古今著聞集 卷二
橘成季
(『古事談・古今著聞集・十訓抄・榮華物語』 國史大系15 經濟雜誌社 1901.10.15)
※ 〔原文頭注等〕、【原文割注】、(*入力者注記)。振り仮名・振り漢字を施した。
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目録
巻二 釋敎
(目録)
古今著聞集卷第二
釋敎第二
[三四]
地神の末にあたつて釋迦如來てんぢくに出給けり。鷲嶺に月かくれ、鶴林にけぶり盡て(*釋迦入滅)、一千四百八十年にあたつて、我朝第三十代欽明天皇十三年に、百濟國よりはじめて金銅釋迦の像・經論・幡盖等奉りけり。御門よろこばせ給てあがめ給ひけるを、ものゝべの大臣(*物部尾輿)等わが國は神國なる故をもてかたぶけそうし申され〔され、一本旡。〕ければ、佛像を難波堀江にながしすてゝ伽藍を燒拂はれにけり。然る間空より火くだりて内裏やけにけり。敏達・用明・崇峻天皇三代の間邪信あひまじはりて歸依いまだあまねからず。推古天皇の御宇廏戸豐聰耳皇子東圍の位(*東宮)にそなはり、南面の尊(*天皇)にかはりて專ばんきの政敎をたれて、佛法の興隆をいたし給へり。それより此かた佛法弘通して効驗たゆる事なし。
[三五]
我朝の佛法は聖德太子弘め給へる所也。太子は欽明天皇の御孫、用明天皇の太子。御母は穴太部の眞人の女也。御母の夢に、金色の僧來りてわれ世を救ふ願あり。ねがはくは(*原文「ねがはくば」)しばらく御腹にやどらん。我は救世菩薩也。家は西方にありといひて、をどりて口に入と見給て、はらまれ給へる所也。太子の御おぢ敏達天皇位につき給ふ始めの年正月朔〔朔、一本作一。〕日生れ給ふ。其時赤光西方よりさして寢殿にいたる。其御身甚かうばし。四月の後〔後、一本作うち、同イ本與此同。〕によく物仰らる〔る、一本作れ。〕。あくる年の二月十五日の朝みづから東に向てたなごゝろを合て南無佛と唱へ給ふ。六歳の御年百濟國より始て僧尼經論を持て渡れり。八年に又日羅といふ人渡りて太子を禮して申さく、敬禮救世觀世音傳燈東方粟散王とおがみ奉りて光をはなつ。太子又眉間より光をはなち給ふ。又釋迦牟尼如來の像・彌勒の石像を渡す。大臣蘇我馬子宿禰佛法に歸して太子と心を一にせり。廿一年天下病おこりて死するもの多し。其時ものゝべの弓削守屋の臣幷に中臣の勝海ら邪見にして佛法を信ぜず、奏していはく、我國はこれ神國也。然るに蘇我の大臣佛法を弘めおこなふによりて病おこり死ぬるもの多し。是をとゞめられば人の命全かるべしと申によりて、みことのりをくだして佛法を停止せらる。則守屋仰を承て堂塔を燒亡ぼして佛法を滅亡す。此時佛法みな亡びなんとする間、太子悲泣煩〔煩、原作燠、據一本改。〕惱(*懊惱)し給ふ事かぎりなし。是に依て雲なくして雨風うごき、空より火くだつて内裏やけぬ。其後太子の御父用明天皇位につかせ給て、更に又佛法を興させ給ふ。蘇我大臣勅を承て是をおこなふ。ほろびうせにし佛法是より又ひろまる。太子悦び給て大臣の手をとりて宣はく、三寳の妙なる事人いまだ知らざるに、大臣心をよせたり。よろこばしきかなやと。此時彼守屋の逆臣が邪見を階〔階、一本作陛。〕下に奏聞して、軍兵を起さしめて討伐せんとす。人是をひそかに守屋の臣に告しらするによりて阿都部の家にこもりゐて兵をあつむ。中臣勝海同じく兵をおこして守屋をたすく。蘇我大臣太子に申て兵を引〔引、一本作ひきゐ。〕て守屋が家にむかふ。城の軍こはくして味方の兵三度しりぞき歸る。其時太子の御年十六にして大將軍の後に立給へり。秦河勝に仰て、ぬるでの木をもて四天王の像をきざみ作らしめて、本鳥のうへ・鉾のさきにして、願をおこして宣く、我〔我、一本此下有等字。〕をして戰に勝しめ給ひたらば、四天王の像を現はして寺塔をたてんと。大臣同じく願して戰をすゝむ。城中に大き成榎木あり。守屋其木の上にのぼりて、ものゝべの氏の神に祈りて、箭をはなさしむるに、太子の御よろひにあたりたり。太子又とねり跡見(*迹見赤檮)におほせて、四天王に誓ひて矢をはなさしむ。定(*禪定)の弓惠(*智惠)の矢に和順してとをくはしりて、逆臣がむねにあたりて木よりさか樣におちぬ。軍兵みだれ入て其首をきりつ。是より佛法のあた(*原文「あだ」)〔あだ、一本作怨。〕永く絶て化度利生の道ひろまれり。【委旨見二傳文一。】
[三六]
當麻の寺は推古天皇の御宇、聖德太子の御すゝめによりて麻呂子親王(*母葛城直磐村女広子)の建立し給へる也。萬法藏院と號して則御願寺になずらへられにけり。建立の後六十一年をへて親王夢想によりて、本の伽藍の地を改めて役の行者練行の地にうつされにけり。金堂の丈六の彌勒の御身の中に金銅一攦(*𢷡、または搩という)手半の孔雀明王像一體をこめ奉る。此像は行者の多年の本尊也。又行者祈願力によりて、百濟國より四天王の像とび來り給ひて金堂におはします。堂前にひとつの靈石あり。むかし行者孔雀明王の法を勤修の時、一言主明神きたりて此石に座し給へり。天武天皇の御宇白鳳十四年に高麗國の惠觀僧正を導師として供養をとげらる。其日天衆降臨しさま〴〵の瑞相あり。行者金峯山より法會の塲に來りて私領の山林田畠等數百町を施入せられけり。曼荼羅の出現は當寺建立の後百五十二年をへて大炊天皇(*淳仁天皇。淡路廢帝)の御時横佩〔大臣、一本此上有右字。〕大臣【藤原尹胤】(*藤原豐成。