古今著聞集 卷五
橘成季
(『古事談・古今著聞集・十訓抄・榮華物語』 國史大系15 經濟雜誌社 1901.10.15)
※ 〔原文頭注等〕、【原文割注】、(*入力者注記)。振り仮名・振り漢字を施した。
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目録
第六 和歌
(目録)
古今著聞集卷第五
和歌第六
[一四二]
和哥は素盞烏の古風(*八雲立つの歌)よりおこりて久しく秋津洲の習俗たり。三十一字の麗編をもて數千萬端の心緖をのぶ。古今の序にいへるが〔が、據一本補〕ごとく、人の心をたねとしてよろづのことのはとぞなりにける。これによりて神明・佛陀もすて給はず、明主〔主、原作王、據一本改〕・賢臣も必賞し給ふ。春の花の下・秋の月のまへ、これをもて豫遊のなかだちとし、これをもて賞樂の友とす。
[一四三]
嵯峨天皇玄賓上人の德をたうとび給ひて僧都になし給けるを、玄賓位記を木の枝にさしはさみて和哥をかきつけてうせにけり。
外都國は水草きよしことしげきあめのしたにはすまぬまされり
さて伯耆國にすみ侍けり。天皇叡感ありて勅をくだして施物有けり。うけとりけるにや、おぼつかなし。
[一四四]
弘徽殿女御哥合に、花かうじ・しらまゆみといへる文字ぐさりを、哥の句のかみにすへて折句の哥によませられける。めづらしかりける事也。おほかたの題には四季・戀をこそもちゐられ侍れ。
[一四五]
花山院御ぐしおろさせ給て後、叡山よりくだらせ給ひけるに、東坂本の邊に紅梅のいと面白う咲たりけるを、たちとゞまらせ給ひてしばし御覽ぜられけり。惟成弁入道(*藤原惟成。藤原雅材男)御供に候けるが、王位をすてゝ御出家ある程ならば、これていのたはぶれたる御ふるまひはあるまじき御事に候と申侍ければ、よませ給ひ〔ひ、一本作ふ〕ける、
色香をばおもひもいれず梅の花つねならぬ世によそへてぞ見る
[一四六]
同院東院にわたらせ給ける比、彈正宮(*冷泉天皇皇子爲尊親王)のうへ(*藤原伊尹女)おなじくすみ給ひけり。十首の題を給はせて人〳〵に哥よませてつかはせ(*ママ)給た〔た、原作け、今從一本〕るに、橘をよませ給ふ〔ふ、一本旡〕ける、
宿ちかく花橘はうへてみじ昔をこふるつまとなりけり
なを昔をおぼしける御心のほどあはれなり。又祝の哥に彈正宮のうへよみ給ける、
萬代もいかでかはてのなかるべき佛に君ははやくならなん
この祝こそ誠にあらまほしきことなれ。松竹にたとへ鶴龜によせて、千年をいはひ萬代を契りてもいかでかはてはなからん。まことに佛の道にいらんのみぞまめやかにつきせぬ御いはひなるべき。
[一四七]
東三條院(*藤原詮子。藤原兼家女、圓融天皇后、一條天皇母)皇太后宮と申ける時、七月七日撫子あはせせさせ給けり。少輔内侍・少將のおもと左右の頭にてあまたの女房かた〔かた、據一本補〕をわかたれけり。うすものゝふたあひがさねのかざみきたるわらは四人、なでしこのすはまかきて御前にまいれりとて、風流さま〴〵になん侍ける。なでしこに付たりける、
なでしこのけふは心をかよはしていかにかすらんひこぼしの空
時のまにかすと思へど七夕にかつ〔つ、原作ほ、據一本改〕おしまるゝなでしこのはな
すはまにたちたるつるに付ける、
數しらぬ眞砂をふめるあしたづはよはひをきみにゆづるとぞみる
瑠璃のつぼに花さしたる臺にあしでにてぬひ侍ける、
七夕やわきてそむらんなでしこのはなのこなたは色のまされる
むしをはなちて、
松虫のしきりにこゑの聞ゆるは千世をかさぬるこゝろなりけり
右のなでしこのませにはひかゝりたるいもづるの葉にかきつけ侍る、
萬代に見るともあかぬ色なれやわがまがきなるなでしこのはな
すはまのこゝろばにみづてにて、
とこなつのはなもみぎはに咲ぬれば秋までいろはふかく見えけり
久しくも匂ふべきかな秋なれど猶とこなつの花といひつゝ
七夕まつりしたりけるかたあり。すはまのさきにみづてにて、
ちぎりけん心ぞながきたなばたのきてはうちふすとこなつの花
ぢん(*沈香)のいは〔は、原作か、據一本改〕ほをたてゝ、くろぼうを土にてなでしこをうへたるところに、
代〳〵をへて色もかわらぬなでしこのけふのためにぞ匂ひましける
此哥共は兼盛(*平兼盛)・能宣(*大中臣能宣)ぞつかうまつり侍ける。これを見る人〴〵おのがひき〳〵(*思い思いに)心〴〵にいひつくるとて、左の人、
かちわたり(*勝を掛ける。)けふぞしつべき〔き、一本作し〕天の川つねよりことにみぎは(*右を掛ける。)をとれば
右の人、
天の川みぎはこと〔こと、原作歌、據一本改〕なくまさるかないかにしつらんかさゝぎのはし
此あそびいと興ありてこそ侍れ。
[一四八]
一條院の御時正曆四年(*993)五月五日、帶刀陣に十番の哥合ありけるに、第〔第、一本旡〕十番の戀のうたに、
逢事の夢ばかりにもなぐさまばうつゝにものはおもはざらまし
思ひつゝこひつゝはねじ逢と見る夢もさめてはくやしかりけり
このつがひをみてたれかしたりけん、哥をよみて帶刀陣に送りける。
さはべのもみぎはのかたもあやめ草おなじ心にひくとしらずや
返事、
おり立てひくとしりせばあやめ草ねたくみぎはになにまさるらん
[一四九]
いつの比の事にか、殿上の人々哥よみ侍けるに、泰憲民部卿(*藤原泰憲。藤原泰通男)參りあひたりければ、各興有て思へりけるに、いそぎ〔いそぎ、原作ゑ、恐急字、今從一本〕のことありて退出すべきよし申されけるを、人々ゆるさゞりければ、さらば和哥をまいらせをきて身のいとまをば給はらんと申されければ各承諾〔承諾、原作別路、據一本改〕ありけり。則哥をかき封じてをきて退出せられにけり。披講の時これをひらき見るに、位署幷題ばかりをかきて奧書に、於二和歌一者追而可レ進と書たりけり。人々感歎してかつはやすからぬよしをもいひけり。大かた名をえたる人は中〳〵なる事はあしかりぬべければ、のがるゝ一の事也。秀歌にはをとりの返しせずといふも故實なるべし。(*國史大系本文は次の段と行を分ける。)
白紙を置事は作法ある事也。題・位署ばかりをかきて、諸人の哥をきて後、これを置て逐電して、講席の座にゐざるとかや。寛平法皇(*宇多法皇)宮瀧御覽の時、源昇朝臣(*源昇。源融男)・友于朝臣(*在原友于。在原行平男)白紙を置たりけり。(*國史大系本文は次の段と行を分ける。)
堀河院御時和哥御會に、京極大殿(*藤原師實。藤原賴通男)御位署に散位從一位藤原朝臣某とかゝせ給たりける。希代の位署なりかし。人目をおどろかしけり。
[一五〇]
嘉保三年(*1096)正月晦〔晦、一本作卅〕日、殿上人船岡にて花を見けるに、齋院選子(*藤原選子、大齋院。藤原師輔女)より柳の枝を給はせけり。人〳〵これを見ければいとのもと〔もと、一本作した〕にはとかゝれた〔た、一本旡〕りけり。他人その心をしらざりけるに、雅通(*源雅通。源顯通男)(*藤原賴宗カト云)たま〳〵古歌(*花見には群れて行けども靑柳の絲の下にはくる人もなし〔拾遺集〕)の一句をさとりて返事を奉りけるにこそ、人々の色もなをりにけれ。紙のなかりければ直衣をやりて書侍りける、
散りぬべきはなをのみこそ尋つれ思ひもよらずあをやぎのいと
其夜の事にや、殿上人齋院へ參りたりける。後用意なからんことをはかり奉りけるにや。さる程に寢殿より打衣きたる女房あゆみ出て、笙をもちて殿上人に〔に、一本旡〕給はせけり。雪にて管をつくり、たるひにて竹を作たりけり。すなはち内裏へもちて參りて御覽ぜさせければ、(*堀河天皇)ことに叡感有て大宮(*藤原歓子、小野皇太后宮。藤原敎通女)へ奉らせ給ける。人々後朝(*翌朝)に齋院へかへりまいりたりければ、酒肴をぞまうけられたりける。用意ありける事にや。
[一五一]
平等院僧正(*行尊。源基平男)諸國修行の時、攝津國住吉の渡りにいたり給て、齋料のつきにければ、神主國基(*津守國基)が家におはして經をよみて立給ひたりけり。其聲微妙にして聞人たうとみ〔み、一本作び〕あへりけり。國基御齋料奉るとて、いづかたへすぎさせ給ふ修行者ぞ。御經たうとく侍り。今夜ばかりはこゝにとゞまり給へかし。御經の聽聞仕らんといはせたりければ、とかくの返事をばの給はず哥をよみ給ける。
世を捨てゝ宿も定めぬ身にしあればすみよしとてもとまるべきかは
かくいひてとをり給ひぬ。其後天王寺別當になりて彼寺におはしましける時、國基參りて天王寺と住吉との境の間の事申入けるに、しばし候へとてあやしく御前へめされければ、かしこまりつゝ參りたりけるに、僧正明障子引あけさせ給て、あの住吉とてもとまるべきかはと〔と、一本旡、當衍〕いかにと仰られたりけるに〔に、據一本補〕、國基あきれまどひて申べき事も申さで、とりばかましてにげにけり。いと興有事也。
[一五二]
基俊(*藤原基俊。藤原俊家男)城外しける事有けり。道に堂あるにむくの木有。その木に六歳ばかりなる小童のぼりてむくをとりてくいけるに、こゝをば何といふぞと尋ければ、やしろ堂と申とこたへけるを聞て、基俊なにとなくくちずさみに童にむかひて、
この堂は神か佛かおぼつかな
といひたりければ、此わらはうち聞てとりもあへず、
ほうしみこにぞとふべかりける
