古今著聞集 卷六
橘成季
(『古事談・古今著聞集・十訓抄・榮華物語』 國史大系15 經濟雜誌社 1901.10.15)
※ 〔原文頭注等〕、【原文割注】、(*入力者注記)。振り仮名・振り漢字を施した。
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目録
第七 管絃歌舞
(目録)
古今著聞集卷第六
管絃歌舞第七
[二三〇]
管絃のをこり其つたはれる事久し〔久し、一本此下有く字〕。淸明天にかたどり廣大地にかたどる。始終四時にかたどり固綻雨にかたどる。宮商角徴羽(*きゆう・しやう・かく・ち・う。音階の名)の五音あり。或は五行に配し或は五常に配す。或は五事(*貌言視聽思)に配し或は五色(*靑黄赤白黑)に配す。凡物として通ぜずといふことなし。又變宮・變徴の二聲あり。合て七聲とす。又調子品その數おほしといへども、淸濁のくらゐみな五音をいでず。讃佛敬神の庭、禮義宴飫〔飫、集覽本作饗〕の莚も、この聲なければ其儀を調へず。故に〔故に、一本作かるがゆへに〕興福寺の常樂會百花匂をくり、石淸水の放生會黄葉衣におつ。しかのみならず淸凉殿の御遊にはこと〴〵く治世の聲を奏し、姑射山(*仙洞)の御賀にはしきりに萬歳のしらべをあはす。心を當時にやしなひ名を後代に留る事、管絃にすぐれたるはなし。
[二三一]
貞保親王(*淸和天皇皇子)桂河の山庄にて放遊し給けるに、平調にしらべて五常樂をなす間、灯火〔火、據一本補〕のうしろに天冠の影顯現しけり。人〴〵おぢ恐れければ、所現の影みづからいはく、我は唐家の廉承武(*琵琶博士。「琵琶血脈」に廉承武から藤原貞敏を經て貞保親王に至るとする。)の靈也。五常樂急百反に及ぶ所には必ず來侍也とてうせにけり。
[二三二]
延喜〔延喜、據紀畧(*日本紀略)當作延長〕四年(*904。延長も醍醐天皇代)十月、大井河に行幸有けるに、雅明〔明、原作朝。據紀畧・紹運錄改〕親王(*醍醐天皇皇子)御舟にて棹をとゞめて万歳樂を舞ひ給ける。七歳の御齡にて曲節にあやまりなかりける。ありがたきためし也。叡感にたへず御半臂を給はせければ、親王給て拜舞し給けり。此日勅有て親王舞釼をゆづり(*許りカ)給ふ。天曆聖主(*村上天皇)童親王の御時の例とて沙汰ありける。
[二三三]
同廿一年(*延喜二一年〔921〕)十月十八日、八條大將【保忠】(*藤原保忠。藤原時平男)、中納言の時勅をうけ給ひて、日比奏せざる舞を御覽ぜられけり。貞信公(*藤原忠平)右大臣にてまいり給。參入音聲には聖明樂をぞ奏しける。刑山〔刑山、一本作刑仙。恐當作荊仙〕樂〔樂、原作東。今從一本〕(*刑仙樂)・西河〔西河、恐當作石河〕・蘇志摩・傾坏樂・放鷹樂・弓士・採桑老・林歌・蘇莫者・泔洲・胡飮酒・輪臺・酣〔酣、據一本補〕醉、これらを御覽ぜられけり。此中雅樂屬(*うたのさくわん)船木氏有(*未詳)は放鷹樂を奏しけり。帽子に摺衣をぞきたりけ〔りけ、一本旡〕る。舞の間に心にまかせて鳥をとらせ〔せ、一本作れ〕ければ、見るもの目をおどろかしけり。又犬飼一人をぐしたりけり。これはもとよりあるべきものにはあらざる事とかや。この舞承和に奏したりける。其後聞へず。この裝束中納言に調ぜられける。舞ののち中納言庭におりて、氏有がとらする所の鳥をとりて膳部に給はせけり。其日の舞人百雄、氏有、峯吉、勸賞をかうぶりけり〔けり以下廿字、據一本補〕(*かうぶりマデ)。峯吉はひちりきの上手にて賞をかうぶり、おとゞは和琴をぞしらべたまひける。
[二三四]
延長四年(*926)正月十八日〔正月十八日云々、紀略曰二月十八日召文人於淸凉殿前翫櫻花獻詩又伶人奏歌管〕内裏にて梅花宴ありけり。主上淸凉殿のまごびさしに出御有けり。文人詩を献じ伶人樂を奏しけるに、曉に及て常陸〔常陸、或當作常明(*醍醐天皇皇子)〕親王(*淸和天皇皇子)箏を彈じ、八條中納言保忠(*藤原保忠)琵琶を彈ず。主上(*醍醐天皇)和琴をひかせおはしましける。目出かりける事也。
[二三五]
同六年(*延長六年〔928〕)常寧殿にて三月盡の宴ありけり。右大臣【定方】(*藤原定方。藤原高藤男)には〔には、或當作びは。按此下恐有脱文〕(*右大臣【定方】・按察大納言(*藤原仲平)・左衞門督【伊望】(*藤原保忠カ)・中宮大夫(*未詳)まいり給たり。樂所には〔宮内庁書陵部本〕)笙四人、篳篥一人、唱哥のもの數人など有ける。又かならず絃をとゝのへねども、吹もの一兩にてもかやうのことありけるにこそ。
[二三六]
同七年(*延長七年〔929〕)三月廿六日、踏歌後宴のまけわざ次第の事どもはてゝ御遊有けり。敦忠(*藤原敦忠。藤原時平男)笛をふき、義方(*良岑義方。良岑衆樹男)和琴を彈じけり。時〴〵みきまいりて彈正親王【章明】(*章明親王。醍醐天皇皇子)笙をふく。重明親王(*醍醐天皇皇子)笛をふき給ひけり。又勅によりて和琴をも彈じ給けり。右中弁希世朝臣(*平希世)・左中弁淑光朝臣(*藤原淑光)たちて舞侍けり。
[二三七]
天曆〔天曆、恐當作天慶〕八年(*954〔天曆八〕・945〔天慶八〕)正月五日、右大臣家(*藤原實賴)にて饗をこなはれけるに、はてつがたに式部卿親王(*敦實親王。宇多天皇皇子)とおとゞと歸德曲(*頭注旡。曲、據一本補とあるべきところ)を唱へられたりけるに、右近將曹伴野貞行(*未詳)狛桙と思ひつゝ松をとりてすゝみけるを、おとゞ歸德のよしを告給ければ松をすてゝ舞けり。貞行は高麗舞人なりけり。此事不審。歸德ならば松をばなど桙には用ひざりけるにか。
[二三八]
天曆元年(*947。村上天皇代)正月廿三日内宴を行はれけるに、重明親王(*醍醐天皇皇子)勅をうけ給はりて琴をひき給けり。一絃ゆるかりければ、右兵衞佐淸正(*藤原淸正。藤原兼輔男)に仰てはらせられけり。先春鶯囀を奏し後に席田をとなふ。次酒淸司をぞ〔ぞ、原作ば。據一本改〕奏しける。この間琴の武絃たえたりけれど猶彈じはて給ひけり。
[二三九]
同三年(*天曆三年〔949〕)四月十二日、飛香舍にて藤花の宴有けり。右大臣【師輔】(*藤原師輔)・左衞門督【高明】(*源高明)・左兵衞督【師尹】(*藤原師尹。藤原忠平男)候給。和哥絲竹の興などはてゝ、女御(*藤原安子カ。藤原師輔女)御おくりものありけり。先皇(*醍醐天皇)の勤子内親王(*醍醐天皇皇女)に給ひける箏譜三卷、貞保親王(*淸和天皇皇子)のもちゐたりける笛・螺鈿箏などをぞ奉り給ける。箏奇香あるよし李部王(*式部卿重明親王)記し給たるとかや。いかなる匂ひにてか侍りけん、ゆかしき事也。
[二四〇]
同五年(*天曆五年〔951〕)正月廿三日宴〔宴、此上恐脱内一字〕おこなはれけるに、式部卿重明親王琴(*醍醐天皇皇子)、左大臣【實賴】(*藤原實賴)箏、中務大輔博雅朝臣(*源博雅。博雅三位)和琴、侍從延光朝臣(*源延光。枇杷大納言)琵琶、散位朝忠朝臣(*藤原朝忠。藤原定方男)、右近中將藤原朝臣(*藤原朝成。藤原定方男)笙。安名尊・春鶯囀・席田・葛城などをぞ奏しける。其後平調曲も有けり。
[二四一]