難波大臣)といふ賢智〔智、一本作知。〕の臣侍りけり。かの大臣に鍾〔鍾、一本作寵。〕愛の女あり。其性いさぎよくして、ひとへに人間の榮耀をかろしめて、たゞ山林幽閑をしのび、つゐに當寺の蘭若をしめて彌陀の淨刹をのぞむ。天平寳字七年(*763)六月十五日蒼美をおとしていよ〳〵徃生淨土のつとめ念ごろ也。誓願を起していはく、我もし生身の彌陀を見奉らずは(*原文「ずば」)、ながく伽藍の門圃を出じと。七日祈念の間、同月廿日酉の刻に、一人の比丘尼忽然として來ていはく、汝九品の敎主を見奉らんと思はゞ百駄の蓮莖〔莖、原作花、據一本及下文改。〕をまうくべし。佛種縁よりしやうずる故也といふ。本願の禪尼歡喜身に餘りて、化人の告を注して公家に奏聞す。叡感をたれて宣旨を下されにけり。忍海勅命を奉て近國の内に蓮の莖をもよほしめぐらすに、わづかに一兩日の程に九十餘駄出來にけり。化人みづから蓮のくきをもて糸をくり出す。糸すでに調りて始て淸き井をほるに水出て、糸をそむるに其いろ五色也。皆〔皆、一本作みる、似是。〕人差〔差、恐嗟字之省略歟。〕嘆せずといふ事なし。同廿三日夕又化人の女忽に來て、化尼に糸すでに調れりやといふ。則とゝのへる由を答ふ。その時かの糸を此化女にさづけ給ふ。女人藁二把を油二升にひたして灯火として、此道塲の乾のすみにして、戌の終より寅の始に至迄に壹丈五尺の曼陀羅を織あらはして、一よ竹を軸にしてさゝげもちて、化尼と願主との中にかけ奉て、かの女人はかきけすごとくにうせて行方をしらず成ぬ。其曼陀羅のやう丹靑いろをまじへて金玉の光をあらそふ。南のはし〔はし、一本作縁、下同。〕は一經敎起の序分、北のはしは三昧正受の旨歸、下のかたは上中下品來迎の儀、中臺は四十八願莊嚴の地也。これ觀經(*觀無量壽經)一部の誠文、釋尊詔諦の金言也。化尼かさねて四句の偈をつくりてしめしていはく、
往昔迦葉説法所 今來法起作二佛事一
響懇二西方一故我來 一入二是塲一永離レ苦云々
本願の〔の、一イ本作禪。〕あま宿〔宿、原作有、據一本改。〕願の力により未曾有なる事をみる。化人の告によりて不思儀(*不思議)のことばを聞て問て云、そも〳〵わが善知識はいづれの所より誰人の來り給へるぞ。答て云、われはこれ極樂世界の敎主也。織姫はわが左のわきの弟子觀世音也。本願をもての故に來て汝が心を安慰する也。ふかく件のをんを知りてよろしく報謝すべしと、再三つぐる事ねんごろ也。其後比丘尼西をさして雲に入てさり〔雲に云々、一本作飛雲に入。〕給ぬ。本願禪尼宿望すでにとげぬる事をよろこぶといへ共戀慕のやすみがたきにたへず。禪客去無レ跡空向二落日一、流レ涙德音留不レ忘、只仰二變像一消レ魂。その(*原文「ふの」)後廿四年をへて寳龜六年(*775)四月四日宿願にまかせてつゐに聖衆の來迎にあづかる。其間の瑞相くはしくしるすにおよばず。
[三七]
行基菩薩(*俗姓高志氏)もろ〳〵の病人をたすけんがために有馬の温泉にむかひ給ふに、武庫山の中に一人の病者ふしたり。上人あはれみをたれてとひ給ふやう、汝なにゝよりてか此山の中にふしたる。病者答ていはく、病身をたすけんがために温泉へむかひ侍る、筋力絶盡て前途達しがたくして山中にとゞまる間、粮食あたふるものなくして、やう〳〵日數ををくれり。ねがはくは上人あはれみをたれて身命をたすけ給へと申。上人此言葉をきゝていよ〳〵悲歎の心ふかし。則我食をあたへてつきそひてやしなひ給ふに、病者いはく、われあざやかなる魚肉にあらではしよくする事をえずと。是によりて長洲のはまに至りて、なましき魚を求めて是をすゝめ給ふに、同じくは(*原文「同じくば」)味をとゝのへてあたへ給へと申せば、上人みづから鹽梅をして其魚味を試みて、あぢはひとゝのふる時すゝめ給ふに病者是をぶくす(*原文「ふくす」)。かくて日を送る。又云、我病温泉の効驗をたのむといへども忽にいえん事かたし。苦痛しばらくもしのびがたし。たとへをとるに物なし。上人の慈悲にあらでは誰か我をたすけん。ねがはくは上人我いたむ所のはだへをねぶり給へ。しからばおのづから苦痛たすかりなんといふ。其體燒爛してその香ひはなはだくさくして、少もたへこらふべくもなし。しかれども慈悲いたりてふかきゆへにあひ忍びて、病者のいふにしたがひて其はだえをねぶり給に、舌の跡紫麻金色(*紫磨金色)と成ぬ。其仁を見れば藥師如來の御身也。其時佛告云〔告云、一本作告てのたまはく。〕、我はこれ温泉の行者也。上人の慈悲を試みんがために、病者の身にげんじつる也とて、忽然としてかくれ給ひぬ。其時上人願を發して、堂舍を建立して藥師如來を安置せんと願じ(*原文「願し」)、其跡を崇んと思ふ。必勝地をしめせとて東にむかひて木の葉を投給。【山良の木。】すなはち其木葉の落る所を其所とさだめて今の昆陽寺を〔を、一本作は。〕建給へる也。畿内に四十九院を立給へる、その一也。天平勝寳元年(*749)二月に御とし八十にてをはりをとり給とて讀給ひける哥、
法の月久しくもがなとおもへども夜やふけぬらんひかりかくしつ
御弟子どもの悲歎しけるをきゝ給ひて、
かりそめのやどかる我をいまさらに物なおもひそ佛とをしれ
[三八]
嵯峨天皇御時天下に大疫の間死人道路にみちたりけり。これによりて天皇みづから金字の心經(*般若心經)をかゝせ給ひて、弘法大師にくやうせさせ奉られけり。其効驗私の〔私の、據一本補。〕ことばをもてのぶべからず。おくに大師記をかゝせ給へり。其御記(*大師の記)にいはく、