といひ〔いひ、一本作いへり〕けり。基俊あさましくふしぎに覺えて、この童はたゞものにはあらずとぞいひける。
[一五三]
或所に佛事有〔有、一本作し〕けるに、唐人二人來て聽聞しけるに、磬に八葉の蓮を中にて孔雀の左右に立たるを文に鑄つけたりけるを見て、一人の唐人、捨レ身惜レ花思といひけるを、今一人聞てうちうなづきて、打不レ立有レ鳥といひけり。きく人その心をしらず。ある人のどかにあんじつらねければ連哥にて侍りけり。
身をすてゝ花をおしとや思ふらんうてどもたゝぬ鳥もありけり
かくおもひえてけり。わりなくぞ思ひつらねける。
[一五四]
天永元年(*1110)齋宮群行有けるに、八條太政大臣(*藤原〔三條〕實行。藤原公實男)權右大弁(*權右中辨)にてくだられ〔られ、一本此下有たり二字〕けるが、かへりのぼるとて齋宮(*白河天皇女恂子、樋口齋宮)に參りて日來つかうまつりつる御名殘など、もし運侍らば公卿勅使にて又參る事も侍なんと申てのぼり給けり。去程に其次の年正月廿三日に藏人頭に補して、永久三年(*1115)四月廿八日に參議にのぼり給にけり。保安三年(*1122)十二月六日參議右衞門督にて勅使承りて〔て、據一本補〕くだり給ひけるが、齋宮へもまいらでのぼられければ、宮よりつかはしける、
昔せしあらましごとの變らぬをうれしとみしはいはましものを
御返し〔し、一本作事〕、
伊勢の海しほひのかた(*潟に方を掛ける。)へいそぐ身をうらみ(*恨みに浦見を掛ける。)なはてそ末もはるけし
[一五五]
久壽元年(*1154)二月十五日、法皇(*鳥羽法皇)美〔美、原作微、據一本改〕福門院(*藤原得子。藤原長實女)御同車にて鳥羽の東〔東、原作車、據一本改〕殿より勝光明〔明、原作門、據一本改〕院へ御幸有て庭の櫻を御覽ぜられけり。先阿彌陀講を修せられける。法皇少納言入道信西(*藤原通憲。藤原實兼男)を御使にて、御哥を内大臣(*藤原〔德大寺〕實能。藤原公實男)・新大納言(*藤原〔三條〕公敎。藤原實行男)等に給はせけり。檀紙に書てさくらの枝に付られたり。内府に給はせける御哥、
心あらば匂ひをそへよさくら花のちの春をばいつかみるべき
大納言に給はせける御哥、(*歌闕、一行空き。)
各御かへし〔かへし、一本作返事〕をよみてもとの枝につけて奉りける。内府、
心ありてさくてふやどの花なれば末はる〴〵と君のみぞみん
大納言、
君が代の末はる〴〵にさくらばなにほはんこともかぎりあらじな
大相國(*藤原實行。藤原公實男)このことを聞給〔給、據一本補〕て二首を〔を、據一本補〕法皇に奉り給ひける。
櫻花ちづかのかずをかぞふればかずもしられぬのちのはるかな
限りありてつねならぬ世の花のみはちとせの後やにしになるべき
[一五六]
保元の亂によりて新院(*崇德院)讃岐國にうつらせおはしましけり。和哥の道すぐれさせ給ひ〔給ひ、一本旡〕たりしに、かゝるうきこと出きたれば、此道すたれぬるにやとかなしく覺えて、寂念法師(*藤原爲業。藤原爲忠男)がもとへよみてつかはしける、西行法師、
ことのはのなさけたえぬる折ふしにありあふ身こそ悲かりけれ
返し、寂念法師、
しきしまやたえぬる道もなく〳〵も君とのみこそ跡をしのばめ
[一五七]
西行法師法勝寺(*白河天皇建立)の花見にまかりけるに、其日上西門院(*鳥羽天皇皇女恂子)の女房おなじくみける中に、兵衞局(*源顯仲女、待賢門院兵衞、上西門院兵衞)ありと聞て、昔の花見の御幸おもひいで給らんなどいひて、その日雨のふりたりければ、かくぞ申つかはし侍りける。
みる人に花もむかしをおもひ出て戀しかるらんあめにしほるゝ
返し、兵衞局、
いにしへをしのぶるあめとたれかみん花にむかしの友しなければ
[一五八]
平治元年(*1159)二月廿五日、(*二條天皇)御方違の爲に押小路殿(*美福門院御在所。二條天皇養母)に行幸ありけり。透廊にて夜もすがら御遊ありけるに、女房の中より硯蓋〔蓋、原作筥、今從一本〕に紅の薄樣をしきて、雪をもちて出されたるに和哥をつけたりける。
月影のさえたるおりの雪なればこよひは春もわすれぬるかな
返し、
くまもなき月の光のなかりせばこよひのみゆきいかでかはみむ
[一五九]
應保二年(*1162)正月の比、殿下(*藤原基實。藤原忠通男)女御殿(*藤原〔德大寺〕育子、二條天皇女御。德大寺實能女)の御方の女房をともなはせ給て禁中をみめぐらせ給ひけるに、雪・月いとおもしろかりける。内の女房の中より藏人の兵衞尉通定(*源通定)をして、女御殿の女房の中へ申おくりける、
月はれて雪ふる雲のうへはいかに
通定左衞門陣のかたへたづねまいりてこのよしを申ければ、はやく返事を申さるべきよしを殿下仰られければ、
たちかへるべき心地こそせね
[一六〇]
長寛(*1163−1165。二條朝)の比、六角左衞門督家通(*藤原家通)中將にて侍りけるに仰られて、承香殿の梅をおらせられて、中宮(*藤原〔德大寺〕育子、二條天皇女御。德大寺實能女)の御かたへまいらせられて内侍にたまはせけり。ゆきてみねどおりてみるよしを申べし〔申べし、一本作いへば、恐非是〕と仰られければ、則もて參りてそのよしを申ければ、御〔御、據一本補〕返し、
色もかもえならぬ梅の花なれや
家通朝臣かへり參りて此よしを奏しければ、やがて御かへしつかうまつるべき由おほせられければ、
にほひは千代もかはらざらなん
[一六一]
永萬元年(*1165)九月十四日、五更におよびて、頭亮の書札とてかみやがみにたてぶみたる文を、頭中將家通朝臣(*藤原家通)のもとへもて來りけり。ひらきて見れば紅のうすやうに哥を書たり。
名にたかきすぎぬるよは(*八月十五日夜半)にてりまさるこよひの月を君は〔は、一本作か〕みじとや
筑前内侍(*未詳)・伊豫内侍(*源親弘女)などのしはざにや。その使返事をとらでにげかへらんとしけるを、侍どもさとりて門をさしていださず、やがて紅のうすやうにかへしを書てたまはせける。
いかでかはふせやにとてもくまもなきこよひの月をながめざるべき
かくなんかきて、もとのごとくかみやがみにたてぶみて使にかへしたびて、月をも御覽ぜで、御よるなれば此御ふみまいらするにおよばず。もし急〔急、原作兼、據一本改〕事ならばあすもてまいれといはせてかへしければ、使しぶるけしきながらもて歸りに〔に、據一本補〕けり。いと興あることなりかし。
[一六二]
同御時(*六條朝)の事にや、いろはの連哥ありけるに、たれとかやが句に、
うれしかるらん千秋萬歳(*正月の舞)
としたりけるに、此次句にゐもじにやつくべきにて侍る。ゆゝしき難句にて人々あんじわづらひたりけるに、小侍從(*石淸水別當藤原光淸女、待宵小侍從)つけける、
ゐはこよひあすは子日とかぞへつゝ
家隆卿(*藤原家隆)の家にてこの連哥侍けるに、
ぬれにけり鹽くむあまのふぢ衣
大進將監貞慶(*未詳。貞度トモ)といふ小さぶらひつけ侍ける、
なぎゆく風にほしてけるかな
人〳〵とよみてなぎ行風をわらひければ、さも候はずとよ。ぬもじのつぎはなもじにて候へばかくつかうまつりて〔て、據一本補〕候。なにの難か候べきとちんじたりけるに、いよ〳〵わらひけり。小侍從がもどきの句といひつべし。
[一六三]
馬助敦賴(*藤原敦賴、道因法師。藤原淸孝男)出家の後、すなはち大納言實國(*藤原實國。藤原公敎男)のもとへまうでたりけるに、扇にかきつけられ侍ける。
紫の雲にちかづくはし鷹はそりてわかばにみゆるなりけり
返し〔し、一本作事〕、道因法師。
はし鷹のわかばにみゆと聞にこそそりはてつるはうれしかりけれ
[一六四]
祭主神祇伯親定(*大中臣親定)、伊勢國いはでといふ所に堂をたてゝ、瞻西上人を請じて供養をとげけり。其布施にてぞ雲居寺をば造畢せられける。かの上人哥をこのまれければ、時の哥よみつねによりあひて和哥の會ありけり。和哥の曼陀羅を圖繪して過去七佛を書奉り、又卅六人の名字を書あらはせり。又諸惡莫作・衆善奉行の文を銘にかゝれたり。色紙形あり。義房公(*未詳)淸書し給ひける。また件曼陀羅は本寺の重寳にてあるべきを、いかなりけることにか、神祇大〔大、據一本補〕副親仲(*大中臣親仲。大中臣親定男)造宮之時、子息土佐權守親經(*大中臣親經。大中臣親仲男)がもとよりきたれりけるを、錢廿貫にて買とゞめてけり。相傳して親守入道がもとにあり。建長元年(*1249)九月、外宮遷宮に予參向の時、この曼陀羅をこひ出しておがみ奉りて記レ之なり。
[一六五]
嘉應二年(*1170)十月九日、道因法師(*藤原敦賴。藤原淸孝男)人〳〵をすゝめて住吉社にて哥合しけるに、後德大寺左大臣(*藤原實定)前大納言にておはしけるが、此哥をよみ給ふとて社頭月といふことを、
ふりにける松物いはゞとひてましむかしもかくや住の江の月
かくなんよみ給ひけるを、判者俊成卿(*藤原俊成)ことに感じけり。よの人〴〵もほめのゝしりける程に、其比彼家領筑紫瀨高の庄の年貢つみたりける船攝津國に入らんとしける時、惡風にあひてすでに入海せんとしける時、いづくよりか來りけん、翁一人出きて、こぎなをして別事なかりけり。舟人あやしみ思ふ程に、おきなのいひけるは、松物いはゞの御句面白う候て此邊にすみ侍る翁の參つると申せといひてうせけり。住吉大明神の彼歌を感ぜさせ給ひて、御體をあらはし給ひけるにや。ふしぎにあらた(*か)なる事かな。