同七年(*天曆七年〔953〕)十月十三日内裏にて庚申の御あそびありけり。女藏人菊の花のゆわり子(*檜破子カ)を奉る。大納言高明卿(*源高明)・伊與守雅信朝臣(*源雅信)御前に候。樂所の輩は御壺にぞ候ける。大納言琵琶を彈じ、朱雀院のめのと備前命婦(*未詳)簾中にてことを彈じける。昔はかやうの御遊つねの事也けり。おもしろかりける事かな。
[二四二]
康保三年(*966。村上天皇代)十月七日舞御覧有けるに、小野宮右大臣【實資】(*藤原實資)童にておはしけるが、天冠をして納蘇利をつかうまつり給けり。舞をはりて御倚子のもとにめして、御袙〔袙、原作拍子二字。據一本改〕を給はせければ、左大臣【淸愼公】(*藤原實賴。藤原實資祖父)かしこまり悦び給ひてたちてまひたまひけり。拜舞はなかりけり。ゆへありけるにや。
[二四三]
いづれの比の事にか、大宮右大臣【俊家】(*藤原俊家。藤原顯宗男)殿上人の時、南殿の櫻盛りなる比、うへぶしより未だ裝束も改めずして、御階の下にてひとり花をながめられけり。霞み渡れる大内山の春の曙のよにしらず心すみければ、高欄に倚かゝり扇〔扇、一本此下有子字〕を拍子に打て、櫻人の曲を數反うたはれけるに、多政方(*多好用男)が陣直つとめて候けるが、哥の聲を聞て花のもとに進み出て、地久の破をつかうまつりたりけり。花田狩衣・袴をぞきたりける。舞はてゝ入ける時、櫻人を改めて蓑山をうたはれければ、政方又立歸りて同急を舞ひける。をはりに花の下枝を折て後おどりて振舞たりけり。いみじくやさしかりける事也。此事いづれの日記にみえたるとはしらねども、古人申傳へて侍り。
[二四四]
博雅卿(*源博雅。博雅三位)は上古にすぐれたる管絃者なりけり。生れ侍けるとき天に音樂の聲きこえけり。そのころ東山に聖心上人(*未詳)といふ人ありけり。天をきくに微妙の音樂あり。笛二、笙、・箏・琵琶各一、皷一聞えけり。世間の樂にも似ず不可思儀に目出たかりければ、上人あやしみて庵室をいでゝ樂の聲につきてゆきければ、博雅の生るゝところにいたりにけり。生れをはりて樂の聲はとゞまりぬ。上人他人に語ることなく、數日をへてまた彼所へ向ひて、其生兒の母にこの瑞想〔想、恐當作相〕を語り侍けるにとなん。彼卿は子息二人有けり。一人は信義(*源信義)、笛の上手也。一人は信明(*源信明)、琵琶の上手也けり〔けり、據一本補〕。信義をば雙調の君とぞ號しける。其故は式部卿宮(*宇多天皇皇子敦實また敦慶という。)時の管絃者・伶人等を卒して河陽(*宇治川北岸の嵯峨天皇河陽〔かや〕離宮跡か。)に遊給けるに、明月の夜曉にのぞみて川霧深きうちに、雙調の調子を吹て過る舟あり。其舟やう〳〵きたりちかづくをきくに誠に神妙なりけり。我朝に比類なき笛也。誰人ならんと人〳〵あやしう思ひあへるに、舟は霧にこめられて見えず、うちかひ(*打櫂)の音ばかり聞えてすでに船と行ちがふ時、親王誰にかと問給ひければ、信義と名乘たりけり。宮感情にたへず雙調の君なりけりとの給はせけり。それより天下みな雙調の君と號しけるとぞ。
[二四五]
殿上の其駒は知りたる人すくなし。能信大納言(*藤原能信。藤原道長男)法成寺の修正(*しゆじやう。修正會)に、南門を入てまいりて、退出の時西門へまはされける程、立やすらひける間に彼曲を唱られたりけり。大宮右府俊家(*藤原俊家。藤原賴宗男)の頭の中將にておはしけるが、ついがき(*築垣)にそひてひそかにたち聞給けるを、能信卿見付にけり。中將おどろきさはがれけるを、能信卿其志を感じて、扇を拍子に打て此曲を授られにけり。其後彼家に傳はれり。堀河院中御門右大臣【宗忠】(*藤原宗忠)にならはせ給ける時申されけるは、一説は誠におぼしめす人あらばをしへさせ給て〔て、或當作へ〕、今一説は敎へ給ふまじくばさづけまいらすべきよし奏し給ければ、申旨にたがふべからずと勅定有て、兩説ながら傳へさせ給ひてけり。嘉承〔嘉承以下一本爲別行〕二年(*1107)崩御の後、右府人々にたれか彼曲習ひ給はりたると尋られけれども、習まいらせたる人なかりけり。おとれる説をも猶〔猶、一本旡〕秘せさせ給けるにこそとて悲涙をながされけり。中御門内大臣子息大納言宗家卿(*藤原宗家)外孫同宗能卿(*藤原宗能。藤原定能カ)に授られたりけり。六波羅の太政入道【淸盛】(*平淸盛)嚴島の内侍に傳ふべきよし宗家卿に示されければ、歎ながら世にしたがふならひ、力およばでおとる説を傳へられに〔に、據一本補〕けり。但他人に敎ふべからざる由をまづ起請をぞかゝせられける。多好方(*多近方男)これを聞てかの内侍にとひければ、しらざるよしをぞこたへける。此曲は宗家卿冷泉内府(*藤原良通。藤原兼實男)にもをしへられたりけるとかや。
[二四六]
管絃はよく〳〵用心あるべき事也。前筑前守兼俊(*源兼俊。源經宗男)殿上に笙吹なきによりて、昇殿を免さるべきよし沙汰有けり。まづ試有ける日、きさき笛(*大蚶氣繪〔おほきさきゑ〕・小蚶氣繪〔こきさきゑ〕。笙の名物という)を給ひてふかせられけるに、用心なくして吹出しける程に、管の中に平蛛の有けるが喉にのみ入られにけり。むせてはつきまどひける程に、主上・羣臣も笑ひ給て腸を斷けり。おほきに嗚呼を表して、昇殿のさたもとゞまりにけり。かゝるためしあれば事におきて能〳〵用心あるべき事也。なかにも御物のつねにもふかれざらんは、まづ小息にて心みるべき〔べき、一本此下有事字。或是〕也。
[二四七]
宇治殿(*藤原賴通)平等院を建立させ給ひて、延久元年(*1069)の夏の頃はじめて一切經會を行はせ給けり。法會儀式・堂の莊嚴心ことばも及びがたし。大行道樂に澁河鳥を奏しける。多政資(*多政方男)一者にて一皷かけて池の邊をめぐるとて、鴨のむなぞりといふ秘曲をつかうまつりける。ときにとりていみじくなん侍ける。
[二四八]
後冷泉院御時、白河院に行幸有て花宴侍けるに、殿上人樂を奏して南庭をわたりけるに、笙にはかにさはる事ありて參らざりければ、既に事かけなんとしけるに、大外記中原貞親(*中原師任男)は笙ふくものなりければ、もし笙や随身したると御尋有けるに、すなはち朱俊〔朱俊、或當作隨身。依訓讀相渉而誤者歟〕(*朱紱〔しゆふつ〕かともいう。杜甫「獨坐」等)の懷より取出して侍ければ、叡感ありて殿上人の奏樂につらなりて南庭をわたりける。時にとりてめづらしくいみじくなん侍ける。
[二四九]
大貳資通卿(*源資通。源濟政男。『無名抄』では宮内卿源有賢とする。)、管絃者どもを友なひて金峯山にまうづる事ありけり。下向の時路次に古き寺あり。其寺におりゐてやすみけるつゐでに、其邊を見めぐりけるに、一人の老翁のありけるをよびて、此寺をば何といふぞと問ければ、翁これをば豐等寺(*豐浦寺、葛城寺。欽明天皇の時に百濟から將來した佛像・經卷を蘇我稲目が祀った明日香の古寺)と申侍るとこたふ。又寺のかたはらに井あり。これ榎葉井(*えはいトモ。雅樂の曲名にもあり。)といふ。又うしろの山はなに山といふぞととふ。此山は葛城山なりとこたふ。人〴〵これを聞て感涙をたれて、をの〳〵堂に入て寺をうちはらひて、葛城(*催馬樂の曲名)を數反うたひて歸りけり。(*『無名抄』に同話あり。)
[二五〇]