于レ時弘仁九年(*818)春、天下大疫。爰帝皇自ラ染二黄金ヲ於筆端ニ一握リ二紺紙於爪掌ニ一、奉レ寫二般若心經一卷ヲ一。予〔予、一本作即。〕範シテ二講經之撰ニ一綴二經旨之宗ヲ一、未レ待二結願之詞一、蘇生族于途夜變〔蘇生族于途夜變、此上下恐有誤脱。〕、日光赫奕タリ(*蘇生族溢二其途一、夜變日光赫奕)。是非二愚身戒德一金輪御信力所レ爲也。但詣ノ二神舍ニ一輩奉レ誦シ二此秘鍵ヲ一。昔予陪リ二鷲峯説法之莚一、親タリ聞ク二此深文ヲ一。豈不レ達二其儀一而已。
其時の御經・かの御記、嵯峨の大覺寺にいまだ有となん。
[三九]
弘仁五年(*814)の春、傳敎大師渡海の願をとげんがために、筑紫にてさま〴〵の作善共ありけり。五尺の千手觀音を造り奉り、大般若二部一千二百(*卷)、法華經一千部八千卷をみづから奉らる。又うさの宮にてみづから法花經を講じ給ふに、大菩薩たくせんし、我不レ聞二法音一久歴二歳年一。幸値-二遇和尚一、得レ聞二正敎一、兼而爲レ我修二種々功德一。至誠隨喜何足レ謝レ德矣。而有二我所持法衣一とて、すなはちたくせんの人みづから寳殿をひらき、手にむらさきのけさ一・むらさきの衣一をさゝげて上二和尚一。大悲ノ(*原文「の」)力幸埀二納受一と云給ひけり。禰宜・祝等この事を見て、むかしよりいまだかゝる事見きかずと云けり。くだんの御衣等今に叡山根本中堂の經藏にあり。鳥羽院臨幸の時も御拜見有けり。後白河院御幸のときも拜せさせ給けり。
[四〇]
智證大師御起文(*御記文)云、予依二山王御語一渡二於大唐國〔國、一本旡、或衍。〕一、受-二持佛法一還二本朝一。海中老翁現二於予船一而偁〔偁、原作稱、據一本改。〕、我新羅國明神也。和尚受-二持佛法一至二于慈尊出世一、爲二護持一來向也者、如レ是言説之後其形既隱。予着岸申二公家一。即遣二官使一、所持佛像法門被レ運-二納於太政官一。于レ時海中老翁亦來云、此日本國有二一勝地一。我先至二彼地一早以點定。申二於公家一建-二立一伽藍一、安置興-二隆佛法一。我爲二護法神一鎭加持矣。所謂佛法是護-二持王法一也。若佛法滅者王法將レ滅矣。予出登二本山千光院一、從二千光院一至二山王院一、受二山王語宣一。早法門運二此所一者、明神偁、此地者末代必二喧事一歟。其奈何者各受レ北長レ下也。其内此山可レ盛事今二百歳哉。我見二勝地一末〔末、原作來、據一本改。〕世衆生可レ爲二依所一。興-二隆佛法一護-二持王法一、至二彼地一可二相定一者、明神・山王・別當・西塔即到二近江國志賀郡園城寺一、案-二内於住僧等一。爰僧等申、不レ知二案内一者、一人之老比丘名謂二敎待一、出來云、敎年百六十二也。此寺建立之後經二百八十餘年一也。有二建立檀越子孫一。去即敎待呼二彼氏人一、姓名大友都堵牟麻呂。出來云、都堵牟麻呂生年百四十七也。此寺先祖大友與多(*大友與多麻呂)奉-二爲天武天皇一所二建立一也。此地先祖大友太政大臣之家地也。堺二四至〔四至、一本此上有其字。〕一被二宛給一。【大略】敎待大德年來云、可レ領二此寺一人渡唐也。遲還來之由常語、而今日已相待人來也。可二出會一者、今以二此寺家一奉二付屬一。此寺之〔之、一本旡、下同。〕領地四至專無二他人領地一、而時代漸〔漸、據一本補。〕移人心諂曲、諸國之刺史稱二私領之地一。然而氏人旡レ力二弁定一。早觸レ國可レ被二糺返一者、付屬之後山王還給。明神住二寺北野一、無量之眷屬圍遶、他人之所レ不レ知レ見也。見知明住給。野乘輿之人引-二率百千眷屬一來向、以二飮食一奉レ饗二明神一之處、老比丘敎待到二於彼明神之在所一遞以喜悦。即比丘與二輿人一形隱不レ見。于レ時問二明神一偁、此比丘與人忽不レ見是何人耶。明神答レ之、老比丘是彌陀如來爲レ護-二持佛法一住-二給此寺一耶。輿人者是三尾明神爲レ訪レ我來也者、予還-二到寺一、敎待有樣問二都堵牟麻呂一、專不レ知二此老比丘案内一。年來此比丘不レ魚不二飮食一不レ酒不二湯飮一、常到二寺領海邊之江一、取二魚鼈一爲二齋食之菜一。而謁二和尚一忽隱レ之。悲哉悲哉。不レ惜レ音哀泣。今大衆共見二住房一、年來干置魚類皆是蓮華莖根葉也。於レ是知下不二例人一之由上。今敎待已隱二我〔我、原作成、據一本改。〕院一。早可レ被二興隆一者也者、問二之此寺之名一、謂二御井寺一。其情者〔者、一本旡、當衍。〕云何。氏人答云、天智・天武・持統此三代之天皇各生給之時、㝡初之時御湯行水汲二此地内井一奉レ浴之由、俗詞語來。件井水依レ經二三皇御用一號二御井一者、予問二此縁起一漸見二地形一、宛如二大唐靑龍寺一。奉レ受二付屬一畢。別當・西塔共還二本山一。別當共參二内裏一奏申レ由。勅急造二唐坊一佛像法門運-二移此寺一。予改二御井寺一成二三井寺一。其由何者、件井水三皇用給之上、此寺爲二傳法灌頂之庭一、可レ汲二井花水一之事令レ繼二彌勒三會曉一。故成二三井寺一云々。
[四一]
聖寳僧正十六にて出家して、始て元興寺にて三論の法文を學び、後に東大寺にて法相・花嚴の法文を修學す。東大寺の東坊南第二の室は、本願の時より鬼神のすむとて内作もなくて、荒室となづけて住人もなかりけるを、此僧正いまだ若かりける時居所のなかりければ、かの室に住けり。鬼神さま〴〵のかたちをげんじけれ共かなはでつゐにさりにけり。其後一門の僧相繼て居住して今にたえずとなん。
[四二]
