事もなかりけるに、社司【忘-二却其名一。】が夢に、大明神われはなきこそわたれ數ならぬ身にとよみたるものゝいとおしきなり。尋よとしめし給けり。それより普く尋ければ此雅經のよみたる也けり。この示現きゝていかばかりいよ〳〵信仰の心もふかゝりけん。さて次第に成あがりて、二位宰相までのぼりて侍り。是しかしながら大明神の利生也。
[三三]
仁安三年〔1168〕四月廿一日、吉田祭にて侍りけるに、伊與守信隆朝臣(*藤原信隆。藤原信輔男。)氏人ながら神事もせで仁王講をおこなひけるに、御あかしの火障子にもえつきてその夜やけにけり。大炊御門室町なり。そのとなりは民部卿光忠卿(*藤原光忠。藤原經實男。)の家也。神事にて侍りければ火うつらざりけり。おそるべき事にや〔にや、一本作也、或是。〕。
古今著聞集卷第一終
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惣目録
巻一 神祇