篳篥吹遠理(*源遠理〔とほまさ〕。源惟正男)が父(*源惟正)阿波守にて下向の時、遠理其ともにおなじく下向しけるに、其年旱魃の愁ありければ、とかく祈雨をはげめどもかなはず。七月ばかりに遠理其國の社【其神可レ尋。】へ參りて、奉幣の後に調子を兩三反吹て祈請の間、俄にから笠ばかりなる雲社のうへにおほひて、たちまちに雨下りて洪水に及びにけり。神感のあらたなる事、秘曲の地におちざる事かくのごとし。
[二五一]
志賀僧正【明尊】〔志賀僧正、一本旁書云道風孫兵庫頭泰時が子也〕(*小野奉時男。園城寺長吏〔圓滿院僧正〕・平等院開山)本よりひちりきをにくむ人なりけり。或時明月の夜湖上に三船をうかべて管絃・和歌・頌物(*朗詠の意カ)の人を乘せて宴遊しけるに、伶人等其舟にのらんと〔と、據一本補〕する時いはく、此僧正篳篥にくみ給人也。しかあれば用枝(*未詳。篳篥名手に右城正枝、和邇部用光、和邇部光枝等あり。)はのるべからず。ことにがりなんずとてのせざりければ、用枝さらば打物(*鐘鼓の類)をもこそつかまつらめとてしゐて(*のりカ)けり。やう〳〵深更に及ぶ程に、用枝ひそかに篳篥をぬき出して、湖水にひたしてうるほしけり。人〳〵見てひちりきかとゝひければ、さにはあらず手あらふなりとこたへて、何となきていにて居たり。しばらくありてつゐにねとり出したりければ、かたへの樂人ども、さればこそいひつれ、よしなき者をのせて興さめなんずと色をうしなひてなげきあへる程に、其曲めでたくたへにしてしみたり。聞人みな涙おちぬ。年比是をいとはるゝ僧正、人より殊になきていはれけるは、正敎に篳篥は伽陵頻(*迦陵頻伽)のこゑをまなぶといへる事あり。此言を信ぜざりける口おしき事也。いまこそ思ひしりぬれ。今夜の纒頭は他人に及べからず、用枝一人にあるべしとぞいはれける。此事を後〳〵までいひ出してなかれける〔ける、據一本補。集覽(*史籍集覽)本作し〕とぞ。
[二五二]
後三條院は管絃をば御沙汰なかりけり。去ながら中御門大納言宗俊(*藤原宗俊。藤原俊家男)の箏をきこしめして、此卿が箏はたゞものにあらず、道におゐてうへなきもの也と、御顏色も變じまし〳〵て御感有けり。白河院も此人の箏をきこしめしては、御落涙有てかんぜさせ給けり。按察大納言宗季(*藤原實季カ)に仰られけるは、我宗俊が箏をきゝて、おほく滅〔滅、原作聽。據一本改〕罪障に非管絃者嗚呼の覺えとるべき也とぞ叡感〔叡感、一本此上有御字〕有ける。さて殊に御憐愍有けり。知足院殿(*藤原忠實)は彼卿參られければ、いかなる奏事有けれどもきこしめされず、御箏さた有て毎度興に入らせ給也。
[二五三]
永保三年(*1083)七月十三日、主上(*白河天皇)・殿下(*藤原師實)南殿巽角御座ありて、藏人盛長(*源盛長。源長季男)をして御琵琶牧馬をめしよせらる。則錦の袋に入て參りたりけり。御覽ののち大納言經信卿(*源經信。源道方男)に引せられけり。きこしめして玄象といかにと仰られければ、大納言申されけるは、むかし前一條院(*後一條天皇に対して一條天皇を指す。)御時、信明(*源信明。源博雅男)・信義(*源信義。源博雅男)等をめしてこの御琵琶どもをひかせられけるに、信明は玄象、信義は牧馬を彈ず。牧馬すぐれて聞ゆ。其時とりかへて玄象をひかせらるゝに玄象すぐれたり。其時琵琶の勝劣あらず、彈人によりけりと奏せられけるを聞しめして、玄象をとりいでゝひかせられけるに、まことに勝劣なかりけり。此事彼卿たしかにしるしおかれ侍り(*源經信『帥記』カ)。
[二五四]
大宮右相府(*藤原俊家。藤原賴宗男)薨去の後、七々日の〔日の、據一本補〕忌はてゝ人〴〵分散しけるに、大納言宗俊卿(*藤原宗俊。藤原俊家男)ひとり舊居にとゞまり居て、心ぼそく思はれけるにや、鬢かゝれけるつゐでに、草子筥のふたを拍子に打て、万秋樂の序を唱哥にせられける。一句をしめては涙をおとしてぞ居給たりける。ことに風病おもき人にて、笛のつか(*柄)にも紙をまきてぞつかはれける。しかふして紫檀の甲の琵琶をよくさむき時もひかれければ、近習の者どもは此人はそら風をやみ給ふにこそなどぞ〔ぞ以下廿二字、一本旡〕(*おはするにやなど迄)いひあへりける。又物狂の氣のおはするにやなどいひける。琵琶は箏・笛ほどの堪能にはあらざりけるとぞ。さりながら白河院御とき承曆年中(*1077−1081)に、飛香舍にして琵琶の明匠八人をめしける中に、此大納言は入られけるを、不堪のよしを申て再三辭し申されけれども、猶その淸撰に入にけり。其八人は經信(*源經信。源道方男)・宗俊・政長(*源政長。源資通男)・基綱(*源基綱。源經信男)・院禪〔院禪、原作□經。據一本改補〕(*未詳)、今三人たれ〴〵にて侍るにか尋べし。
[二五五]
源義光(*新羅三郞。源賴義男)は豐原時元(*豐原時光男)が弟子也。時秋(*豐原時秋。豐原時元男)いまだおさなかりける時、時元はうせにければ、大食調入調曲をば時秋にはさづけず、義光には慥にをしへたりけり。陸奧守義家朝臣(*源義家、八幡太郞。源賴義男)永保年中(*1081−1084)に武衡(*淸原武衡。淸原武則男)・家衡(*淸原家衡。淸原武貞男、淸原武衡甥)等を責けるとき、義光は京に候〔候、一本旡〕てかの合戰の事をつたへきゝけり。いとまを申て下らんとしけるを、御ゆるしなかりければ、兵衞尉を辭し申て、陣につる〔る、原作か。據一本改〕袋をかけて馳下りけり。近江國境の宿につく日、花田のひとへかり衣にあをばかまきて、引入烏帽子したる男おくれじと馳きたるあり。あやしう思ひて見れば、豐原時秋也けり。あはれ〔あはれ、一本作あれは〕いかに何しに來りたるぞと問ければ、とかくの事はいはず、只御供仕べしとばかりぞいひける。義光此度の下向物さはがしき事侍て馳下る也。伴ひ給はん事尤本意なれども、此たびにおきてはしかるべからずとしきりにとゞむるを聞ず、しゐてしたがひ給ひけり。力及ばでもろともに下りて、つゐに足柄の山まできにけり。彼山にて義光馬をひかへていはく、とゞめ申せども用ひ給はで、これまで伴ひ給へる事其志あさからず。さりながら此山にはさだめて關もきびしくてたやすくとをす事もあらじ。義光は所職を辭し申て都を出しより、命をなき物になして罷りむかへば、いかに關きびしくとも憚るまじ。かけ破りて罷り通るべし。それには其用なし。すみやかに是より歸り給へといふを、時秋なを承引せず又いふことも〔も、一本旡〕なし。其時義光時秋が思ふ所を悟りて、閑所〔閑所、原作のどか。據一本改〕に打寄て馬よりおりぬ。人を遠くのけて柴を切はらひて、楯二枚をしきて、一枚には我身座し、一枚には時秋をすへけり。うつぼ(*靭)より一紙の文書を取出て時秋に見せけり〔り、一本作れ〕。父時元が自筆に書たる大食調入調曲の譜、又笙はありやと時秋に問ひければ、候とてふところより取出したりける用意の程まづいみじくぞ侍ける。其時是までしたひ來れる心ざし、定て此れう(*料)にてぞ侍らんとて、則入調曲を授けてけり。義光はかゝる大事によりてくだれ〔くだれ、原作ただう。據一本改〕ば身の安否しりがたし。万が一安穩ならば都の見參を期すべし。貴殿は豐原數代の樂工、朝家要須の仁也。我に志をおぼさば、すみやかに歸洛して道を全ふせらるべしと再三いひければ、理におれてぞのぼりける。