李部王記曰、眞〔眞、恐當作貞。〕崇禪師述二金峰山神通一云、古老相-二傳之一。昔漢土有二金峯山一。金剛藏王菩薩住レ之。而彼山敎レ移二蒼海一而來。金峯山則是彼山也。山有二捨身谿一、號二阿古谷一。有二八〔八、據一イ本補。〕體龍一。昔本元興寺僧有二童子一。名二阿古一。少而聰悟、試經之時師使二阿古奉一レ試。及二已得一幾代度二他人一。如レ是兩度。爰阿古恨忿捨二身此谷一、即得二龍身一。師聞二捨身一驚悲徃看。于レ時已化レ龍頭猶人也〔也、一本旡。〕。而〔而、一イ本作面、恐非。〕先欲レ害レ師。菩薩冥護崩レ石壓レ龍、故師免レ害。貞觀年中觀海法師爲レ見二龍身一往到二彼谿一。夢龍請レ之明朝將レ見也。頃二天明一興レ雲降レ電見二龍擧一レ首。高二丈計、一頭八身。觀海祈レ龍云、奉レ寫二八部法花經一將レ救二汝苦一。勿レ害二於吾一。龍猶吐レ氣害將レ及レ身。觀海大恐心神迷惑、則歸-二命菩薩一、須レ寫二件經一。於レ是雲霧冥失二龍所在一、須臾雲霧即除、忽然身至二御在所一。【菩薩在所也。】觀海祈感如レ願寫レ經將レ供-二養之一。請二善祐法師一爲二講師一。善祐法師固辭。夢菩薩告曰、我今請レ汝、勿二苦辭一。須下至二方便品一漢音(*平安初期の新米音だった)讀上レ之。善祐感悟祈請如二菩薩告一。比レ至二方便品一大風飄レ經不レ知レ所レ去。八部法花經今見二一卷一。
[四三]
香隆寺僧正寛空は河内國の人也。神日律師入室(*直弟子)、寛平法皇(*宇多法皇)灌頂の御弟子也。天德四年(*960)炎旱のうれへ有けるに、五月九日より仁壽殿にて孔雀經法を修せられけるに、洛中に雨くだらざりけり。結願の日に成て卷數を奉る時、殿上に靈驗なきよしをせうして(*原文「せうじて」)執奏せざりけり。僧正そのよしを聞て法ふくをちやくし、かうろをさゝげて庭中に立てふかくくはんねんの時、かうろのけぶりたかくのぼりて大雨すなはちふる。たゞしきん闕ばかりふりて郭外にはくだらざりけり。人あやしみとしけり。
[四四]
寛忠僧都【號二池上僧都一。】は寛平法皇の御孫、兵部卿淳固親王の子、法皇入室、石山内供(*淳祐。菅原道眞孫、菅原淳茂男。)受法灌頂弟子也。行業つもり靈驗勝れたる人也。千日ごまを修し侍ける間は護法香の火を置けり。又度々孔雀經の法に靈驗を施せり。就中彗星丈怪行功其光〔丈怪云々、恐有誤。〕(*行切其光カ)の由善く人口に有。
[四五]
承平元年(*931)の夏の比、貞崇法師東寺の坊にて經を讀ける(*にカ)、大きなる龜出來りて見えけり。非常の物と思ひて見ず。こゝろをもつぱらにして經をよみけるに、しばし有て雷電してこの龜天に入けり。つぎの日火雷天神(*北野天神)かたちをげんじ給て、貞崇にのたまひけるは、われきのふ物語せんと思ひしに我を見ざりし、ほいをそむけり。貞崇答へ申て云、きのふたゞ大なる龜を見る。崇神とは知奉らず。但あやしむ所は雷天に冲することを。神のの給はく、我もとのあくしんによりて苦をうく。汝わがかたちを見るべしとて則げんじ給けり。貞崇見奉るに上の體雷公の圖に似たり。こしより下は火もゆるがごとし〔こしより云々、一本朱書云異本ニ腰よりしもは鮭のごとし、又神のの給はく腰のしも常にもゆるがごとし。〕。六月に又内裏へ參らんと思ふなりとのたまひて則見え給はず。
[四六]
淨藏法師はやんごとなき行者也。かつらぎ山におこなひける比金剛山の谷に大きなる死人のかばねありけり。かしら手足つゞきてふしたり。苔靑くおいて石を枕にせり。手に獨鈷をにぎりたり。こんじきさびずしてきらめきたり。淨藏大きにあやしみて、其谷にとゞまりてこれなに人のかばねといふことをしらんと、本尊にきせいしけるに、第五日の夜夢に人告ていはく、是はなんぢがむかしの骨なり。すみやかに加持してかの獨鈷を得べきなりといふ。さめてかばねにむかつて聲をあげて加持するに、かばねはたらきうごきておきあがりて、たなごゝろをひらきて獨鈷を淨藏にあたへてけり。其後たきゞをつみてはふりて、うへに石のそとばを立たり〔たり、一本作て。〕けり。くだんのそとば今にかの谷に有となん。爰に淨藏は多生の行人なりといふ事をしりぬ。又比叡山横川に三年こもりて、六道衆生のために毎日法花經六部をよみ、三時の行法〔法、原作德、據一本改。〕を修し、六千べんの神拜をいたして廻向しけり。其時護法かたちをあらはして、花をとり水をくみて給仕し給ひ〔給ひ、據一本補。〕けり。同住山の比の事〔事、一本作夏。〕にや、七月十五日安居の夜驗くらべををこなひけるに、朗善和尚の弟子に修入といふやんごとなき人を驗者につがひけり。其頃は石に護法をばつけゝり。第六のつがひにて先淨藏出てゐる。次修入出てゐる。淨藏がいはく、生年七歳より父母の懷を出て山林を家として雲霧をしき物とす。日々に身をくだき(*原文「ぐたき」)夜々に心をついやす。ねん頃に肝たんをくだきて全く身命をおしまず。これあへて名利のためにせず無上ぼだひのため也。もし我をしらばはく(*ばくカ)の石わたすべしと云。其時はく〔はく、一本作はし、下同。〕の石とび出て、おちあがる事鞠のごとし。こゝに修入いはく、はくの石はなはだ物さはがし。はやくおちゐ給へと。ことばにしたがひて則しづまりぬ。大威德呪を見てゝ(*滿てゝ)しばらく加持するにあへてはたらかず。淨藏又云、衆命によりてかたじけなくも禪師につがひ奉る。禪下行業年ふかくしてくはんねんよはひかたぶけり。其威德を見るにすでに在世の摩訶迦葉に同じ。あへて驗を尊者にあらそひ奉にあらず、たゞ三寳の證明をあらはさんがため也といひて、常在靈鷲山の句をあぐ。其聲雲をひゞかして聞人心肝をくだく。其時はくの石又うごきをどりてつゐに中よりわれて兩人のまへにおち居ぬ。二人ともに座を立てたがひにおがみつゝ入にけり。見る人なみだをながさずといふ事なし。