[一六六]
同二年(*嘉應二年。1170)、此哥合の事を廣田大明神海上よりうらやませ給よし、兩三人おなじやうに夢に見奉りけり。道因(*藤原敦賴。藤原淸孝男)そのよしを聞て、又人〴〵の歌をこひて合けり。題社頭雪・海上眺望・述懷、かくぞありける。是も俊成卿判じけり。述懷の歌に二條中納言實綱卿(*藤原實綱)左大弁のとき、宰相敎長入道(*藤原敎長、宰相入道)につがひて、
位山のぼればくだるわが身かなもがみ川こぐ舟ならなくに
彼卿四位・五位の間顯要職をへず、舍弟二人にこえられて沈淪せられけるが、仁安元年(*1166)十一月八日〔八日、據補任當作十八日〕、藏人頭に補して、同二年(*1167)二月十二日〔十二日、據補任當作十一日〕參議に任じ右大弁を兼ず。同三年(*1168)八月四日從三位に叙す。嘉應二年(*1170)十月〔十月、據補任及弁官補任當作正月〕八日左大弁に轉ず。昔の沈淪の恨も散ずる程に、かく打つゞき昇進せられたるに、此哥よまれたるはいかに思はれたるにか。かゝる程に同〔同、據補任當作承安二字〕三年(*1171)正月六日、實守中納言(*藤原實守)宰相中將にておはしけるが、坊官(*東宮坊官人)賞にて正三位せられけるに、左大弁越られにけり。此哥の故にやと時の人沙汰しけるとぞ。誠に詩哥の道は能々思慮すべきこと也。むかしもかやうのためしおほく侍にや、(*國史大系本文はここで改行。)同哥合に社頭雪を女房佐(*大炊御門右大臣家佐)よみ侍ける。
今朝見れば濱のみなみのみやづくりあらためてけり夜半のしら雪
この後又濱南宮燒給にけり。これも哥のしるしにや。彼實綱中納言はおとうとの實房(*藤原實房。藤原公敎男)・實國(*藤原實國。藤原公敎男)などに越〔越、恐此下脱られ二字〕給ひけるときは、
いかなればわがひとつらのみだるらん浦やましきは秋のかりがね〔がね、原作きぬ、據一本改〕
かやうによみ給ひける、いとやさしくて、恨はさこそふかゝりけめども、誠信(*藤原誠信。藤原爲光男)の舍弟齊信(*藤原齊信。藤原爲光男)に越られて、目のまへに惡趣の報をかため給ひけるにはにずや。
[一六七]
伊通公(*藤原伊通、九條大相國。藤原宗通男)の參議の時、大治五年(*1130)十月五日の除目に、參議四人師賴(*藤原師賴)・長實(*藤原長實。藤原顯季男)・宗輔(*藤原宗輔、京極大相國)・師時(*源師時)等中納言に任ず。是みな位次の上臈なりといへども、伊通その恨にたへず、宰相・右兵衞督・中宮大夫三のつかさを辭して、檳榔毛の車を大宮おもてにひき出し〔出し、原作いで、今從一本〕てやぶりたきて後、褐水干にさよみの袴きて馬に乘て、神崎の君(*神崎の遊女)がもとへおはしけり。今はつかさもなきいたづらものになれるよし也。又年ごろかりおかれたりける蒔繪の弓を、中院入道右府〔右府、一本作雅定、雅定于時權中納言也、久安六年(*1150)任右大臣、久壽元年(*1154)出家〕(*源雅定)のもとへかへしやるとて、
八年まで手ならしたりし梓弓かへるをみてもねはなかれける
返し、
なにかそれ思ひすつべき梓弓又ひきかへすおりもありな〔な、原作け、據一本改〕ん
かゝりければ此返事〔事、一本作し、亦是〕哥のごとく、程なく長承二年(*1133)九月に前參議より中納言になられにけり。宇治大納言隆國(*源隆國。源俊賢男)前中納言より大納言になられける例とて、其後打つゞき昇進して太政大臣までのぼり給にき。是は世も今少あがり、人も才能いみじかりける故なり。かやうのためしはまれ事なれば、いまのうちあるたぐひ學びがたかるべ〔かるべ、據一本補〕し。大かたは二條院讃岐(*源賴政女、隱岐石讃岐)が歌を、
うきも猶むかしのゆへとおもはずはいかに此世をうらみはてまし
とよめることはりにかなへるにや。
[一六八]
御堂關白(*藤原道長)大井川にて遊覽し給ふ時、詩哥の舟をわかちて各堪能の人々をのせられけるに、四條大納言(*藤原公任)に仰られていはく、いづれの舟に乘べきぞやと。大納言いはく、和哥の舟にのるべしとてのられける。さてよめる、
朝まだき嵐の山のさむければちる紅葉葉をきぬ人ぞなき
後にいはれけるは、いづれの舟に乘べきぞと仰られしぞ心おごり〔おごり、集覽本作おとり、亦或是〕せられしが、詩の舟に乘て是程の詩を作たらましかば名をあげてましと後悔せられけり。此哥花山院拾遺集をえらばせ給ふとき、紅葉の錦とかへて入べきよし仰られけるに、大納言しかるべからざるよし申されければもとのまゝにて入にけり。
[一六九]
圓融院大井川逍遙の時三の舟に乘者ありけり。帥民部卿經信卿(*源經信。源道方男)又この人におとらざりけり。白河院西河(*大堰河)に行幸の時、詩哥管絃の三の舟をうかべて、其道の人々をわかちてのせられけるに、經信卿遲參の間ことの外に御けしきあしかりけるに、とばかりまたれて參りけるが、三事かねたる人にて、みぎはにひざまづきて、やゝいづれの舟にてもよせ候へといはれたりける、時にとりていみじかりける。かくいはんれうに遲參せられけるとぞ。さて管絃の舟に乘て詩哥を獻ぜられたりけり〔り、一本作る〕。三舟に乘とはこれ也。
[一七〇]
後三條院住吉社〔社、據一本補〕に臨幸ありける時に經信卿序代を奉られけり。その哥にいはく、
沖津風吹にけらしな住吉の松のしづえをあらふしらなみ
當座の秀哥也けり。彼卿のちに俊賴朝臣をよびていはれけるは、古今集にいれる躬恒哥に、
すみよしの松を秋風ふくからに聲うちそふるおきつしら浪
此哥を任大臣の大饗せん日、わが所詠の沖津風の哥中山(*中門トイウ。)の内に入て史生の饗につきなんやと(*躬恒の歌を大臣に喩えればわが歌も末席に列れようかの意)。俊賴云、此仰如何。彼御哥全くおとるべからず。然れ共古今の哥たるよりてかぎり有て(*議論の余地はないが)先任大臣候はんに、御作は一の大納言にて尊者として、南階よりねり上りて對座に居なんとこそ存候へといふ。帥のいはく、さらばさもありなんや。いかが有べきとて感氣ありけり。
[一七一]
能因入道伊與〔與、一本作豆、原本似是。補任云、承安三年(*1173)參木藤實綱實綱任伊與(*伊勢トモ)權守〕守實綱(*藤原實綱カ)に伴ひて彼國にくだりたりけるに、夏のはじめ日久しくてりて民のなげき淺からざるに、神は和哥にめでさせ給ふもの也。心みによみて三島に奉るべき由を國司しきりにすゝめければ、
あまの川苗代水にせきくだせ天くだります神ならば神
とよめるをみてぐらにかきて、神司して申あげたりければ、炎旱の天俄にくもりわたりて大なる雨ふりて、かれたる稻葉をしなべて緑にかへりにけり。忽に天災をやはらぐる事、唐の貞觀の帝の蝗をのめりける故事(*『貞觀政要』に、太宗が蝗害に際し、蝗に向かい、民に代わってわが身を蝕めと言って數匹の蝗を呑み込んだところ天災が終息したことを述べる。)もをとらざりけり。能因はいたれるすきものにてありければ〔ありければ、一本旡〕、
都をば霞とともにたちしかど秋風ぞふく白川の關
とよめるを、都にありながら此哥をいださん事念なしと思ひて、人にもしられず久しく籠居て、色をくろく日にあたりなしてのち、陸奧國のかたへ修行の次によみたりとぞ披露し侍ける。
[一七二]
待賢門院の女房に加賀といふ哥よみ有けり。
かねてより思ひしことよふし柴のこるばかりなるなげきせんとは
といふ歌を年比よみて侍〔侍、一本作持〕たるを、おなじくばさるべき人にいひちぎりて忘られたらんによみたらば集などに入たらん。おもても優なるべしと思ひて、いかゞしたりけん花園のおとゞに申そめてけり。おもひのごとくにやなりけん此哥を參らせたりければ、おとゞいみじく哀におぼしにけり。さてかひ〴〵しく千載集に入にけり。ふししばの加賀とぞいひける。能因がふる舞に似たりけるにや。
[一七三]
中比なまめきたる女房有けり。世中たえ〴〵しかりけるが、みめかたちあいぎやうづきたりけるむすめをなんもたりける。十七八ばかりなりければ、これをいかにもしてめやすきさまならせんと思ひける。かなしさのあまりに八幡へむすめともになく〳〵參りて、夜もすがら御前にて、わが身は今はいかにても候なん。此むすめを心やすきさまにて見せさせ給へと、ずゞをすりて打なき〳〵申けるに、此娘まいりつくより母のひざを枕にして、おきもあがらずねたりければ、曉がたになりて母申やう、いかばかり思ひたちてかなはぬ心にうちより參りつるに、ヶ様に夜もすがら神も哀とおぼしめすばかり申給ふべきに、思ふ事なげにねたまへるうたてさよとくどきければ、むすめ驚きてかなはぬ心地にくるしくて〔て、據一本補〕といひて、
身のうさを中〳〵なにと石淸水おもふ心はくみてしるらん
とよみたりければ、母もはづかしくなりて物もいはずして下向する程に、七條朱雀の邊にて世中にときめき給ふ雲客かつらよりあそびて歸り給ふが、此むすめをとりて車に乘せて、やがて北方にして始終いみじかりけり。大菩薩(*原文「艸/廾」の抄物書き。)この哥を納受ありけるにや。
[一七四]