裏書〔裏書、據一本補〕
宇治左府(*藤原賴長。藤原忠實男)御記(*臺記)云、
保延五年(*1139)六月十九日【丁卯】、依レ爲二入學吉日一、平調入調習畢。即吹十返、以二時秋一爲レ師所望也。昨以二消息一觸二權大納言(*源雅定カ)一云、明日習二入調一如何。返報云、尤可レ然者。
同廿日【戊辰】、習二大食調入調一、習二時秋一也。習則吹十返。昨日以二吉日一習二平調一。仍大食調不レ尋二日次一。昨習二平調入調一訖。後申二權大納言一【以二消息一申。】曰、平調入調已習。此後經二一兩月一可レ習二大食調一歟如何。返報云、只可レ任レ意者。仍所レ習也。召二時秋於南庭一給二栗毛之〔之、一本旡。當衍〕馬一疋一。【置レ鞍。下臈随身取レ之。上手下手廐舍人取レ之。】時秋一拜退出。件馬幷舍人等外宿也。然而予有二簾中一給レ之。至二入調一者有レ緣〔緣、據下文或當作祿〕【云々】。昔時光(*豐原時光。豐原時延男)習二平調入調於時信(*和邇部時信)一。時信云、入調者四天王之常所レ令二守護一也。仍必給レ祿。時光淸貧無レ財。以二古泥障二枚一奉二時信一【云々】。習訖之由告二權大納言一。相-二副返事一、被レ送二故左近將監時光自筆譜二枚一。
【一枚平調入調、一枚大食調。々々々入調、奧書載二黄鐘調々子秘説一。予披-二見之一、一拜捧持賞翫矣。】
[二五六]
堀河院御時、六條院(*白河上皇の別名)に朝覲行幸ありけるに、池の中島に樂屋を構へられたりけるに、御所水をへだてゝはるかに遠かりけり。博定(*藤原博定。藤原知定男)勅をうけ給て大皷をつかうまつりけるが、壺(*狙い所、間合い)よりもすゝめて撥をあてけり。後日に博定元正(*大神基政、元政)にあひて昨日の大皷はいかゞありしといひければ、元正めでたくうけ給き。但少し壺よりすゝみてぞ聞えしといひければ、又とひけるは、つぼはうち入たるたびやまじりたりし。はじめをはり同じ程にすゝみて侍しかといふ。元正始終すゝみて終りにきと答へければ、博定扨は意趣に相叶ひに〔に、據一本補〕たり。其故は樂こそ引はなれぬ事なればかすみわたれ、とをくて物をうつはひゞきのおそくきたる也。されば御前にては壺にうち入てよくぞきこしめさんとぞいひける。この心ばせ思ひよらざる事也。めでたしとぞ元正感じける。
[二五七]
前所衆(*藏人所の雜事を奉仕した五位・六位)延章(*未詳)は名譽の者也。白河院御時六條内裏に行幸有けるに、朱雀院〔院、據一本補〕大納言俊明(*源俊明。源隆國男)延章を頻に擧申されければ、はじめてめされにけり。勅定によりて右大皷をつかうまつりけるに、皇仁(*皇仁庭)に拍子をあやまち〔ち、一本作り〕にけり。笛は正淸(*戸部正淸)・元正(*大神基政、元政)なりけり。元正が吹ところの皇仁年比きくに、延章が説にたがはざりければ、其旨を存ずる所に、今度異説を吹たりけるに、失レ度拍子をあやまちにけり。延章樂屋に入て元正をうらみていひける、年比貴説をうけ給るに愚説にたがはず。それに此たびは異説を吹給て拍子おとさしむる事、いきながらくびをきらるゝ也といひければ、元正云、またくあやまらざる事也。申さるゝがごとく傳ふる所まことにかはらず。されども面笛(*主笛)正淸也。その伏息のほど笛を元正にゆづる。吹出には彼人の説をふかずして、豈他説をもちゐんや。大皷の撥をとらるゝばかりにては、いづれの説をも慥にこそは存知〔知、一本旡〕し給はめとぞ云ける。なだらかに目出度ぞ侍ける。是笛吹を背て我がしこ(*我賢)にもてなすがいたす所也。大皷の撥をとる日は笛吹とよくいひあはせて存知すべき事也。古人の傳ふる所也。
[二五八]
堀河(*傍註)嘉保二年(*1095)八月八日、院(*閑院〔藤原冬嗣邸〕)に行幸ありて相撲を御覽ぜられける。江帥(*大江匡房)兼日に式をつくりて奉りける時、舞人狛光季(*狛則髙男)申けるは、万歳樂をとゞめて賀殿を奏せんと思ふ。そのゆへは一には万歳樂は毎年に御覽ぜらるゝ曲也。一には祝は〔祝は、一本旡〕賀殿おなじかるべし。一には舞興賀殿まされり。一には此院新造たり。賀殿の儀あひかなへり。江帥このよしを奏せられければ、しかるべき由勅定ありてまづ賀殿・地久を奏しけり。其時の内裏は堀河院、仙洞は閑院にて侍けり。程ちかければかち(*徒歩)の行幸にてぞ侍ける。
[二五九]
長治二年(*1105。堀河天皇代)正月五日朝覲行幸ありけるに、胡飮酒中院右大臣(*源雅定)童にて舞給けり〔けり、一本作ける〕。左衞門督(*源雅俊。源顯房男)・右大弁宗忠(*藤原宗忠)・宰相中將忠敎(*藤原忠敎。藤原師實男)絲竹にたへたるによりて、樂屋の前に座を敷て着座せられけり。舞いまだをはらざりけるに、法皇(*白河法皇)の召によりて胡飮酒の童參りけり。靴をぬがず御前の簀子に候ければ、主上(*堀河天皇)紅の御袙〔袙、一本旁書云袍か〕を給はせけり。右大臣(*藤原忠實)傳へ給はせけり。童庭におりて舞てしりぞき入ければ、父の内大臣(*源雅實。源顯房男)庭におりて拜舞し給ひけり。一家の人〴〵みな下殿せられける。ゆゝしくぞ見え侍ける。御遊に忠敎卿笛をふかれけるを、主上とゞめおはしまして、みづからふかせ給ひけり。胡飮酒のわらははふえふき給ひけり。めづらしくやさしくぞ侍りける。
[二六〇]
嘉承二年(*1107。堀河天皇代)三月五日鳥羽殿に行幸ありて六日和哥の興ありけり。序を〔を、原作代。今暫從一本〕ば中納言宗忠(*藤原宗忠)ぞかゝれける。次に御遊。主上笛をふかせおはしましける。殿下(*關白藤原忠實)箏、宗忠卿拍子、宗通卿(*藤原宗通。藤原俊家男)付哥、新中納言基綱卿(*源基綱。源經信男)琵琶、左京大夫顯仲卿(*源顯仲)笙、俊賴朝臣(*源俊賴。源經信男)篳篥、有賢朝臣(*源有賢。源政長男)和琴、家俊朝臣(*源家俊。源家賢男)付哥。安名尊三反、櫻人一反、席田二反、鳥破急、賀殿急、律、靑柳二反、万歳樂、五常樂急。絲竹のしらべことに面白かりけり。法皇は簾中にてぞ聞しめしける。感興のあまり密々に北面の御所のかたに、中納言顯通卿(*源顯通)以下をめされたりけり。殿下もまいらせ給ひけるとぞ。盃酌・朗詠・今樣など有けり。八日主上御船にめして御遊有けり。その後舞樂・御贈物・勸賞などありて還御ありけり。
[二六一]
堀河院御時、節會につねよりもいそぎ入御ありけるを、人々あやしう思ひける程に、御膳宿のかたにて立樂の時になりて、皇帝を吹出させおはしたりけり。めづらしくいみじかりける事也。彼右府(*中御門右大臣藤原宗忠)のしるしをかれたるとかや(*中右記カ)。尋ぬべし。
[二六二]
季通(*藤原季通。藤原宗通男)のいはれけるは、非管絃者口惜事。堀河院御時平調にて御遊ありしに、物の音よくしみて漸曉に及ぶに、五常樂急百反に及べば、草木も舞なるものを。あるべしとてあそばされ侍しに、五十反ばかりにて天明ければ、時元(*豐原時元。豐原時光男)排て見るに、庭樹のうごくをみて、さて舞めるはと申けるを、目出たき心ばせかなと人〴〵いひて感じ思ひけるに、顯雅卿(*源顯雅。源顯房男)いまだ殿上人にて、無能にてその座に候だにかたはらいたきに、奏云あれは風の吹候へばうごくに侍りと申たりけるに、滿座わらひけり。