[四七]
念佛三昧修する事は上古にはまれ也けり。天慶よりこのかた空也上人すゝめ給ひて道塲聚洛この行さかんにて、道俗男女あまねくせうみやうをもつぱらにしけり。これくだんの聖人化度衆生の方便也。市の柱に書付給ひける、
一たびも南無阿彌陀佛といふ人のはちすの上にのぼらぬはなし
[四八]
千觀内供(*俗姓橘氏。橘公賴男。)は顯密兼學の人にて公請にもしたがひけり。空也上人のをしへによりて遁世したる人也。阿彌陀和讃をつくりて自他をしてとなへしめけるに、夢に人ありて語りけるは、信心是深。豈非二極樂上品之蓮一。菩提無量也。定期二彌勒下生之曉一云々。遷化の時手に願文をにぎり口に佛號を唱てをはりにけり。權中納言敎忠〔敎忠、一イ本作敦忠。〕いひけるは、大師命終の後夢の中にかならず生所をしめし給へとけいやくしけるに、闍梨入滅していくばくならずして夢に蓮花のふねにのりて、むかしつくれる彌陀和讚をとなへて西へ行けり。
[四九]
一乘院大僧都定照〔照、一本及下文作昭。〕は法相宗兼學の人也。天元二年(*979)二月九日金剛峯寺座主に補して、同十二月廿一日大僧都に轉ず。四年(*981)八月十四日東寺長者、興福寺別當〔別當、一本此上有等字。〕を辭し申ける狀にいはく、
興福寺・東寺〔東寺、據一本補。〕・金剛峯寺別當職之〔之、一本旡、當衍。〕事
右定昭從二若年之時一、誦二法花一乘一修二念佛三昧一。先年蒙二往生極樂之記一、而近曾夢中見下可レ墮二惡趣一之由上、定知二件等寺務一所二示現一也。如二往年告一爲二往生極樂一、謹辭如レ件。
天元四年八月十四日 大僧都定昭
此僧都一乘院の庭前に一株の橘の樹あり。久しくして枯〔枯、一本作朽。〕木と成にけり。大佛頂呪一反誦して加持の間すなはち花葉を出しけり。又船に乘て上洛しける時、天童十人出現して舟をになひて岸にちやくしけり。僧都は是十羅刹の我を救給ふぞと申ける。又不動明王も現レ形じて擁護したまひけるとなん。永觀元年(*983)三月廿三日入滅。右の手に五鈷をもち、左の手に一乘經をもつ。初は密印を結びのちには法花經を誦す。藥王品にいたつて、於此命終即往安樂世界乃至恒河沙等諸佛如來の文を兩三返誦して、弟子に告て云、我白骨なを法花經を誦してすべからく一切を渡すべしと云て、定印を結びて居ながらをはりにけり。其後墓内に經を誦する聲聞えけり。又すゞの聲なども聞へけるとなん。
[五〇]
性信二品親王は三條院の末の御子、御母は小一條大將濟時卿女也。むかし母后の御夢に胡僧來て君の胎内に詫せんとおもふと申けり。其後懷姙し給ひけり。たんじやうの日神光室をてらす。御法名性信也。大御室とぞ申侍ける。院御瘧病の時諸寺の髙僧等そのしるしをうしなひけるに、此親王朝より孔雀經一部を持てまいらせ給て、御祈念有ける程に、已に御氣變じておこらせ給はんとしける程に、御室の御膝をまくらにして御やすみ有けるが、御氣色火急に見えさせ給ひければ、御室信心をいたして孔雀經をよませ給ふ。其御なみだ經よりつたはりて院の御顔につめたくかゝりけるに、御信心の程覺しめししられける程に、速時に(*ママ)御色なをらせ給て、其日はおこらせ給はざりけり。勸賞には佛母院と云堂をたてゝ阿闍梨〔阿闍梨、一本此下有なんど三字。〕をおかれけり。又同御時參内せさせ給ひたりけるに、勅定に世間には以ての外に有驗の人と申なるに、我見るまへにて其しるしあらはさるべしと仰られければ、勅定そむきがたくしばらく念誦觀念せさせ給ひて、御念珠をなげ出されたりければ、弟子を足にして二三帀(*匝。廻り)ばかりはしりあゆみたりければ、いそぎ御障子をたてゝ入御ありけるとなん。すべて院・宮・關白を始め奉りて靈驗をかうぶる人その數おほし。さのみは事おほければしるさず。應德二年(*1085)九月廿七日つゐに往生をとげさせ給にけり。堀河左大臣(*源俊房)右大臣の時、紫雲をばまさしく見られけるとぞ。延曆寺僧慶覺は空中に音樂を聞けり。荼毗のとき御平生の間とかせ給はざりける御帶棺の中にてやけざりけり。ふしぎの事とぞ世の人申ける。
[五一]
永觀律師(*源國經男)は病者にて侍けるが、つねのことぐさに病者是善知識也。我依二苦痛一深求二菩提一とぞの給ひける。七寳の〔の、一本旡。〕塔をつくりて〔て、一本旡。〕佛舍利二粒を安置して、我順次に往生をとぐべくば此舍利かずをまし給ふべしとちかひて、後年にひらきて見奉け〔け、一本旡。〕るに四粒に成給にけり。随喜渇仰してなく〳〵二粒をとり、本尊のあみだ佛のみけんにこめ奉りて、晝夜に瞻仰し奉られけり。又みづからあみだ講式をつくりて、十齋日ごとに修して薰修久しく成にけり。㝡後の時れいの講式〔式、一本旡。〕を修しける間に律師異香をかゞれけり。他人はこれをかゞず。瞑目の夜頭北面西にして正念に住して、念佛たゆむことなくおはりにけり。年七十九也。弟子あじやり覺叡が夢に、一の精舍に衆僧ならび座したるに、覺叡も其列にて佛像を瞻仰するによく見れば此佛先師の律師なり。一句さづけて云、從レ我〔我、原作家、據一本改。〕聞レ法往-二生極樂一云々。
[五二]