和泉式部おとこのかれ〴〵に成ける頃、貴布禰に詣でたるにほたるのとぶを見て、
ものおもへば澤のほたるも我身よりあくがれいづる玉かとぞみる
とよめりければ、御社の内に忍びたる御聲にて、
おく山にたぎりてをつる瀧つ瀨の玉ちるばかりものなおもひそ
其しるしありけり〔り、一本作る〕とぞ。
[一七五]
同式部がむすめ小式部内侍この世ならずわづらひけり。限になりて人の顔なども見しらぬ程になりてふしたりければ、いづみ式部かたはらにそひゐて、ひたひををさへて泣きけるに、目をわづかにみあげて、母がかほをつく〴〵とみていきのしたに、
いかにせん行べきかたもおもほへず親にさきだつみちをしらねば
とよはりはてたるこゑにていひければ、天井のうへにあくびさしてやあらんとおぼゆる聲にて、あら哀といひてけり。扨身のあたゝかさもさめてよろしくなりてけり。
[一七六]
江擧周(*大江擧周)和泉の任さりて後病おもかりけり。住吉の御たゝりのよしを聞て、母赤染衞門【大隅守源時用女、或順女(*養女の意カ)云々】、
かはらんといのる命はおしからでさてもわかれんことぞかなしき
とよみて〔みて、據一本補〕みてぐらに書て彼社に奉りたりければ、其夜の夢に白髪の老翁ありて、この幣をとると見て病いへぬ。
[一七七]
鳥羽法皇の女房に小大進といふ哥よみ有けるが、待賢門院の御方に御衣一重うせたりけるを〔を、一本旡。下同〕(*神水を、を指す。)おひて、北野にこもりて祭文かきてまもられけるに、三日といふに神水をうちこぼしたりければ、撿非違使これに過たる失やあるべき。いで給へと申けるを、小大進なく〳〵申やう、おほやけの中のわたくしと申はこれなり。今三日のいとまをたべ。それにしるしなくばわれをぐしていで給へと打なきて申ければ、撿非違使も哀に覺えてのべたりける程に、小大進、
思ひいづやなき名たつ身はうかりきとあら人神になりしむかしを
とよみて、紅の薄樣一重にかきて御寳殿にをしたりける。夜法皇の御夢に、よにけだかくやんごとなき翁の束帶にて御枕にたちて、やゝとおどろかしまいらせて、われは北野右近の馬塲の神にて侍り〔り、一本作る〕。目出たき事の侍る、御使給はりてみせ候はんと申給とおぼしめして、うちおどろかせ給ひて、天神の見へさせ給へる、いかなる事のあるぞ。見て參れとて、御厩の御馬に北面の者をのせて馳よと仰られければ、馳參りて見るに、小大進は雨しづくとなきて候けり。御前に紅の薄樣にかきたる哥をみて、これをとりて參るほどに、いまだ參りもつかぬに、鳥羽殿の南殿の前にかのうせたる御衣をかつぎて、さきをば法師跡をば敷島とて、待賢門院のざうしなりけるものかつぎて、師子をまいて參りたりけるこそ、天神のあらたに哥にめでさせ給たりけると、目出度たうとく侍れ。則小大進をばしけれ共、かゝるもんかう(*問拷)をおふも心わろきものにおぼしめすやうのあればこそとて、やがて仁和寺なる所にこもりゐてけり。力をもいれずしてと古今集の序にかゝれたるは、これらのたぐひにや侍らん。
[一七八]
元永元年(*1118)六月十日、修理大夫顯季卿(*藤原顯季)六條東洞院亭にて柿本大夫人丸供(*人麻呂影供)をおこなひけり。くだんの人丸の影兼房朝臣〔兼房朝臣、一本爲小書分注〕(*藤原兼房)あたらしく夢みて〔夢みて、一本脱〕圖繪する也。左の手に紙をとり、右の手に筆をとつて〔とつて、一本作握て〕、とし六旬ばかりの人なり。そのうへに讃をかく。
柿下朝臣人麿畫讃一首、并序〔并序、一本爲小書分注〕。
大夫姓柿下、名人麿。蓋上世之歌人也。仕二持統・文武之聖朝一、遇二新田・高市之皇子一、吉野山之春風、從二仙駕一而獻レ壽。明石浦之秋霧、思二扁舟一而瀝レ詞。誠是六義之秀逸、萬代之美談者歟。方今依レ重二幽玄之古篇一、聊傳二後素之新樣一。因有レ所レ感。乃作レ讃焉。其詞〔詞、此下恐脱曰字〕、
和謌之仙。 受二性于天一。 其才卓爾。 其鋒〔鋒、原作餘、據一本改〕森然。
三十一字。 調花露鮮。 四百餘歳。 來葉風傳。
斯道宗匠。 我朝前賢。 涅〔涅、原作温、據一本改〕而無レ緇〔緇、原作滓、據一本改〕。 鑽レ之彌堅。
風毛少レ彙〔少彙、原作美景、今從一本〕。 麟角猶專。 既謂二獨歩一。 誰敢比レ肩。
此讃兼日に敦光朝臣(*藤原敦光。藤原明光男)つくりて前兵衞佐顯仲朝臣(*藤原顯仲)淸書しけり。當日影の前に机をたてて、飯一坏・菓子・やう〳〵の魚鳥等をすへたり。但ものにてつくりて實物にはあらず。前木工頭俊賴朝臣(*源俊賴)、加賀守顯輔朝臣(*藤原顯輔。藤原顯季男)、前兵衞佐顯仲朝臣、大學頭敦光朝臣、少納言宗兼(*藤原宗兼)、前和泉守〔守、據一本補〕道經(*藤原道經)、安藝守爲忠(*藤原爲忠)等也。次に饗膳をすゆ。次柿下初獻侍〔柿下初獻侍、原作相下初獻詩、今暫從一本。按當作初獻句垣下侍〕人等鸚鵡の盃・小銚子をもちて簀子敷に候けり。亭主【顯季卿】申されけるは、初獻は和哥の宗匠つとめらるべし。滿座一同しければ、俊賴朝臣座をたちて影前にすゝむ。顯輔盃をとりて人丸の前に置。道經小銚子をとりて盃に入て机のうへにおく。各座にかへりつきて勸盃あり。二献(*ママ)の程に式部少輔行盛(*藤原行盛)來くはゝる。右中將雅定朝臣(*源雅定)又來られり。亭主の云〔云、一本作いはく〕、先人丸の讃を講ずべきなり。人々所存不レ同。亭主猶讃を前に講ずべきよし申されければ、机のまへに文臺を置て圓座をしく。件讃を白唐紙二枚に書たり。右兵衞督又來らる。讃をひらきて文臺に置て是を講ぜらる。次に和歌を講ず。題云、水風晩來。敦光朝臣序をかきけり。講じ終るほどに敦光朝臣〔序以下十七字、據一本補〕朗詠をいだす。新豐酒〔酒、據一本補〕色云々。次に亭主同句を出す。又詠吟せられて云、保能々々と(*ほの〴〵と)明石の浦の朝霧に。次敦光朝臣詠吟して云く、多能めつゝ不レ來夜數多爾(*たのめつゝ來ぬ夜あまたになりぬればまたじと思ふぞ待つにまされる〔拾遺集〕)。衆人興に入て各後會を約しけり。
夏日於二三品將作大匠水閣一。同〔同、據一本補〕詠二水風晩來一。和歌一首、并序。 大學頭敦光
我朝風俗、和歌爲レ本。生二於志一、形二於言一。記二一事一、詠二一物一。誠爲二諷〔諷、據一本補〕喩〔喩、或當作誦〕之端一、長者〔長者、恐有誤。不對上句。或爲字〕(*著カ)二君臣之美一。是以將作大匠毎レ屬二覲天之餘閑一、凝二詞露於六義一、叶二賞心一者、花鳥草虫之逸興。應二嘉招一者、香衫細馬之羣英。今日會遇、只是一揆。方今流水當レ夏兮貴〔貴、據一本補〕、冷風迎レ晩〔晩、據一本補〕兮來。蘆葉戰以凄々。渚煙漸暗、杉標動以颯々。沙月初明、情感不レ盡。聊而詠吟。其詞曰、
風ふけば浪とや秋のたちぬらんみぎはすゞしきなつの夕ぐれ
於二柿下大夫影前一詠二水風晩來一和歌。 修理大夫顯季
夕づくよむすぶいづみもなけれども志賀の浦風すゞしかりけり
右兵衞督實行
おほぬさや夕浪たつる風ふけばまだきに秋といはれのゝ池
内藏頭長實
夕されば河風すゞし水の上に浪ならねども秋やたつらん
右馬頭經忠
槇ながすあなしの河に風吹て此夕ぐれぞ浪さやにたつ
右近中將雅定
夕まぐれなにはほり江に風吹ばあしの下葉ぞ浪におらるゝ
源俊賴
夕日さす野守のかゞみかひもなくふれけるかぜにかげしそはねば
中務權大輔顯輔
まだきより秋はたつたの川風のすゞしきくれに思ひしられぬ
散位道經
手にむすぶいざゝ〔いざゝ、原作いざら、據一本改〕お〔お、一本作せ〕がはのまし水にたもとすゞしく夕かぜぞふく
式部少輔行盛
水のあやをふきくる風の夕月よ浪のたつなる衣かさなん
散位顯仲
夕さればなつみの川をこす風のすゞしきにこそ秋もまたれず
少納言宗兼
谷川の北よりかぜのふきくればきしも浪こそすゞしかりけれ
皇后宮少進藤原爲忠
あかねさすひのくま河の夕かげに瀨〳〵ふくかぜは秋ぞきにける
[一七九]
むかし夫婦あひ思ひて住けり。男いくさにしたがひてとをく行に、其妻おさなき子をぐして武昌の北の山までおくる。男の行を見てかなしみたてり。男かへらず成ぬ。女其子を負てたちながら死ぬるに、化して石となれり。其かたち人の子を負てたてるがごとし。是によつて此山を望夫山と名づけ、其石を望夫石といへり。くはしくは幽明録に見えたり。しらゝといふものがたりに、しらゝの姫公おとこの少將のむかへにこんと契りて遲かりしをまつとてよめると有は此こゝろなり。
たのめつゝきがたき人をまつほどに石にわが身ぞなりはてぬべき
[一八〇]
我國の松浦佐夜姫といふは大伴狹手麿〔麿、當作彦〕が女〔女、一本作娘〕也。おとこみかどの御使に唐へわたるに、すでに舟に乘りて行時、其わかれをおしみてたかき山のみねにのぼりて、はるかにはなれゆくを見るに、かなしびにたへずして領巾〔領、原作頭、一本作頸。據和名抄改。下同〕をぬきてまねく。見るもの涙をながしけり。それより此山を領巾麾(*ひれふり)のみねといふ。此山肥前國にあり。松浦明神とて今におはします。かのさよ姫のなれるといひつたへたり。此山を松浦山といふ。磯をば松浦がたともいふ也。萬葉にその〔その、一本作此、似是〕心の歌あり。
とをつ人まつらさよひめつまどひにひれふりしよりおへ〔へ、原作つ。據一本改〕る山の名
[一八一]