[二六三]
同院(*堀河院)の御時樂敵〔敵、原作歌。據一本改〕の事ありけり。殿上(*殿上人)三臺(*曲名)を奏す。主上御笛あそばしけり〔けり、據一本補〕。破二反、急三反、さらに又急數反あり。この答に地下五常樂を奏す。笛時元(*豐原時元。豐原時光男)序後詠の段々つねのごとし。破六反畢て急を奏するに、殊に〔殊に、據一本補〕叡感ありて樂をとゞむべからずと天氣ありけり〔けり、一本作けれ〕。其間に〔に、據一本補〕夜月窮昇ぬ。地下の勝になりにけり。
[二六四]
樂所〔樂所以下恐當爲別行〕(*國史大系原文は前段に接續)預小監物源賴能は上古に耻ざる數寄の者也。玉手信近(*後、戸部信近と改稱)に順て横笛を習けり。信近は南京(*平城京)にあり。賴能其道の遠きをいとはず、或は隔日にむかひ、或は二三日をへだてゝゆく。信近ある時にはをしへ、或時に〔に、據一本補〕は敎へずして遠路を空しく歸るおりも有けり。或時は信近荒〔荒、原作苽。據一本改〕田にありてその虫をはらひければ、賴能も隨ひて朝より夕にいたるまでもろ共にはらひけり。扨かへらんとする時たま〳〵一曲を授けり。ある時は又豆を苅所〔所、一本作時〕にいたりて又是をかり、苅をはりて後鎌の柄をもて笛にして敎へけり。かくして其わざをなせる者也。更に下問をはぢず貴賤を論ぜず訪學しけり。天人樂をば八幡宮寺の橋上にて大童子に習ひたるとぞいひつたへたる。賴能は博雅三位(*源博雅)の墓を知りて、とき〴〵參向して拜しける。まことによく數寄たるゆへなり。
[二六五]
知足院殿(*藤原忠實、富家殿)何事にてかさしたる御のぞみ〔のぞみ、一本此下有事字〕ふかゝりける事侍けり。御歎の餘り大權坊(*未詳)といふ効驗の僧の有けるに、咜〔咜、一本作吒〕祇尼の法を行はせられけり。日限をさしてしるしある事なりけり。責ての懇切のあまりに件の僧をめして仰合られけるに、僧の申けるは此法いまだ疵つかず。七日が中にしるし有べし。若七日に猶しるしなくば今七日をのべらるべく候哉〔哉、一本旡〕。それにかなはずばすみやかに流罪に行はれ候へかしときらびやかに申てけり。仍供物以下の事注進に任せて給てけり。さて始おこなふに七日に驗なし。その時すでに七日に驗なし、いかにと仰られければ、道塲を見せらるべくや。たのもしき驗候也と申ければ、則人をつかはして見せられければ、狐一疋來て供物等をくひけり。更に人におそるゝ事なし。扨其後七日のべ行はるゝに、まんずる日知足院殿御晝ねありけるに、容顏びれいなる女房御枕をとをりけり。その髪かさねのきぬのすそより三尺ばかりあまりたりけり。あまりにうつくしうえん〔えん、原作ゝハん。據一本改〕におぼしけるまゝに、そのかみにとりつかせ給ひぬ。女房見かへりてさまあしう、いかにかくはと申ける聲・けはひ・かほのやう、すべて此世のたぐひにあらず、天人のあまくだりたらんもかくやとおぼえさせ給て、いよ〳〵しのびあへさせ給はで、つよく取とゞめさせ給ひけるを、女房あしく引はなちて通りぬと覺しめしける程に、その髪きれにけり。かたはらいたくあさましくおぼす程に御夢さめぬ。うつゝに御手にものゝかにして(*感じてカ)あるを御覽じければ狐の尾也けり。不思儀に覺しめして、大權坊をめして其のやうを仰られければ、さればこそ申候つれ。いかにむなしかるまじく候。年比嚴重のしるし多く候つれども、是程にあらたなる事はいまだ候はず。御望の事明日午の刻にかならず叶ひ候べし。此上は流罪の事は候まじくやと狂申出にけり。かつ〴〵とて女房の裝束一襲かづけ給けり。申すがごとく次日午刻に御よろこびの事公家より申されたりけるとぞ。攝録の一番の御まつりごとに大權房〔房、據一本補〕をば有職になされけり。件のいき尾はきよき物に入てふかくおさめにけり。やがて其法を習はせ給て、さしたる御望などの有けるには、みづから行はせ給けり。かならず驗ありけるとぞ。妙音院の護法殿に收〔收、原作ね。今意改〕られけるいかゞなりぬらん。其いき尾の外も又別の御本尊有けるとかや。花園のおとゞ(*源有仁邸)の御跡冷泉東洞院に御渡りありし時も、ほこらをかまへていはゝれたりけり。福天神とて其社當時(*現在)もおはしますめり。
(*國史大系・古典大系とも章段を分けない。)此福天神の不思儀おほかる中に、寛喜元年(*1229。後堀河天皇代)の比七條院に式部大夫國成〔國成、一本此下有卿字〕(*未詳)といふ者あり。越前の目代にて侍しかば、其時目代入道とぞ申ける。其子息に左衞門尉なにがしとかやいひて、四條大納言家(*四條隆房・隆衡カ)に祗公(*祗候)の間、夕暮にかの亭冷泉万里小路より退出の時、大炊御門高倉邊にて立とゞまりて、あなおもしろの箏の音やといひて、行もやらず打かたぶきて面白がりけり。そこにある男に是はきくかといふ。更にきかずとこたへければ、いかにや是程に面白き箏をばきかぬとて、猶ひとり心をすまして立たりけり。さて家に行〔行、一本旡〕つきて、やがて胸をやみ出して淺ましく大事也。其うへ物ぐるはしくて、西をさしてはしり出んとしければ、したゝかなる者ども六人して取とゞめけるに、其力のつよき事いふばかりなし。高くおどりあがりてかしらを下になして、肩を板敷につよくなげゝれば、只今に身もくだけぬとぞ見えける。其時法深房(*藤原孝時)いまだ俗にて、大炊御門東洞院の山かの中納言局(*未詳)の家の北對をかりうけてゐられたりけり。此病者が家はたゞ東にてぞ侍ける。そなたへゆびをさしてゆかんとするを、父たがもとへゆかんと思ひてゆびをばさすぞ。西(*は)藤馬助(*藤原の右馬助。孝時を指す。)こそおはすれ。かれへゆかんと思ふかと問ければ、病者うなづきけり。さらばよび申さんはいかにといへば、悦たるけしきにてうなづきけり。其時馬助のもとへ行て、此やうをいひければ、あやしき事也とて、則あひ共に病者のもとへ行ぬ。病者馬助を見て、さしも狂ひつるがしめ〴〵としづまりて、みづから烏帽子をとりて、打かつぎて、ふかくかしこまりたり。あたりに六七人ゐたりける看病の者どもを次第にゝらみけり。よにあしげに思ひたりければみなのけてけり。父の入道ばかりかたすみに引入て居たりけるを、猶あしげに思ひてにらみければ、それをものけてけり。馬助と只二人むかひて、其けしき殊に事よく心ゆきたるけしき也。猶かしこまり恐れたる事限なし。扨馬助何しにめされ候けるぞといへば、いよ〳〵ふかくかしこまりて、始めて言葉を出していひけるは、御邊ちかく候物にて候。見參に入たく候てといふ。馬助さ候へばめしにしたがふて參り候。何事も仰られ候へといへば、病者あまりに御箏・御琵琶・御こゑわざなどの承たく候といふ。馬助やすき事に候。其道にたづさはりたる身にて候へば人をきらふ事なし。たゞ聞たがる人を悦び〔び、原作に。據一本改〕(*にカ)つかうまつれば仰に隨ふべしとて〔て、據一本補〕、則琵琶を取寄て引て聞するに、打うなづき〴〵て左右へ身をゆるがして、心とけたるさまあらは也。引はてゝ置ければ、又御箏の承たく候といふ。則いふがごとくに引けり。面白がる事先のごとし。其後朗詠・催馬樂などさま〴〵のこゑわざども所望に隨ひてつくしければ、あさましくうれしげに思ひたり。