平等院僧正行尊は一條院〔一條院、一イ本此上有小一字。〕(*三條天皇皇子敦明)御孫、侍從宰相(*源基平)子也。母の夢に中堂にまいりたりけるに、三尺の藥師如來をいだき奉ると見て、いくほどをへずしてくわいにんありけり。すべからく台嶺の法師にてぞ有べかりけれども、流にひかれて寺法師に成給にけり。實相坊大あじやり(*賴豪)に随逐して、三部の大法諸尊別行護摩秘法をうけ、秘密灌頂をつたへ給へり。出家の後住寺の間一夜も住房にとゞまらず、金堂の彌勒を禮拜して四五更を送けり。十二歳の六月廿日より不動の供養法を勤修せられけり。十七にて修行に出で十八年歸洛せず。其間に大峯の邊・かづらき(*原文「かつらぎ」)其外靈驗の名地ごとに歩をはこばずと云事なし。かく身命をすてゝ五十有餘にをよぶ。その行たいてんする事なし。その間に護摩をしゆする事小壇・支度物等にあひぐしてあへてだんぜつする事なし。其日數をかぞふれば前後都合八千餘日也。又毎日數百へんのらいはいありけり。本寺の住房にしてはじめて不動の護摩をしゆせられける時、夢中に不動尊の仕者かたちをあらはして見え給けり。たけ三四尺ばかりなる童子の靑衣のうへにむらさきなるをぞきたまひ〔たまひ、一本此下有たり二字。〕ける。左の手に釼印をなす。壇上よりあゆみきたりて乳上にあたりて種々の事をしめし給ふ中に、やくそくのごとく護摩二千日勤行せらるべき也との給はせければ、僧正承諾せられにけり。其後大みねの神佛(*神仙〔宿の名〕トモ)に五七日宿したる事ありけり。これまれなる御〔御、一本旡。〕事也。同行一人もしたがはず、たゞひとり庵室にゐて經をよみ呪をみてゝ日を送り給ひけるに、陰陽靉靆雨滂沱庵室のうち河流のごとくして身をいるべき所なし。わづかに岩の上に蹲踞して存命ほとんどあぶなかりけり。高聲に經をよみ奉る。我不レ愛二身命一、但惜二無上道一の義也。夜ふけて夢ともなくうつゝともなく、容貌美麗なる總角の幼童左右におの〳〵一人、僧正のあしをさゝげたり。おどろきて幼童をもとむるにはじめて夢としりて感涙をさへがたし。いよ〳〵本尊を念じてねぶれば又さきのごとく童子見えけり。麗景殿の女御(*藤原延子。藤原賴宗女)僧正を御猶子にして憐愍の心ざし實子に過たりけり。僧正修行に出られて大みねにをこなはるゝ間、女御日來やまひわづらひ給ひて、存命たのみなくなり給ひけるとき、僧信禪をつかひとして今一度みたてまつらんがためにいそぎ歸洛し給ふべきよし申されけり。草庵の内にたゞ一人經をよみて、かげのごとくにおとろへて其人とも見えず、なみだにおぼれてしばし物もいはれず。あいかまへてかの仰のむね申ければ、僧正われ此行をくはだてゝ世の中を思ひすて、三寳の加護を賴み奉ればもろ〳〵の怖畏なし。女御の御惱もをのづから除き給はんとて、柑子一つゝみを加持してまいらせられけり。信禪かへり參てそのよし申されて、くだんの柑子を奉ければ、すなはちふくせしめ給ひて御惱へいゆし給てけり。大峯に入られける日齋持の粮米白米七升也。其内四升は日來うせにけり。のこる所三升也。笙の岩屋(*吉野郡國見山中)にて疲極の山ぶしをもてなし大りやくのこる物なかりけり。其比の事にや、かの岩屋にて、
草の庵なに露けしとおもひけんもらぬ岩やも袖はぬれけり
又箕面山に三ヶ月こもられける時、夢に龍宮にいたりて如意寳珠をえたり。其間の奇異おほけれどもしるさず。浮ぐものごとくさすらひありき給て、和泉國槇尾山と云所にてかの山の住僧に奉仕せられけり。阿私仙に大王(*釋尊)のつかへしがごとし。其時村邑に産する女ありけり。いのらしめんがためかの住僧を請じけり。僧故障ありてゆかず。たゞしこのころより給仕する下僧有、件の僧をやるべしといひければ、産婦の夫それにてもといひければ、すなはち僧正に其よしを申けり。僧正驗者にたへざるよしをしきりにの給ひけれ共、あながちにいふ事なればおはしつゝ、しばらく念誦の間に平かにむまれにけり。家によろこびて牛を引たりけり。僧正これをえて彼住僧にたびければ感悦はなはだし。かゝる程に僧正の御姉梅壺女御(*源基子)このおはしますやうをきかせ給て、かの國司藤原のむねもとにおほせて、小袖以下の御おくり物有ければ、馬允某御つかひにてかの山に參向しけるに、はからざるに僧正に見あひ奉りにけり。地上にひざまづきておどろきあやしむ事かぎりなし。住僧これを見て貴人のよしをしりて、科を悔ておそれまどへるさまことはり也。僧正身の事しられぬと夜中に行方もしらずうせられにけり。むかし玄賓僧都の伊賀國の都司(*郡司)につかへて侍けるためしにおなじく侍り。
[五三]
大原良忍上人(*俗姓秦氏)、生年廿三よりひとへに世間の名利を捨てふかく極樂をねがふ人也。日夜ふだんに稱念していまだ睡眠せず。生年四十六しゆび(*麈尾カ)廿四年にいたりて、夏月日中にたゞ佛力によつて自心にまかせずまどろみたるゆめに、あみだ佛示現云、汝行不可思儀也。閻浮提之内、三千界之間、已爲レ有レ一、是可二無双一。雖レ然汝順次往生、誠以難レ有之事也。所以者何、我土一向淸淨之堺、大乘善根之國也。以二少〔少、原作外、據一本改。〕縁人一難レ生。如レ汝行業雖レ經二多生一、未レ足二往生之業因一也。盖可レ敎二速疾往生之法一。所謂圓融念佛是也。以二一人行一、爲二衆人一故、功德廣大、順次往生、已以易レ果修レ因、已以融通滅〔滅、一本所感。〕果、盍下融-二通一人一令上レ往-二生衆人一。