むかし大納言なりける人の、みかどに奉らんとてかしづきける女を、うとねりなるものぬすみてみちの國にいにけり。あさかの郡あさか山に庵結びて住ける程に、男外へ行たりける間に、立いでゝ山の井にかたちをうつして見るに、ありしにもあらず成にける影をはぢて、
淺香山影さへ見ゆる山の井のあさくは人をおもふものかは
と木に書つけてみづからはかなくなりにけりと、大和物語にしるせり。
[一八二]
小野小町がわかくて色を好みし時、もてなし有樣たぐひなかりけり。壯衰記といふものには、三皇五帝の妃にも、漢王・周公の妻もいまだ此おごりをなさずとかきたり。かゝり〔かゝり、據一本補〕ければ、衣には錦繡のたぐひを重ね、食には海陸の珍を調へ、身には蘭麝を薫じ、口には和哥を詠じて、よろづの男をばいやしくのみ思ひくたし(*原文「思ひくだし」)、女御・后に心をかけたりし程に、十七にて母を失ひ、十九にて父におくれ、廿一にて兄にわかれ、廿三にておとゝをさきだてしかば、單孤無賴〔無賴、原作無類。今從一本〕のひとり人になりてたのむかたなかりき。いみじかりつるさかへ日ごとにおとろへ、花やかなりし貌とし〴〵にすたれつゝ、心をかけたるたぐひもうとくのみなりしかば、家は破て月ばかり空しくすみ、庭はあれてよもぎのみいたづらにしげし。かくまで成にければ、文屋康秀が參河の掾にてくだりけるにさそはれて、
わびぬれば身を浮草のねをたえてさそふ水あらばいなんとぞ思ふ
とよみて次第におちぶれ行ほどに、はてには野山にぞさそらひける。人間の有樣これにて〔て、一本旡〕知るべし。
[一八三]
和泉式部、保昌が妻にて丹後に下りける程に、京に哥合ありけるに、小式部内侍哥よみにとられてよみけるを、定賴の中納言たはぶれに小式部の内侍に、丹後へつかはしける人は參りにたるやといひ入て、局のまへを過られけるを、小式部内侍御簾よりなかばいでゝ、直衣の袖をひかへて、
大江山いくのゝ路の遠ければまだふみもみずあまのはしだて
とよみかけゝり。思はずにあさましく、こはいかにとばかりいひてかへしにもおよばず、袖をひきはなちてにげられにけり。小式部是より哥よみの世におぼえいできにけり。
[一八四]
匡房卿わかゝりける時、藏人にて内裏によろぼひありきけるを、さる博士なれば女房達あなづりて、みすのきはによびてこれひき給へとて、和琴をおし出したりければ、匡房よみける、
あふ坂の關のあなたもまだ見ねばあづまのことはしられざりけり
女房達かへし〔し、一本作事〕えせでやみにけり。
[一八五]
伏見修理太夫俊綱(*藤原俊綱。藤原賴通男)家にて人〳〵水上月といふことをよみけるに、田舍よりのぼりたる兵士中門の邊にてこれを聞て、靑侍をよびて今夜の題をこそつかうまつりて候へとて、
水や空そらや水とも見えわかずかよひてすめる秋のよの月
侍このよしをひろうしければ大に感じあへり。その夜これほどの哥なかりけり。
同人播磨國へ下りけるに、高砂にて各哥よみけるに、大宮先生義宣〔宣、據一本補〕(*藤原義定)といふものが哥に、
我のみと思ひこしかどたかさごの尾上の松もまだゝて〔て、原作け。據一本改〕りけり
人々感じあへり。良暹其所にありけるが、女牛に腹つかれぬるかなといひけり。
[一八六]
ある人の家に入てものこひける法師に、女の琴ひきてゐたるが、このねをけふの布施にてかへりねといひければよめる、
ことゝいはゞあるじながらもえてし哉ねはしらねどもひき心みん
此乞者は三形の沙彌(*御方沙彌〔萬葉集〕)なりとある人いひけり。
[一八七]
中納言通俊卿(*藤原通俊)の子に世尊寺阿闍梨仁俊とて、顯密智〔智、一本作知。似是〕法にてたうとき人おはしけり。鳥羽院にさぶらひける女房、仁俊は女心あるものゝそらひじりたつるなど申けるを、阿闍梨かへり聞て口惜く思ひて、北野に參籠して此耻すゝぎ給へとて、
あはれとも神〳〵ならば思ひしれ人こそ人のみちをたつとも
と讀たりければ、かの女房あかきはかまばかりをきて、手に錫杖をもちて、仁俊にそらごといひ付たる報よとて、院の御前に參りて舞くるひければ、あさましと覺しめして、北野より仁俊を召出して見せられければ、神恩のあらたなることに涙を流して、一たび慈救呪をよみてければ、女房もとの心地になりにけり。院いみじくおぼしめして、うすゞみといふ御馬をたびて〔て、一本作に〕けり。
[一八八]
天曆の御時、月次御屛風の哥に、擣衣の所に兼盛(*平兼盛)詠て云、
秋ふかき雲井の鴈のこゑすなり衣うつべきときや來ぬらん
紀時文件の色紙形をかく時、筆をおさへていはく、衣うつを見てうつべき時やきぬらんと詠ずるいかゞ。兼盛にやがてたづねらるゝ所に、申ていはく、貫之が延喜御時同屛風に駒迎の所に、
逢坂の關のし水にかげ見えていまやひくらん望月の駒
と詠ず。此難ありやいかゞ。時文口をとづ。しかも時文は貫之が子にてかくなんそしりける。よく〳〵淺かりけり。
[一八九]
左京大夫顯輔(*藤原顯輔)新院(*崇德上皇)に參りたりけるに、百首よむやうはならひたるかと仰ごとありければ、ならひたる事候はず。顯季も敎へ候はずと申ければ、まことや百首にはおなじ五文字の句をばよまざるなるはととはせ給ひければ、顯輔いかゞ候はん、百首までよむものにて候へばよみもやし候覽と申ければ、公行(*藤原公行。藤原實行男)がよまぬよしを申也と仰ごと有ければ、顯輔かへり堀川院御百首をひきて見るに、春宮大夫公實卿(*藤原公實)哥に、薄刈萱の兩題に秋風といふ第一句さしならびて有ければ、兩首をたとう紙にかきて、九月十三夜の御會にもちて參りて、公行卿にこれ御覽候へといひたりければ、閇口せられにけり。公行は公實の孫なり。用意あるべきことにや〔にや、一本作也〕。
[一九〇]
花園左大臣【有仁】(*藤原有仁)家にはじめて參りたりける侍の名簿のはしがきに、能は哥よみと書たりけり。おとゞ秋のはじめに、南殿に出てはたをり(*キリギリス)のなくを愛しておはしましけるに暮ければ、下格子に人まいれと仰られけるに、藏人五位たがひて人も候はぬと申て此侍參りたるに、たゞさらば汝おろせと仰られければ參りたるに、汝は哥よみなと有ければ、かしこまりて御格子おろしさして候に、此はたをりをばきくや。一首つかうまつれと仰られければ、あをやぎのとはじめの句を申出したるを、さぶらひける女房達折にあはずと思ひたりげにてわらひ出したりければ、物を聞はてずしてわらふやうや〔や、據一本補〕あると仰られて、とくつかうまつれとありければ、
あをやぎのみどりの糸をくりおきて夏へて秋ははた織ぞなく
とよみたりければ、おとゞ感じ給て、萩おりたる御ひたゝれおし出して給はせけり。
寛平哥合に、はつ鴈を友則(*紀友則)、
春がすみかすみていにしかりがねは今ぞなくなる秋霧の上に
とよめる。左方にて有けるに五文字を詠じたりける時、右方の人こゑ〴〵にわらひける。さて次句に霞ていにしといひけるにこそ、をともせずなりにけれ。おなじ事にや。
[一九一]
公任卿(*藤原公任)家にて三月盡の夜、人〳〵あつめて暮ぬる春をおしむ心の哥よみけるに、長能(*藤原長能。藤原倫寧男)、
心うき年にもあるかなはつかあまりこゝぬかといふに春の暮ぬる
大納言うちきゝて思もあへず、春は卅日やはあるといはれたりけるをきゝて、長能披講をも聞はてずいにけり。人〔人、此上恐有脱文〕(*い〔で〕にけり。扨又のとし病をして限也と聞て、とぶらひに人を〔宮内庁書陵部藏本〕)をつかはしたりければ、悦て承り候ぬ。此病は去年の三月盡に、春は卅日やはあると仰られしに、心うき事かなと承りしに、病になりて其後いかにもものゝくはれ侍らざりしより、かくまかりなりて侍也と申けり。さて又の日うせにけり。大納言ことの外に〔に、據一本補〕なげかれけり。是はさうなく難ぜられたりける故にや。
[一九二]
別當惟方卿(*藤原惟方。藤原顯賴男)は二條院の御めのとにて、世におもく聞へけるが、あしく振舞けるによりて、後白河院御いきどをりふかゝりければ、出家して配所へおもむかれけり。其後おなじくながされし人〳〵ゆるされけれども、身ひとりは猶うかびがたきよしをつたへ聞て、
この瀨にもしづむときけば涙〔涙、原作渡。據一本改。草躰相渉而誤者〕川ながれしよりもぬるゝ袖かな
とよみて故郷へおくられたりけるを、法皇傳へ聞しめして、御心や〔や、一本旡〕よはりけん、さしも罪深くおぼしめしけるに、此哥によりて召かへされけるとかや。
[一九三]
後鳥羽院御時、定家卿(*藤原定家)殿上人にておはしける時、いかなる事にか勅勘によりてこもりゐられたりけるが、あからさまと思ひけるに、其年も空しく暮にければ、父俊成卿此事をなげきて、かくよみつゝ職事につけたりけり。
あしたづの雲井にまよふ年くれてかすみをさへやへだてはつべき
職事此哥を奏聞せられければ、御感ありて定長朝臣(*藤原定長。俊成猶子)に仰てぞ御返事有ける、
あしたづは雲井をさしてかへるなりけふ大空のはるゝけしきに
やがて殿上の出仕ゆるされにけり。
[一九四]
壬生二位家隆卿(*藤原家隆)、八十にて天王寺にてをはり給ける時、七首の哥をよみてぞ廻向せられける。臨終正念にてその志むなしからざりけり。かの七首の内に、
契あればなにはの里にやどりきて浪のいりひをおがみけるかな