扨馬助いひけるは、仰に隨ひて諸藝どもつかうまつりぬ。此御望は幾たびなり共やすき事也。聞度おぼさん時は憚り給べからず。かやうによのつねならぬ御けしきならで、今よりはのどまりて仰られよといへば、病者又かしこまりつゝ、かやうの身がらにては、かくうるはしからでは見參の便冝候はで〔で、一本作ん〕といふ。馬助左候はゞいとま給はりて罷なん。ちと物もめし候へかしといへば承伏しけり。則白き米をかはらけに入たるを、うちあはびとおしきに入てとり寄すゝむれば、米をうちくゝみて、ことにはおと(*齒音)よげにから〳〵とくひけり。打あわびをとりあはせて、只一兩口にやす〳〵とくひてけり。其くひやうも普通の儀にあらず。さて酒をすゝむれば日來はすべて一かはらけだにもえのまぬ下戸なりけるが、大なりし大かはらけにて二度のみてけり。今一度とすゝめて又一度のみつゝ、此うへはさらばとて馬助は歸りぬ。さる程に曉に及て、父入道又來ていふやう、御歸の後又くるひ候也。さりとては今一度御渡り候て御覽ぜよといふ。すなはち隨ひて來ぬ。實も其くるひやうおびたゝしくおそろしかりけり。馬助來ていかにきやう〳〵に(*輕々に)人をばすかさせ給ぞ。何事も仰らるゝに隨ひて、もろ〳〵の事ほどこして聞せ奉りぬ。今は御心ゆきていとまを給りて歸りつれば、心やすくこそ思ひ給に、やがていつしかかくおはすべき事かはとはしたなげにいひければ、その事に候。猶所望の事ども殘て候也。琵琶には手と申て目出たき事の候ぞかし。それが承たく候てといふ。馬助やすき事、さらば一どには仰せられでとて、則風香調平一兩(*手一兩トモ)引て聞せけり。まめやかに面白げに思ひて、打かたぶき〴〵聞けり。其時琵琶の手はきかせ給ぬ。箏の調子はいかに。これ程すかせ給たれば心おちて引てきかせ奉らんとて、三段のぼり〔のぼり、一本作の外〕かきあはせ幷梅花といふ撥合など引てきかせければ、たな心合せて面白がりけり。かくする程に夜すでに明て、壁のくづれより日影のさし入たる穴より、犬の鼻をふきて内をかぎけるを此病者見て、扇をすへ顏の色かはり恐れおのゝきたるけしき也。こゝにかの福天神の所爲と悟りて犬を追ひのけつ。其後けしきなをりてけり。今は心ゆきぬらん。罷歸らん。見參に入候ぬるうれしく候。御社へも參りてものゝねあまたそろへて、樂してきかせまいらすべしといへば、昔つねに承る事にて、其御名殘なつかしく候〔候、據一本補〕て、おそれながら申て候つる也とぞの給ひける。扨馬助歸りぬ。其後病者打ふし、申ノ刻ばかりまではおきもあがらざりける。此事あはれに覺えて、尾張の内侍(*藤原孝道女。法深房孝時同胞)・讃岐(*讃岐局。藤原孝道女。法深房孝時同胞)などさそひてかの社に詣て、箏・琵琶引てきかせ奉りけるとぞ。
[二六六]
侍從大納言成通(*藤原成通。藤原宗通男)雲林院にて鞠を蹴られけるに、雨俄にふりたりければ、階隱の間に立入て階にしりをかけて、しばしはれ間をまたれける程、
雨ふれば軒の玉水つぶ〴〵といはゞや物を心ゆくまで
といふ神哥を口ずさまれける程に〔に、據一本補〕、格子の中よりをしあけて女房の聲にて、このほどこれに候人の物の氣をわづらひ候〔候、一本作ける〕が、只今御聲をうけ給て、あくびてけしきかはりてみえ候に、いますこし候なんやとすゝめければ、沓をぬぎて堂の中へ入て木丁〔木丁、一本作几帳〕の外にゐて、
いづれの佛のねがひより 千手のちかひぞたのもしき
かれたる草木もたちまちに 花さきみなるとときたれば
といふ句をくりかへしくりかへしうたひて又、
藥師の十二の誓願は 衆病悉除ぞたのもしき
一經其耳はさておきつ 皆令滿足すぐれたり
これらをうたはれけるに、ものゝけわたりてやう〳〵の事どもいひて、其病やみにけり。かならず法驗ならねども、道達せる人の藝には靈病も恐をなすにこそ。
[二六七]
天永三年(*1112。鳥羽天皇代)三月十八日御賀の後宴に、舞樂はてゝ御遊の時、中納言宗忠卿(*藤原宗忠)拍子、治部卿基綱卿(*源基綱。源經信男)琵琶、中納言中將【忠通】(*藤原忠通)箏、中將信通朝臣(*藤原信通。藤原宗通男)笛、少將宗能朝臣(*藤原宗能)笙、伊通(*藤原伊通。藤原宗通男)和琴、越後守敦兼(*藤原敦兼。藤原敦家男)篳篥。呂は安名尊、席田、鳥破〔破、據一本補〕、律は靑柳、更衣、鷹子、万歳樂。主上(*鳥羽天皇)催馬樂を付うたはせ給ける。めづらしく目出たかりける事也。仰せによりてさらに又更衣・鷹子など數反ありける。興ありける事也。
[二六八]
京極太政大臣宗輔(*藤原宗輔)内裏より罷出給けるに、月面白かりければ心をすまして、車の内にて陵王の亂序を吹給けるに、近衞万里小路にてちいさき人の陵王の裝束をして、車の前にてめでたく舞みえけり。あやしく覺えて車をかけはづして、榻にしりかけて一曲みな吹とをし給にけり。曲のをはりに此陵王、近衞より南万里小路より東のすみなる社の内へ入にけり。笛曲も神感有ける〔ける、一本旡〕にこそ。やむごとなき事也。
[二六九]
舞人多資忠(*多政資男)死去(*娘婿山村政連に秘曲の傳授を拒否し、長男多節方と共に殺害された。)の後、胡飮酒・採桑老曲かの氏に絶に〔に、一本旡。或當作え〕ければ、久我太政大臣(*源雅實。源顯房男。堀河天皇の命で秘曲の傳授を命ぜられる。)胡飮酒を將曹多忠方(*多資忠男)にをしへ給ひけり。採桑老はをしふるものなかりけるに、天王寺舞人秦公貞(*未詳)此曲を傳へたりければ、院(*堀河院)の仰によりて右近將曹多近方(*多資忠男)にをしへてけり。
[二七〇]
保安五年(*1124)正月朝覲行幸に、近方(*多近方。多資忠男)採桑老をつかうまつるべきにて有ければ、四年(*1123)十二月一日仙洞にて近方採桑老をつかうまつりて、一院(*白河上皇)・新院(*鳥羽上皇)御覽ぜられけり。能俊卿(*源能俊。源俊明男)以下御前に候けり。近方庭中に出ける時、樂人公貞(*秦公貞。天王寺舞人)扶持しけり。舞終りて公貞をも舞せられけり。(*國史大系本文は次段と合わせる。)
[二七一]
太神元政(*大神基政〔元政〕)多近方がもとへ早朝に來れる事有けり。近方いそぎ出合たりけり。元政八幡へまかる使にきと申べき事ありて詣でたるといひければ、しばらくとどめて盃酌などすゝめけるに、元政が云、八幡へは罷り侍らず。けふは元賢(*大神元賢。大神基政男)に狛ぶえふかせんれうにまいれる也。百千の秘事を敎へたりといふとも舞人の御心にかなはざらん笛吹何にてもあるまじ。元政年たけて命けふあすともしらず。しかれば是をきかせ申さんと思ひて、けふはぐして參れり。大事ありともたがはずして聞給へといひければ、近方興に入て成方(*多成方。多近方男)幷近久がいまだ小童にてありけるを、よび出して舞せて笛を聞けり。終日ふかせて拍子をあぐる所の事をしたゝめき。近方ことに感じ申けり。元政涙をながして悦事かぎりなし。扨元政が云、右の樂(*高麗樂)はけふしたゝまりぬ。秘曲をばみな傳敎候。此うへはおのづから不審ならん事をばいもうとの女房にいひあはすべしとぞいひける。件の妹は女房ながら元政におとらぬもの也。安井の尼とぞいひける。夕霧(*夕霧尼は元政女という。)事か。
[二七二]