阿彌陀如來示現粗如レ此。委細不レ遑二毛擧一矣〔矣、一本此下有天治元年【甲辰】(*1124)六月九日十字。〕。かくしるしおかれたり。此後あまねくくはんじんの間、本帳に入所の人三千二百八十二人〔三千二百云々、一本旁書云一乘佛子良忍。〕也。早旦に壯年の僧の靑衣きたる出きたりて念佛帳に入べきよしを自稱して、名帳を見てたちまちにかくれぬ。これ夢にもあらずうつゝにもあらず。上人あやしみて則名帳を見るにまさしく其筆跡あり。その字に曰、奉レ請念佛百反、我是佛法擁護者鞍馬寺毘沙門天王也。爲レ守-二護念佛結縁衆一所二來入一也。【五百十二人、如レ此入給へり。】又上人天承二年(*1132)正月四日、くらま寺に通夜して念佛の間、寅のおはりばかりに夢に、天に幻化(*現化)のごとくして、自身と驚覺しての給はく、汝如二我身一。又梵天王寺護二正法一、可レ奉レ加二念佛帳中一。我又護レ汝如二影随一レ形。惣冥衆入二結衆一、諸神又滿云々。夢さめてみれば眼前に其文あり。梵天王・部類・諸天以下、一切諸王・諸天・九曜・廿八宿、惣三千大千世界乃至微塵數、所有一切諸天・神祇・冥道ひとつももれず各百反〔反、一本作遍。〕入給へり。不思儀未曾有の事也。凡勸進帳に入所の人三千二百八十二人の内、日時を注して往生をとげたるもの六十八人也。爰上人同月春秋六十一にて七ヶ日さきだちて死期をしりて〔て、一本旡。〕、つゐに往生のそくはひをとげられにけり。入棺の時其身かろきこと如二鵝毛一云々。大原覺嚴律師ゆめに上人つげていはく、我遂二本意一在二上品上生一。偏に融通念佛力也と〔と、一本旡。〕云々。
[五四]
少將の聖(*源時叙。源雅信男。大原入道)も大原山の住人なり。三十餘年常行三昧を行ぜ(*原文「行せ」)られける間に、毘沙門天王かたちをあらはして上人を守護し給けり。御影像を等身に圖繪していまに勝林院に安置せられたるなり。此上人臨終の時は、勝林院に常行三昧をこなひける時、西方より紫雲げんじて堂の内へ入とみるほどに、肉身ながら見えず。即身成佛の人にや。【往生傳にはかくはなし。委可レ尋レ之。】
[五五]
仁平二年(*1152)七月二日、定信入道(*藤原定實男)宇治左府(*藤原賴長)にまいりたりければ、おとゞ衣冠をたゞしくして禮拜し給ひけり。一切經をかきて供養をとげたる人なり、佛に同とて拜せらるゝとぞ、かの日記(*台記)には侍る。
[五六]
攝津國淸澄寺といふ山寺あり。村人きよし寺とぞ申侍る。其寺に慈心坊尊惠と云老僧有けり。本は叡山の學徒也けり。多年法花の持者也。住山をいとひて道心をおこして此所に來りて年をおくりければ、人皆歸依しけり。承安二年(*1172)七月十六日、脇足により〔より、一本此下有かゝり三字。〕て法花經をよみ奉ける程に、夢ともなくうつゝともなくて、白張に立烏帽子きたる男のわら沓はきたるが竪文を持て來れり。尊惠あれはいづくよりの人ぞと問ければ、えんま王宮よりの御つかひ也。うけぶみ候とて立文を尊惠にとらせければ、披見るに、
崛-二請
閻〔閻、此上恐脱南字。〕浮提大日本國攝津國淸澄寺尊惠慈心坊一。
右來十八日於二焰魔廳一以二十萬人之持經者一可レ被レ轉-二讀十萬部法花經一。冝レ被二參勤一者。依二閻王宣一崛請如レ件と書れたりけり。尊惠いなみ申べき事ならねば、領狀(*領掌)の請文書て奉ると見て覺にけり。例時の程になりにければ寺へ出ぬ。例時はてゝ僧ども出けるに、老僧一兩人に此夢の告をかたりければ、むかしもかゝるためしいひ傳へたり。その用意あるべしといひければ、房に歸りてつとめいよ〳〵をこたらず。寺僧等きおひ來てとぶらひけり。十八日の申のおはりばかりに、たゞ今心地少しれいにたがひて世中も心ぼそくおぼゆるとて打ふしけるが、酉の刻計に息たへにけり。扨次の日辰のおはり程にいきかへりて、若持二法花經一其心甚淸淨の偈を四五くだりが程誦しけり。其後おきあがりて冥途の事共語る。王宮にめされて十萬人の僧につらなりて、法花經轉讀十萬部おはりて、法王〔王、一本作皇。〕尊惠をめしてしとねをまふけてすへらる。王は母屋の御簾の中におはしまして、尊惠あらはに冥官共は大床につらなり居たり。さま〴〵の物語し給ひしに、攝津國に往生の地五ヶ所あり。淸澄寺その内也。汝順次の往生うたがふ事なかれ。太政入道淸盛は慈惠僧正(*定心房良源)の化身也。敬禮慈惠大僧正、天台佛法擁護者、かくとなへ給て、すみやかに本國にかへりて往生の業をはげますべしとてかへされけりとかたりけり。きく人たうとみめでたがる事かぎりなし。其後一兩年をへて又法花轉讀のためにめされたりけり。そのゝち一兩年有てめでたく往生をとげたりけり。
[五七]