[一九五]
宗家大納言(*藤原宗家)とて、神樂・催馬樂うたひてやさしく神さびたる人おはしき。北方は後白河法皇の女房、右衞門佐と申ける。宗經の中將(*藤原宗經)をうみなどして、後かれ〴〵になりてとをざかり給けるに、
あふことのたえばいのちのたえなむと思ひしかどもあられける身を
とよみてやられたりければ、返事はなくて車をつかはしてむかへとりて、又とし比になりけるもやさしくこそ。
[一九六]
德大寺右大臣(*藤原實家)、うちまかせてはいひ出がたかりける女房のもとへ、師〔師、一本作獅〕子のかたをつくれりける茶碗〔碗、一本作院。恐垸字之譌〕の枕を奉るとて、うすやうのなかへ(*中重。下襲カ)をやりて此哥を書て、思ひがけぬはざまにかく〔く、原作へ。據一本改〕していれられたりける、
わびつゝはなれだに君にとこなれよかはさぬよはの枕なりとも
女房此枕たゞにはあらじとて、とかくして此哥を求いだされける。いみじく色ふかし。これらは哥をつかはして心中をあらはせるなり。
[一九七]
參河守定基(*大江定基。大江齊光男)、心ざしふかゝりける女のはかなく成にければ、世をうきものに思ひ入たりけるに、五月の雨はれやらぬ比、ことよろしき女のいたうやつれたりけるが、かがみをうりてきたれるをとりてみるに、そのかゞみのつゝみ紙にかける、
けふのみと見るになみだのます鏡なれにしかげを人にかたるな
これを見るに涙とゞまらず、かゞみをばかへしとらせて、さま〴〵にあはれび〔び、一本作み〕けり。道心もいよ〳〵思ひさだめけるは此事によれり。出家の後寂照上人とて入唐しける。かしこにては圓通大師とぞいはれける。淸凉山のふもとにてつゐに往生の素懷をとげられけり。
[一九八]
醍醐の櫻會に童舞おもしろき年〔年、一本作事〕ありける。源運(*未詳)といふ僧その時少將公〔公、據一本及下文補〕とてみめもすぐれて舞もかたへにまさりてみえけるを、宇治宗順阿闍梨見て思ひあまりけるにや、あくる日少將公のもとへいひやりける、
昨日見しすがたの池に袖ぬれてしぼりかねぬといかでしらせん
少將公返事、
あまたみしすがたの池のかげなればたれゆへしぼる袂なるらん
といへりける、時にとりてやさしかりけり。中院僧正(*定遍カ。源顯定男)見物し給ひけるが、これを聞ていみじとおぼしめして、同入道右府(*源雅定カ)に對面し給ひけるつゐでに此事をかたりいで給て、やさしくこそおぼえ侍しかと有ければ、入道殿哥はおぼえさせ給はじとの給ひけるを、そればかりはなどかとて、少將公がもとへ宗順阿闍梨つかはし侍りし、昨日みしにこそ袖はぬれしかとよめるに、少將公荒凉にこそぬれけれとぞ返して侍りしとかたり給けるに、堪がたくおかしくおぼしけれど、さばかりのいき佛の念比にいひ出給けることなれば、忍び給けるなんずちなくおはしけり。和哥の道は顯密知法にもよらざりける〔る、一本作り〕と、中〳〵いとたうとし。昔の遍照今の覺忠(*藤原忠通男)・慈圓などには似たまはざりけるにや。
[一九九]
亭子院(*宇多天皇)鳥養院にて御遊有けるに、とりかひといふことを人〳〵によませられけるに、あそびあまた〔あまた、一本此下有まいり三字〕集まれり。其中に歌よくうたひて聲よきものゝ有けるをとはるゝに、丹後〔丹後、一本作丹波〕守玉淵(*大江玉淵。大江音人男)がむすめ白女となん申ける。みかど御舟めしよせて、玉淵は詩哥にたくみなりしもの也。其むすめならば此哥よむべし。さらばまことゝおぼしめすべきよし仰らるゝに、程へずよみける、
ふかみどりかひある春にあふときは霞ならねど立のぼりけり
みかどほめあはれび〔び、一本作み〕給ひて、御うちぎ一重給はせけり。其外上達部・殿上人、おの〳〵きぬゝぎてかづけられければ、二間ばかりにつみあまりけるとなん。
[二〇〇]
河内重如をば山次郞判官代と申けり。その品いやしきものなりけるが、我より高き女房をおもひかけて、艷書を手づから持て行てんげり。
人づてはちりもやすると思ふまにわれがつかひにわれはきつるぞ
女めでゝしたがひけり。此人河内より夜ごとに住の江に行て夜をあかしけり。いみじきすきものにてぞ有ける。死ぬるとても哥をよみてんげり。
たゆみなく心をかくるあみだ佛人やりならぬちかひたがふな
[二〇一]
和泉式部忍びて稻荷へ參りけるに、田中明神の程にて時雨のし侍〔侍、據一本補〕(*不用カ)けるに、いかゞすべきと思ひけるに、田かりける童のあをといふものをかりてきてまいりにけり。下向の程にはれにければ此あをゝかへしとらせてけり。さて次日式部はしのかた〔かた、一本作また〕をみいだしていたりけるに、大やかなる童の文もちてたゝずみければ、あれは何者ぞといへば、此御ふみまいらせ候はんといひてさし置たるを、ひろげてみれば、
時雨するいなりの山のもみぢばゝあをかりしより思ひそめてき
と書たりけり。式部あはれと思ひて此わらはをよびて、おくへといひてよび入けるとなん。
[二〇二]
宇治入道殿(*藤原師實カ)にさぶらひけるうれしさといふはしたものを、顯輔卿(*藤原顯輔)けさうせられけるに、つれなかりければつかはしける、
われといへばつらくもあるか嬉しさは人にしたがふ名にこそありけれ
入道殿きかせ給ひて、秀哥に返し〔し、一本作事〕なし、とくゆけとてつかはしけり。
[二〇三]
承安二年(*1172)三月十九日、前大宮大進淸輔朝臣(*藤原淸輔。藤原顯輔男)、寳(*原文「賓」)莊嚴院にて和歌の尚齒會を行ひけり。七叟散位敦賴【八十四】(*道因)、神祇伯顯廣王〔王、一本旡。恐非是〕【七十八】(*源顯康男)、日吉禰宜成仲宿禰【七十四】(*祝部成仲)、式部大輔永範【七十一】(*藤原永範)、右京權大夫賴政朝臣【六十九】(*源賴政)、淸輔朝臣【六十九】、前式部少輔維光朝臣【六十三】(*大江維光。大江維順男)。淸輔朝臣假名序かきたりけり。敦賴衣冠に櫻のあつぎぬ三をいだして、鳩杖をつきて久利皮の沓(*烏皮の沓)をはきたり。淸輔朝臣は布袴をぞきたりける。進退の間大貳重家卿(*藤原重家。藤原顯輔男)裾をとり、皇后宮亮季經朝臣(*藤原季經。藤原顯輔男)沓をはかせけり。兩人淸輔朝臣が弟なれども座次の上臈にて有けるに、このかみをたうとみてふかく此禮有けり。悦にたへず、後日に父顯輔卿子孫の中に此道にたへたりとて、淸輔朝臣に傳へたりける人丸影・破子破(*破子硯カ)を、重家卿子息中務權大輔經家朝臣(*藤原經家)にゆづられけり。和哥の文書季經朝臣に讓てけり。すべて尚齒會おほくは詩會に〔に、一本旡〕こそ侍に、和哥はめづらしき事也。上古に一度ありけるよし。其時も沙汰有けれども、慥ならぬことにや。其日の日記に侍けるは、池の水ちとせの色をたゝへ、いはの苔萬代をへたるけしき也。梢の花おちつきければ、庭の面には春なをのこれりとみゆるばかりありて、淸輔朝臣誦じける、
かぞふればとまらぬものを年といひて今年はいたく老ぞしにける
又誦云、
老ぬとてなどか我身をせめぎけんおひずばけふにあはましものか
宮内のかみ又敦賴こゑをたすけゝり。敦賴主、
をしてるやなにはのみづに燒鹽のからくも我はおひにけるかな
又宮内のかみ、
かゞみ山いざ立よりて見てゆかん年經ぬる身は老やしぬると
又淸輔朝臣、
老らくのこんとしりせば門さしてなしとこたへてあはざらましを
いづれをも人〴〵あひとりに(*あひともにカ)誦じけり。次に七叟の哥を講じけり。講師成仲宿禰、讀師賴政朝臣也、序者淸輔朝臣、
ちる花はのちの春ともまたれけり又もくまじきわがさかりかも
散位藤原敦賴、一座、
まてしばし老木の花にことゝはんへにける年はたれかまされる
大常卿(*神祇大副の唐名)顯廣王、
年を經て春のけしきはかはらぬにわが身はしらぬおきなとぞなる
前石州別駕(*別駕は介の別名)祝部成仲、
なゝそぢによつあまるまで見る花のあかぬは年はさきやますらん
吏部侍郞(*大輔の唐名。吏部大卿とも。)永範、
いとひこし老こそけふはうれしけれいつかはかゝる春にあふべき
【予爲二三代之侍讀一、迎〔迎、原作題。據一本改〕二七旬之頽齡一。位昇二三品一今列〔列、讀本作別。意今改〕二七叟一。故有二此句一矣。】
右京權大夫源賴政、
むそぢあまり過ぬる春の花ゆへになをおしまるゝわがいのちかな
散位大江維〔維、一本作惟。上文與此同。惟・維相通也〕光、
年ふりてみさび(*水銹)おふてに(*おふえにカ)しづむ身の人なみ〳〵にたちいづるかな
垣下座(*ゑんがのざ)につく人〴〵、重家卿、季經朝臣、盛方(*藤原盛方。藤原顯時男)、仲綱(*源仲綱。源賴政男)、政平(*賀茂政平。賀茂成平男)、憲盛(*藤原敦中カ)、光成(*祝部允成カ。祝部成仲男)、尹範(*藤原尹範。藤原永範男)、賴照(*顯昭。藤原顯輔男)。おの〳〵みな哥あり。別紙に注レ之〔之、原作て。今意改〕。此日左馬權頭隆信(*藤原隆信)さはり有てこざりけり。又の日をくれ〔れ、一本旡〕りける、
よはひをも道をもしたふわがこゝろゆきてぞともに花をながめし
返事、
おもひやる心やきつゝたはれけんおもかげにのみみえし君かな
大貳下襲のしりをとり、皇后宮亮沓をはかするを感歎して、弁阿闍梨(*性阿上人。藤原雅親男)おくりける、