保延元年(*1135。崇德天皇代)正月四日朝覲行幸に、多忠方胡飮酒をつかうまつりけるに、此曲たび〴〵御覽ぜられつるに、今度ことに勝れたるよし、おほやけわたくしさたありけり。左大臣(*藤原家忠。藤原師實男)勅をうけ給りて一階をたぶよし仰下されければ、忠方再拜して舞て入けり。かゝる程に忠方右舞人(*高麗曲の舞人)たりといへども左舞(*中華曲)を奏して勸賞をかうぶ〔ぶ、一本作む〕る。左かならず賞を行はれずとも何事かあらんや。又狛光則(*狛光季男)・多忠方、いづれ上臈たるぞやのよし議定ありければ、左衞門督雅定卿(*源雅定)申されけるは、光則・忠方同日に勸賞は〔は、一本旡〕かうぶりて叙爵(*從五位下に叙せられること)す。多は朝臣なるによりて内位(*在京官人に与える位。ここは姓氏の高い者に賜わる位をいう。)す。狛は下姓(*狛氏は宿禰)によりて外位(*地方官に与える位。正五位から少初位まで。)に叙す。忠方上臈たるべしとぞ申されける。よく舞によりて賞をかうぶる。光則よく舞はゞ行はるべし。幽ならずは(*優ならずはカ)行はるべからずと申けり。或は左右ともに行はるべきよしをも申けり。光則七旬に及べり。哀憐有けるにや。つゐに散手を奏する時一階を給てけり。むかしはかく〔かく、一本旡〕藝によりて賞のさたありけり。近頃より其善悪のさたまでもなくて、たゞ一者になりぬれば、左右なく賞を行はるゝ習になれば頗無念の事也。
[二七三]
同三年(*保延三年〔1137〕)正月四日朝覲行幸に、輪臺(*曲名)いでんとしける。左樂行事にて大炊御門右府(*藤原〔德大寺〕公能)の中將に〔に、原作と。據一本改〕ておはしけるが、すゝみ參りて輪臺の垣代(*奏者たち)の笙吹、雅樂屬淸方(*藤井淸方)、左近將曹時秋(*豐原時秋。豐原時元男)、音取〔取、一本作殿。恐非〕を相論のよし奏せられければ、殿下(*藤原忠通)院(*鳥羽上皇)に申させ給けり。院おぼしめしえざるよし仰ありけり。殿下左大臣(*源有仁)に尋申されければ、左府申されけるは、笙ことの外に勝劣あり。先例官の上下臈によらず、譜代をえらび用ひらるゝ事也。もし淸方用ひられば笙のためきたなき事也と申されければ、殿下此よしを樂行事の司に仰られけり。是を聞て中院右大臣(*源雅定)の大納言にておはしけるをはじめとして、悦ぶ人〴〵おほかりけり。か〔か、一本作此〕の右府は時秋が弟子にておはしける故也。(*國史大系本文はここで改行。)
建長五年(*1253)正月廿七日に〔に、一本旡〕、八幡行幸の還御の次に鳥羽殿へ入らせおはしまして、廿八日に朝覲の禮あり。垣代の笛、雅樂大夫戸部政氏(*戸部好親男)はふえの一にて侍れ共、左近將監大神正賢(*未詳。右近將監大神延賢カ)立よりて(*兼てよりカ)うたへ申て吹たりしは、保延のためしにて侍けるにや。戸部氏こそ本躰にて侍しに、近代大神氏にほかぜ(*帆風。勢力)をとられて、かやうに正賢にもこたへられ(*こへられ、又はうたへられカ)けるにこそ。
[二七四]
同三年(*保延三年〔1137〕)六月廿三日、宇治左府(*藤原賴長)内大臣にて〔て、據一本補〕おはしましける時、院御所(*鳥羽殿)ちかゝりける御宿所にて、大との(*藤原忠實、知足院關白)箏を、おとゞ(*賴長)・權大納言(*源雅定)笙、六條大夫基通(*藤原〔近衞〕基通、普賢寺殿)笛にて御あそびありけるに、孝博(*藤原孝博。藤原博定男)月にのりて參り〔り、一本作じ〕て琵琶を彈じけり。天曙てぞ大納言(*權大納言)かへり給ける。(*國史大系本文はここで改行。)
同廿六日院御所にて御遊ありけり。大殿・女房右衞門佐箏、新大納言宗能(*藤原實能)、孝博琵琶、内大臣(*賴長)・權大納言雅實(*雅定)笙、左衞門尉(*未詳)・元正(*大神元正〔基政〕)笛、能登守季行(*藤原季行。藤原敦兼男)篳篥、宮内卿有賢(*源有賢)拍子にて、雙調・盤渉調曲を奏せられけり。夜ふけて折櫃のうへに折敷をおきて、けづり火(*削り氷)をすへて公卿の前におかれけり。院には御臺にてぞ供せられける。寢殿の南面にて此あそびは有ける。孝博・元正はみぎりのもとにたゝみを敷て候けり。夜明る程にぞ出にける。これほどに道にたれる(*足れる)人〴〵のうちつゞき管絃の興ありける、いかにめでたかりけん。ありがたきためし也。
[二七五]
同五年(*保延五年〔1139〕)の宇治の一切經會(*三月三日に實施)に、雨ふりて四日行はれけり。大殿(*藤原忠實)・尼北政所(*藤原顯房女)・内大臣殿(*藤原賴長)御わたりありけり。大殿弟〔弟、一本作才〕(*牙カ。象牙)の笛を淸延(*小部〔戸部〕淸延)に吹こゝろみさすべきよし仰られければ、内大臣皇后〔后、據一本補〕宮亮顯親朝臣(*源顯親。源雅俊男)をして淸延をめしてたびける。事はてゝ返上すとて、所〴〵こはき穴候へども、心えてつかうまつり候へば、神妙に候也とぞ申ける。つき〴〵しかりけり。淸延は淸正(*戸部正淸)が子、笛の一のものにてぞ侍りける。
[二七六]
或所にて會遊ありけるに、時元(*豐原時元)笛を吹けるが、しばらくやすみけるに時廉(*豐原時廉。豐原時元男)蘇合(*蘇合香)序を吹けり。時元聞てあはれ正念なく吹もの哉。かゝらんには興なくやとて、笙をはりて中間に兩所かさねてあけて吹たりける。誠優美なりけり。侍從大納言(*藤原成通)のいはれける、蘇合序は廿拍子なり。しかある(*を)今の世には十二拍子を用ひて、殘る八拍子をばもちひぬ、いはれなき事也。舞又たらず。そのゆへは舞は手のあひかはる五拍子也。此五拍子をはじめは東にむきて舞、次第に南に向て舞、次に西に向てまひ、次に北に向てまひ、各五拍子を舞也。同じ手を方をかへて舞也。しかあるを近代は南に向て三拍子、北に向て五拍子をまはざる也といはれければ、舞人光近(*狛光近。狛光時男)聞て、五拍子方をかへて舞事またくさる事なしとぞいひける。抑序奧八拍子はたえて久しくなれり。しかるをかの亞相(*大納言)ひとり傳へられたる事もおぼつかなき事也。されば元正正しく〔正しく、一本作は一字。亦似通〕つたへたりけるにや。此事覺束なし。蘇合三四帖共に奏する時、籠拍子兩帖にうたずして四帖に用る事は、賴能(*源賴能)・是季(*大神是季。大神晴遠男)・時元等の説也。しかあるを季通朝臣(*藤原季通。藤原宗通男)いはれけるは、蘇合は三帖を肝心とするが故に、かならず此帖に打べしとぞ侍ける。明暹(*藤原明衡男)・宗輔(*藤原宗輔。藤原宗俊男)等は兩帖共に打べきよし申されけり。堀河院御時御遊ありけるに、蘇合一具とをされけり。三帖を奏して後宗輔卿奏すべきよしを仰下しけり。これ天氣也けるにや。此時の樂人元正以下、宗輔の與奪(*指圖)を聞て此人心おとりすとぞつぶやきける。是は三帖にうたずして四帖にうつべき由を思て、さらば三帖の時こそ〔こそ、原作とぞ。據一本改〕いはれめと思ひて、かくつぶやきけるなるべし。此條はいはれなき事にや。兩帖共に打事是又正説也。妙音院殿(*藤原師長)も兩帖共に打べき由慥にしるしおかれたり。是によりて其御流をうけたるものみな兩帖にうち侍り。寳治三年(*1249)六月仙洞(*後嵯峨上皇御所)御講に蘇合一具侍しに、予(*橘成季)大皷つかうまつりしにも兩帖に打侍き。且是法深坊(*藤原孝時)に申あはする〔る、一本旡〕所也。
[二七七]
知足院殿(*藤原忠實)仰られけるは、万秋樂はゆるらかに吹べしと人はみなしりけれども、しんじつはせめふせて吹べき也。賴能(*源賴能)もさぞ吹ける。あひつぎて大納言宗俊卿(*藤原宗俊。藤原俊家男)もけすらふ(*そのような感じになる)時せめ伏せて吹也。(*國史大系本文はここで改行。)
白河院御時、新院(*鳥羽院)三條殿(*院御所となった三條東殿〔藤原家通邸〕カ)にわたらせ給ひしに、中門の廊にして新院件序吹せ給ふに、宗能卿(*藤原宗能)御供してつかうまつる。其時も責伏せてぞふかせ給ひける。白河院寢殿の御簾を褰て再三御感有て、今一〔一、據一本補〕度〳〵と仰らるゝ事五六度に及びけり。故實をしろしめして御感有けるこ〔こ、原作と。據一本改〕そいみじき御事なれ。
[二七八]
同院(*白河院)箏をひかせ給けるおり、初夜のかねはつきぬるかと御尋有けるに、聞たる者なかりけるに、釜殿(*湯殿に奉仕する人)が申けるは、御前のかたにこそかねのこゑは聞え侍つれと申けるを、人つたへ申ければ、我箏はいたりにけり。よき箏はかねのこゑに似たるなりとぞおほせられける。
[二七九]
鳥羽院八幡に御幸有て御神樂行はれけるに、みづから御笛をふかせ給けり。本拍子德大寺左府(*藤原〔德大寺〕實能)納言にてとり給けり。末拍子按察資賢卿(*源資賢。源有賢男)の殿上人にてとられけり。備後前司季兼朝臣(*藤原季兼。藤原敦兼男)庭火(*庭燎。曲名)の本哥をとなへけるに、秦兼弘(*秦兼久男。藤原忠通隨身)人長にてもろ哥(*庭燎の末歌。秘歌とされた)を仰すとて、外山なるうたふ時おほせけるにも、末句をうたはで季兼朝臣しりぞきにける。其説をしらぬこそと世の人いひけり。榊〔榊、一本作柳〕(*神樂の採物の曲名)のふりに末句をうたはざるは故實にて侍るとなん。
季兼朝臣歸洛しけるに、作道(*鳥羽の造り道)にてうしろのかたよりはせ來たるものありけり。見歸たれば多近方(*多資忠男)也。はせつきていひけるは、あなかしこ(*國史大系本文「あながしこ」)此事ちんじ給な。たゞしらざるよしにておはしますべし。若ちんじ給はゞ秘説あらはれぬべしとぞいひける。兼方がしらざりければ兼弘はしらぬはことはり也。拍子とりて出たつとき、人長〔長、一本作ハ〕輪を冠にかけて引とゞむるとかや。是秘説にて侍り。
[二八〇]
康治元年(*1142。近衞天皇代)三月四日、仁和寺の一切經會に兩院(*鳥羽上皇、崇德上皇)御幸有けるに、入道殿下(*藤原忠實)參らせ給けり。春鶯囀を舞ける時、行則(*狛行則。狛行高男)申けるは、光時(*狛光時。狛光貞男)颯〔颯、原作諷。據一本改〕踏(*曲名)急聲二反を舞、行則一反を舞。第二の切絶たり。入道殿仰られけるは、第二反のたび則舞べからず。是によりて第二反の時はひざまづきて候けり。京極大相國宗輔(*藤原宗輔)其時大納言にて候はれけるが申されける、康和御賀(*康和四年〔1102〕の白河上皇五十賀)に光時が曾祖父光季(*狛光季)第二反たゆるよし申侍りき。いま光時二反をまふいかが。もし光季秘藏しけるにや。(*ここまで宗輔の話。)宇治左府御記(*藤原賴長『台記』)には、件の卿(*藤原宗輔)もとより光時をにくみていはれけるにやとぞかき給て侍るなり。
[二八一]
同二年(*康治二年〔1143〕)八月、新院(*崇德上皇)靑海波を御覽じけり。垣代の不足に武者所を〔を、一本旡〕めしてたてられけるに、胡籙をおはざりけるをみて、舞人光時(*狛光時)申けるは、白河院御時此儀有しかば、武者所みな胡籙を負て侍き。今其儀なし。世の陵遲ことにおきてかくのごとし。其後又此舞を御覽じける時には、武者所に仰て胡籙をおふたりけるは、光時が一言上聞に及けるにや。光時に御馬をぞ給はせける。
[二八二]
久安三年(*1147。近衞天皇代)九月十二日、法皇(*鳥羽法皇)天王寺へ御幸有けり。内大臣(*藤原賴長)御供に候はせ給ひけり。十三日念佛堂にて管絃有けり。歌幷笛資賢(*源資賢。源有賢男)、笙内大臣、篳篥俊盛朝臣(*藤原俊盛。藤原顯盛男)、但不堪のよしを申てふかざりけり。琵琶信西(*藤原通憲)、箏〔箏、一本旡〕六波羅別當覺暹(*藤原定任男。藤原博定養子)、法皇笛をふかせおはしますとて、沙門の身にて此事あざけりあるべしとて、障子にゐかくれさせおはしましけり。御出家の後此たびはじめてふかせおはしましけり。先ヅ雙調、鳥破、同急、賀殿急、安名尊、妹與我、次ハ平調、万歳樂、慶雲樂、三臺破、同急、五常樂、同急、扶南、老君子、廻忽、甘州、陪臚、伊勢海、我門、更〔更、一本脱〕衣、淺水梢(*淺水橋。あさうづトモ)・鴛鳧(*風俗歌「鴛鴦〔をし〕」)、盤渉調、秋風樂【初一帖、後三三〔三、一本旡〕帖。】、鳥向樂、万秋樂【一帖】、蘇合【三五帖】急、採桑老、蘇莫者破、靑海波、竹林樂【二三帖】、柏柱〔柏、恐當作白〕(*白柱)、千秋樂。此外催馬樂ありけるとかや〔とかや、一本作にや〕。朗詠・今樣・風俗など數反ありけり。(*催馬樂は)資賢朝臣ぞつかうまつりける。朗詠は法皇御發言有けるとぞ。其後としもり〔もり、原作より。據上文及一本改〕あそん讀經つかうまつりけり。人〴〵興にぜうじて覺暹・信西揚眞操(*楊眞操。流泉・啄木と共に琵琶三秘曲という。)彈けり。法皇のおほせに、資賢は催馬樂のみちの長者なりとゑいかん有けるは此たびの事也。いかにめんぼくに思ひけん。
[二八三]
同三年(*久安三年〔1147〕)十一月卅日、院(*鳥羽法皇御所)にて舍利講を行はれけり。人〴〵參りて後、信西(*藤原通憲)をもて平調・盤渉調のあひだ定め申べきよしおほせられければ、内府(*藤原賴長)は此道にふかゝらずとて定め申されず。左大將雅定(*源雅定)・中御門大納言宗輔(*藤原宗輔)ぞ平調よろしかるべしと申されける。侍從中納言成通(*藤原成通)は盤渉調たるべき由申されけるとかや。平調たるべきよし勅定有けり。内大臣・左大將笙、侍從中納言・左衞門督(*藤原公敎)ふえ、季行朝臣(*藤原季行)ひちりき。讀經ありけり。大納言伊通卿(*藤原伊通、九條大相國)朗詠せられけり。右〔右、據補任(*公卿補任)當作左〕衞門督公敎・季兼朝臣(*藤原季兼)いまやうをうたふ。次壹越調、又盤渉調曲などもありけり。左大將多近方(*多資忠男)に命じて國風をうたはせられけり。扨も今度万歳樂三反ありけるに、その第三反に雅樂大夫淸延(*小部〔戸部〕淸延)なを半帖をもちゐたりける。人あやしみとしけり。
[二八四]
同六年(*久安六年〔1150〕)十二月、大宮大納言隆季卿(*藤原〔四條〕隆季。藤原家成男。院近臣の一人)殿上人の時、左近府の拔頭(*曲名。大食調)の面形を借請ておかれたりけるに、八日の夜の夢にかちかぶり(*褐冠。馬副・隨身等が着用。細纓に老懸。)したるもの來りて、彼面形はやく府にかへすべし。久しくわたくしにをく事なかれといふと見てさめにけり。おどろきて其面〔面、一本脱〕形を見ければ、裏の銘に右相撲司延暦廿一年七月一日造と書たり。をそれおのゝきてやがて府にかへされにけり。
古今著聞集 卷第六 終
目録
第七 管絃歌舞