つるのかみ(*白髪の老人)かしづくことはいにしへのかせぎのその(*鹿野苑〔ろくやをん〕)ゝふるごとぞこれ
返事、
つるのはねかきつくろひしうれしさはしかありけりな鹿の園にも
[二〇四]
彼淸輔朝臣(*藤原淸輔)の〔の、一本旡〕傳へたる人丸の影は、讃岐守兼房朝臣(*藤原兼房。藤原兼隆男)ふかく和哥の道をこのみて、人丸のかたちをしらざる事をかなしび〔び、一本作み〕けり。夢に人丸來りて、われをこふる故にかたちをあらはせるよしを告けり。兼房畫圖にたへずして、後朝に繪師をめして敎へて書せけるに、夢にみしにたがはざりければ、悦て其影をあがめてもたりけるを、白河院此道御好みありて、かの影をめして勝光明院の寳藏におさめられにけり。修理大夫顯季卿(*藤原顯季)近習にて所望しけれども御ゆるしなかりけるを、あながちに申てつゐに寫しとりつ。顯季卿一男中納言長實卿(*藤原長實)、二男參議家保卿(*藤原家保)この道にたへずとて、三男左京大夫顯輔卿(*藤原顯輔)にゆづりけり。兼房朝臣の正本は小野皇太后宮申うけて御覽じける程に燒にけり。貫之が自筆の古今も其時おなじく燒にけり。口惜事也。されば顯季卿本が正本に成にけるにこそ。實子なりとも此道にたへざらんものにはつたふべからず、寫しもすべからず。起請文あるとかや。件本保季卿(*藤原保季。藤原季經男)つたへとりて成實卿(*藤原成實。藤原親實男)にさづけられけり。今は院(*後嵯峨上皇カ)にめしおかれて、建長の比より影供など侍にこそ。供具は經家(*藤原經家。藤原重家男)子〔經家子、據一本補。按傍書攙入歟〕家衡卿(*藤原家衡)のもとにつたはりけるを、家衡子〔家衡子、據一本補。按傍書攙入歟〕家淸卿(*藤原家淸)傳へとりて、うせてのち其子息のもとに有けるも、同家にめしおかれにけり。長柄橋の橋柱にて作りたる文臺は、俊惠法師(*藤原俊賴男)がもとよりつたはりて、後鳥羽院の御時も御會などに取出されけり。一院(*後嵯峨上皇カ)の御會に、彼影の前にて其文臺にて和哥披講せらるなど〔ど、一本作る。亦似是〕いと興有事也。
[二〇五]
養和二年(*1182)の春、賀茂神主重保(*賀茂重保)、又尚齒會行たりけり。七叟成仲宿禰【八十四】(*祝部成仲)、勝命法師【七十一】(*藤原憲親〔親重〕。藤原親賢男)、俊惠法師【七十】(*藤原俊賴男)、片岡禰宜家能【六十五】(*未詳)、祐盛法師【六十五】(*源俊賴男)、重保【六十四】、敦仲【六十二】(*藤原憲成〔敦中〕。藤原敦賴男)。勝命法師假名序書たりけり。此たびはことなる事なかりけるにや。抑七叟の中に僧まじはりたることおぼつかなし。
[二〇六]
高倉院の御時、八月廿日比に人々神樂をし侍けるが、いとおもしろくてなごりおほかりければ、なが月の十日あまりの比、隆信朝臣(*藤原隆信)のもとより實國大納言(*藤原實國。滋野井流祖)のもとへおくりける、
あかぼし(*明けの明星)のあかで入にしあかつきをこよひの月におもひ出ずや
返し、
たゞこゝにたゞにとこそは思ひしににげしは月のかひもなかりき
[二〇七]
建春門院(*平滋子。平時信女。高倉天皇母)皇太后宮にておはしましける時、公卿・殿上人・女房どもさそひて大井川の紅葉見にむかはれけるに、三位中將實定卿(*藤原實定)さはる事ありてとゞまられければ、中納言實國卿(*藤原實國)よみてつかはしける、
もろともに君とみぬまのもみちばは心のやみのにしきなりけり
返し、
さそはれぬ身こそつらけれもみちばはなにかはやみの錦なるべき
[二〇八]
同卿(*藤原實國)左衞門督にて侍ける時、家に哥合し侍けるに、賴政朝臣(*源賴政)立春の哥に、
めづらしき春にいつしかうちとけてまづものいふは雪のした水
とよみ侍けるが面白く聞へければ、又の朝亭主彼朝臣のもとへ申つかはしける、
さもこそは雪のした水うちとけめ人にはこへてみえし浪かな
[二〇九]
少將隆房(*藤原隆房。藤原隆季男)賀茂祭使つとめけるに、車の風流(*裝飾)よく見えければ、又の朝大納言實國(*藤原實國)父の大納言隆季(*藤原隆季)のもとへ申おくりける〔ける、原作侍。今從一本。或當作侍ける三字〕、
いろふかき君が心のはなちりて身にしむ風のながれ(*風流に掛ける。)とぞみし
返し、
子を思ふこゝろの花の色ゆへやかぜのながれもふかくみえけん
[二一〇]
治承の比、人〴〵安藝のいつく島へ參られけるに、風あらくて高砂の邊にありと聞て、修理大夫經盛(*平經盛。平忠盛男)實國大納言(*藤原實國)のもとへ申おくり侍ける、
とまりする湊の風もけあしきに浪たかさごの浦はいかにぞ
返し、
たかさごの浪のかゝらぬおりならば風のつてにもとはれましやは
[二一一]
仁和寺佐法印【成海法印師也】(*藤原成隆男)、わかくて醍醐の櫻會見物の次に寺中巡禮しけるにや、山吹衣きたる童二人おなじすがたにて〔にて、據一本補〕花見て侍けるは〔は、一本旡。恐衍〕、いづれもいみじくえんに覺えければ、たへかねて哥よみかけゝる、
山吹の花色衣みてしより井出の蛙のねをのみぞなく
自らかくいひかねてにげゝる袖をとらへて、ちとあんじて則返し侍ける、
山吹のはな色衣あまたあればゐでのかはづはたれとなくらん
[二一二]
圓位上人(*西行)昔者よりみづからがよみをきて侍る哥を抄出して、三十六番につがひて御裳濯哥合と名づけて、色〳〵の色紙をつぎて慈鎭和尚(*慈圓)に淸書を申、俊成卿(*藤原俊成)に判の詞をかゝせけり。又一卷をば宮河哥合と名付て、是もおなじ番につがひて、定家卿(*藤原定家)の五位侍從にて侍ける時判ぜさせけり。諸國修行の時もおひに入て身をはなたざりけるを、家隆卿(*藤原家隆)のいまだわかくて坊城侍從とて、寂蓮(*藤原定長。藤原俊成養子)が聟にて同宿したりけるに尋行ていひけるは、圓位は往生の期既に近付侍りぬ。此哥合は〔合は、一本旡〕愚詠をあつめたれども秘藏のもの也。末代に貴殿ばかりの哥よみはあるまじき也。おもふ所侍れば付屬し奉る也といひて、二卷の哥合をさづけゝり。げにもゆゝしくぞそう〔そう、一本作さう〕したりける。彼卿非重代の身なれども、よみくち世おぼえ人にすぐれて、新古今撰者にくはゝり、重代の達者定家〔定家以下廿一字、一本脱〕(*いみじき事マデ)卿につがひて其名をのこせる、いみじき事也。まことにや後鳥羽院始めて哥の道御さた有ける比、御京極殿(*藤原良經。藤原兼實男)に申合參らせられける時、彼殿奏せさせ給けるは、家隆は末代の人丸にて候也。かれが哥を學ばせ給ふべしと申させ給ひける。これらを思ふに上人の相せられける事おもひ合せられて、目出度おぼえはべる也。かの二卷の歌合小宰相局(*土御門院小宰相、承明門院小宰相。藤原家隆女)のもとにつたはりて侍にや。御裳濯哥合の表紙にかきつけ侍なる、
藤なみをみもすそ川にせきいれてもゝ枝の松にかけよとぞ思ふ
かへし俊成卿、
藤なみもみもすそ川の末なればしづえもかけよ松のもと葉に
又二首をそへて侍ける、同卿、
契りをきしちぎりの上にそへおかん和哥のうらぢのあまのもしほ火
このみちのさとりがたきを思ふにもはちすひらけばまづたづねみよ
かへし、上人、
和哥の浦に鹽木かさなる契をばかけるたくも(*焚く藻)のあとにてぞしる
さとりえて心のはなしひらけなばたづねぬさきに色ぞそふべき
[二一三]
解脱上人(*貞慶。藤原貞憲男)のもとに信濃といふ僧ありけり。いま〳〵しきゑせものにてなん侍けれども、上人慈悲によりておかれたりけれども、思ひあまりてやすゞりのふたに哥をかゝれたりける、
おそろしや信濃うみけんはゝ木ゝのそのはらさへにうとましき哉
此僧此哥をみて、あからさまに立出る樣にてながくうせにけり。さすがにはぢはありける〔る、一本旡〕にこそ。
[二一四]
鳥羽宮(*定惠。後白河皇子)天王寺別當にて、かの寺の五智光院に御座ありける時、鎌倉前右大將(*源賴朝)參ぜ〔ぜ、一本旡〕られたりけり。三浦十郞左衞門義連(*三浦義明男)・梶原景時ぞ供には侍ける。御對面の後退出の時、尫弱の尼一人いで來り、右大將に向てふところより文書を一枚とり出して云、和泉の國に相傳の所領の候を、人におしとられて候を御こし(*さたしカ)候へども、身の尫弱に候によりて事ゆかず候。適君御上洛候へば申入候はんと仕候へども、申つぐ人も候はねばたゞ直に見參に入候はんとて參りて候とて、その文書をさゝげたりければ、大將みづからとりて見給ひけり。文書のごとく一定相傳のぬしにて有かととはれければ、いかでか僞をば申上候べき。御尋候はんに更にかくれあるまじと申ければ、義連に硯たづねて參れと仰られて、尋出して參たりければ、墨おしすりて筆染てうちあんじて、わが持給ひける扇に一首の哥を書給ひ〔給ひ、一本此下有たり二字〕ける、
いづみなるしのだの森のあまさぎはもとのふるす〔ふるす、原作古葉。據一本改〕にたちかへるべし
かく書て、義連にこれに判くはへて尼にとらせよとてな〔な、原作さ。今從一本〕げつかはしたりければ、義連判くはへて尼にたびてけり。年號月日にも及ばず、右大將殿自筆の御書下なれば子細にやをよぶ。もとのごとくかの尼領知しけると也。其後右大臣家(*源實朝)の時、件の尼がむすめこの扇の下文をさゝげて、沙汰に出て侍りけるに、年號月日なき由奉行いひけれども、かの自筆そのかくれなきによりて安堵しにけり。件扇檜骨ばかりはゑりて、其外は細骨にてなん侍ける。まさしくみたるとて人のかたり侍しなり。
[二一五]
同大將(*源賴朝)もる山(*近江國守山)にて狩せられけるに、いちごのさかりにありたるをみて、ともに北條四郞時政が候けるが連哥をなんしける。
もる山のいちご(*苺と兒)さかしくなりにけり
大將とりもあへず、
むばら(*茨と乳母等)がいかにうれしかるらん
[二一六]
あるなま侍がもとに草をうりて來りけるを、只今かはりなかりければ其草かしおけ、かはりは後にとれといひけるを、草賣打〔打、據一本補〕聞て、
あさましやかりとはいかに朝ごとに草にかけたる露のいのちを
[二一七]
土御門院はじめて百首をよませおはしまして、宮内卿家隆朝臣(*藤原家隆)のもとへみせにつかはされたりけるが、あまりに目出度不思儀に覺えければ、御製のよしをばいはでなにとなき人の詠のやうにもてなして、定家朝臣のもとへ點をこひにやりたりければ、合點して褒美の詞など書付侍とて、懷舊の御うたをみはべりけるに、
秋のいろをおくりむかへて雲の上になれにし月も物わすれすな〔な、原作る。據一本改〕
此御哥にはじめて御製のよしをしりて、おどろきおそれて裏書にさま〴〵の述懷の詞どもかきつけてよみ侍る、
あかざりし月もさこそはおもふらめふるき涙もわすられぬ世に
誠にかの御製は、およばぬものゝ目にもたぐひすくなくめでたくこそ覺侍れ。管絃のよくしみぬる時は、心なき草木のなびける色までもかれにしたがひてみえ侍なるやうに、何事も世にすぐれたる事には見しり聞しらぬ道のことも、耳にたち心にそむはならひ也。當院(*後嵯峨天皇)の御製も昔者にはぢぬ御ことにや。そのゆへはそのかみ御めのとの大納言(*源通方。源通親男)のもとにわたらせおはしましける比、はじめて百首をよませおはしましたりけるを、大納言感悦のあまりに、密〳〵に壬生二品(*藤原家隆)のもとへ見せにつかはしたりけり。二品御百首のはし春の程ばかりをみて、見もはてられずまへに打置てはらはらとなかれけり。やゝ久しくありて涙を拭ひていはれけるは、あはれに不思儀なる御事かな。故院(*土御門上皇)の御哥に少しもたがはせ給はぬとて、ふしぎの御〔御、據一本補〕事に申されけり。其時は未だむげにおさなく渡らせ給ける御事也。まして當時の御製さこそめでたき御ことにて侍らめ。彼卿未だ存ぜられたらましかば、いかに色をも添へてめでたがり申されましとあはれに覺え侍り。
[二一八]
松殿僧正行意(*松殿關白基房男)、赤痢病を大事にして存命殆あぶなかりけるに、ちとまどろみたる夢に、志貴の毗沙門へ參りたりける。御帳の戸をおしあけて、よにおそろしげなる鬼神出て、僧正をやゝとよび申ければ、おそろしながら見むきたりければ、鬼神一首の和哥を詠じかけゝる、
九月のとをかあまりのみかの原川なみ淸くすめる月かな
詠吟の聲たへに目出たく、心肝にそみて覺えける程に夢さめぬ。其後病忽やみて例のごとくになりにけり。此哥建保元〔元、據一本補〕年(*1213)九月十三夜内裏の百首の御會(*順德天皇代)に、河の月を家隆卿(*藤原家隆)つかうまつれる也。彼卿の哥は諸天も納受し給ふにこそ。不思儀の事也。
[二一九]
陰明門院【麗子】(*藤原麗子。藤原賴実女。土御門后)中宮の御時、六事の題をいだして人〳〵におもふ事をかゝせられけり。定家卿・家隆卿なども同じくめしけるに、古哥に、
有明のつれなくみえしわかれよりあかつきばかりうきものはなし(*壬生忠岑〔古今集〕)
此うたを兩人同じく書て參らせたり。同じ心の程いとゆふに(*優に)興あるよし、其沙汰ありけるとぞ。
[二二〇]
後鳥羽院御時、木工權頭孝道朝臣(*藤原孝道)に御琵琶をつくらせられけるを、世かはりにける時、やがて其御琵琶を彼朝臣にあづけられたりけるを、程へて御尋ありければ、御琵琶に付て奉りける、
ちりをこそすへじと思ひし四の緒に老のなみだを〔を、原作の。據一本改〕のごひつるかな
[二二一]
順德院御位の時、當座の哥合有けり。作者の名をかくして衆議判にて侍けるに、古寺月といふことを、知家朝臣(*藤原知家、蓮性)つかうまつりける、
むかし思ふたかのゝ山の深き夜にあかつきとをくすめる月かげ
此哥叡慮に叶ひて頻に御感有けり。厚紙を懸物につまれたりけるに、事はてゝ人々罷出けるに、藏人左兵衞權少尉橘親季(*未詳。成季の系族カ)を御使にて、知家朝臣出けるにおひつかせて、古寺の月の哥殊叡感あり。勅祿〔勅祿、一本此上有仍字〕を給也とて、重ねて紙を給はせけり。知家朝臣申けるは、忝く勅祿に給はる紙いかでか私用仕るべき。明日やがて住吉の御幣に奉るべきよし、披露すべきよし申て罷り出にけり。
[二二二]
西音法師(*平時實。平時忠男)は、昔後鳥羽院の西面に平時實とておさなくより候しもの也。世かはりて後嘉禎比、五十首の哥をよみて、遠所の御所に藤原友茂(*藤原友茂。藤原能茂〔西蓮〕男)が候けるにおくりたりける〔におくりたりける、據一本補〕を、君きこしめして叡覽ありて、みづから十餘首の御點を下されける中に、
見ればまづ涙ながるゝ水無瀨川いつより月のひとりすむらん
此哥を殊あはれがらせおはしましけりとぞ。さて御自筆に阿彌陀の三尊を文字にあそばしてくだし給はせける。今に忝き御かたみとて、つねにおがみまいらせ侍となん。
[二二三]
法深房(*藤原孝時。藤原孝道男)、そのかみ父の朝臣(*藤原孝道)と不快の比、讓得たりける笛【大穴】をとりかへされける時、うれへなげきてよみ侍ける、
思出のふしもなぎさにより竹のうきねたえせぬ世をいとふかな
やがてその比出家をとげてけり。うきはうれしき善知識となりにけり。
[二二四]
家隆卿(*藤原家隆)七十七になられける年七月七日、九條前内大臣(*藤原良通。年次からは久我前内大臣源通光カ)の許へ遣しける、
おもひきや七十七の七月のけふの七日にあはんものとは
定て返し〔し、一本作事〕有けんかし。尋てしるすべし。
[二二五]
寛元々年(*1243)二月九日、雪三寸ばかりつもりける曉、冷泉前右府【實氏】(*藤原實氏)參内し給ける。雪の降かゝりたる松の枝を折て、御硯の蓋におきて、御製を紅の薄やうにかゝせおはしまして結び付て、大納言二位殿(*後嵯峨院大納言局。源通方女)しておとゞにたまひける、
九重にふりかさなれる白雪はこれやちとせの松の初はな
おとゞ中宮(*藤原姞子。藤原實氏女)の御かたへまいりて、御硯を申いだして、尾張内侍(*藤原孝道女)をして御返事〔事、一本作し〕を奉られける、
ふりかゝるかしらの雪をはらはずはかゝるみことの色をみましや
[二二六]
寳治元年(*1247。後深草天皇代)二月廿七日、西園寺の櫻盛なりけるに、御幸なりて御覽ぜられけり。おとゞ(*藤原實氏)さま〴〵の御おくり物を奉られけるうち、五代帝王の御筆をまいらせらるゝとて、
つたへきく聖の代々の跡みてもふるきをうつすみちならはなん
御返し、
しらざりしむかしに今やかへるらんかしこき代々の跡ならひなば
此事昔は天曆の御門(*村上天皇)いまだみこにておはしましける時、貞信公(*藤原忠平)の御もとにわたらせおはしましたりける時、御おくり物に御手本まいらせられけるとき、
君がためいはふこゝろのふかければ聖の御代にあとならへとぞ〔ぞ、一本作て〕
御返し、
をしへおくことたがはずは行末の道とをくとも跡はまどはじ
此御哥ども〔ども、據一本補〕後撰に入たり。此ためしをおぼしめしけるにこそ。
[二二七]
住の江に御幸なるべし(*寳治の頃の後嵯峨上皇御幸)とて、神主修理を加へけるに、大畧みな新造になしたりければ、昔より書付おける人〴〵の詩哥みなあとかたなくなりに〔に、據一本補〕たるをみて、たれかよみたりけん、柱に書付侍ける、
かきつくる跡はちとせもなかりけりわすれずしのぶ人はあれども
[二二八]
成源僧正は連哥をこのむ人にて、其房中のもの共みなたしなみければ、中間法師常在(*未詳)といふあやしのものまで、かたのごとくつらねけり(*連歌を嗜んだ)。法勝寺の花の盛に、件常在法師いと櫻のもとにたゝずみて侍けるを、わかき女房四五人花見て侍けるが、此法師をみてあれも人なみに花みんとて有にやなんどあざけりつゝ、や、御〔御、原作き。今從一本〕房、此花一枝折てたびてんやといへりければ、この法師うちあんじて、
山がつはおりこそしらね櫻花さけば春かとおもふばかりぞ
といひかけたりければ、わらひつる女房共いらふることなし。あきれてぞたてりける。
[二二九]
入道右大弁眞觀(*藤原光俊。藤原光親男)を、仙洞(*後嵯峨院カ)の御會にたび〴〵召ありけれども、參らずして一首の哥を奉ける、
勅なればそむくにはあらず捨はてし身をいでがてに思ふばかりぞ
御返し、
このごろのならひぞつらきいにしへは勅にぞ人は身をもすてける
此御返事〔事、一本作し〕を給はりて、恐れ思ひてやがて其夜參りて、北面の邊にて少將雅定(*源雅定。源雅具男)につけて申入侍りて、御返しをばうけ給はらずして出にけり。寛平の御時素性法師がほかかゝるためしなきよし、入道うち〳〵申侍けるとかや。
古今著聞集卷第五 終
目録
第六 和歌