西行法師大みねをとをらんとおもふ心ざしふかゝりけれども、入道の身にてはつねならぬ事なれば、おもひわづらひてすぎ侍けるに、宗南坊僧都行宗その事をきゝて、何かくるしからん、けちえんのためにはさのみこそあれといひければ、よろこびて思ひ立けり。かやうに候非人の山ぶしの禮法たゞしうてとをり候はんことはすべてかなふべからず。たゞ何事をもめんじ給ふべきならば御供仕らんといひければ、宗南坊その事はみなぞんじ侍り。人によるべき事也。うたがひあるべからずといひければ、悦てすでに具して入けり。宗南房さしもよくやくそくしつる旨を皆そむきて、ことに禮法をきびしくしてせめさいなみて、人よりもことにいさめければ、西行涙をながして、我はもとより名聞をこのまず利養を思はず、たゞけちえんのためにとこそ思つる事を。かゝる憍慢の識にて侍けるをしらで、身をくるしめ心をくだく事こそくやしけれとて、さめ〴〵となきけるを、宗南坊聞て西行をよびて云けるは、上人道心堅固にして難行苦行し給ふ事は、世もつてしれり人もつてゆるせり。其やんごとなきにこそ此事〔事、一本作峯、或是。〕をばゆるし奉れ。先達の命に随て身をくるしめて木をこり水をくみ、あるひは勘發(*譴責)のことばを聞或は枝木をかうぶる。是即地獄の苦をつくのふ也。日食すこしきにしてうへしのびがたきは餓鬼のかなしみをむくふ也。又おもき荷をかけてさがしきみねをこえ、深きたにをわくるは畜生のむくひをはたす也。かくひねもすに夜もすがら身をしぼりて、あかつき懺法をよみて罪障を消除するは、已に三惡道の苦患をはたして、早く無垢無惱の寳土にうつる心也。上人出離生死の思ありといへ共、この心をわきまへずしてみだりがはしく名聞利養の識也といへる事、はなはだおろかなりとはぢしめければ、西行たな心を合て随喜の涙をながしけり。まことに愚癡にして此心をしらざりけりとてとがをくひてしりぞきぬ。其後はことにをきてすくよかにかひ〴〵敷ぞふるまひける。もとより身はしたゝかなれば人よりもことにぞつかへける。此言葉を歸依〔歸依、原作きふく、據一本改。〕(*歸伏)して又後もとをりたりけるとぞ。大みね二度の行者也。
[五八]
永萬元年(*1165)六月八日とらのとき、蓮花王院の兵士がゆめに、うしろ戸のひつじさるのすみより北へ第四のまに、以ての外くろき山有けり。ふもとに承仕ありけるが、件の山のみねよりやんごとなき老僧出きていはく、抑此水をば何の料にほるぞと尋侍りければ、くだんの承仕こたへていはく、本より堀はじめてし水を堀とゞめさせ給ひて制止給べきやう候はず。又かの僧の云、申所尤いはれたり。水の末をばながさんずるぞとてほそき谷川をほりながしければ、水きはめてほそく落けるを、此水はほそく見ゆれども、八功德水甘露〔甘露、一本此下有含識二字。〕利益方便水〔水、據一本補。〕にてあらんずるぞ。よく〳〵精進してくむべき也といふと見て夢さめにけり。去ほどにくだんのうしろ戸のみぎりの下にうつゝに水有。貴賤くみけれ共つきざりけり。又くまざるときもあまらず。ふしぎ成事也。當時其水見えず。いつ比よりうせにけるかおぼつかなし。
[五九]
承安二年(*1172)三月十五日、六波羅太政入道福原にて持經者千僧にて法花經を轉讀する事ありけり。件の經以下御布施まで諸院・宮・上達部・殿上人・北面迄も、藏人右少弁ちかむね(*平親宗)が奉行にてすゝめけり。法皇御幸成て其一口にいらせおはしましけり。法印三人が御行道ありけり。諸國の土民結縁のために、あるひは針或は餅四五枚など引けり。法皇もうけさせ給けり。はまにかりやをつくりて道塲にせられ〔けり、一本此上有たり二字。〕けり。佛は一千體ぞおはしましける。又四十八壇の阿彌陀護摩も有けり。法皇も其中にくはゝらせ給けり。十七日迄三ヶ日にぞ轉讀し奉りける。導師法印公顯(*顯康王子)勸賞に僧正になされにけり。公顯僧正上洛の後、師匠の法印公舜(*藤原家仲男)弟子にこえられながら、よろこびのためにきたられぬ。公顯申されけるは、まづなしまいらせてこそ罷成べきに、内外について其おそれ侍り。さりながらかみならせ給はゞ僧正の上にゐまつらん事おどろくべきにあらず。法印として僧正のでしもちて上にゐたらんこそ希代の事にて侍らめとこしらへけり。法印歸る時庭中迄出ければ、僧正なく〳〵謝せられけるとぞ。
[六〇]
高倉院の御時炎旱年をわたりけるに、承安四年(*1174)内裏の㝡勝講澄憲法印(*藤原信西男。安居院唱導の祖)御願旨趣啓白のついでに、龍神に祈り申てたちまちに雨をふらして、たうざにその賞をかうぶりて權大僧都にあがりて、上臈權少僧都覺長(*藤原宗兼男)が座上につきけり。其時の美談此事にありけり。俊惠法師(*源俊賴男)よろこびつかはすとてよみける、
雲の上にひゞくをきけば君が名の雨とふりぬるおとにぞありける
[六一]
解脱房(*貞慶。藤原貞憲男)遁世の後、壺坂の僧正(*覺憲。澄憲弟)のもとに湯治のためにしのびて、湯の刻限をまち候ほど、或人の部屋に立かくれてゐたりけるに、法文宗義を談じけるに、解脱房忍びておはするといひければ、すなはち此義をとひたりければ、返事に、
いにしへはふみ見しかどもしら雲のふかき道にはあともおぼえず
かくよみてこたへたりけり。
[六二]
鎌くらの右大將上らくの時天王寺へ參られたりける、其時は鳥羽宮(*定惠。後白河皇子)別當にてなんおはしける。御對面有けるに幕下申されけるは、よりともが一期にふしぎ一度候き。善光寺のほとけ禮〔禮、一本作拜。〕し奉る事二度なり。その内はじめは定印にておはしましき。次のたびは來迎のいんにておはしまし候。すべて此ほとけむかしより、印相さだまりたまはぬよしつたへてさむらへども、まさしく證を見たてまつりてさむらひしと申されけり。かの幕下はたゞびとにはあらざりけるとぞ宮仰せられける。
[六三]
源空上人(*法然)は一向專修の人なり。たゞ人にはおはせざりけり。彌陀如來の化身とも申、勢至菩薩の埀跡とも申すとぞ。其證あきらかなり。諸宗の奧旨さぐりきはめずといふ事なし。暗夜に經論を見給て燈明なけれども、光明家内をてらす事晝のごとし。久安六年(*1150)生年十八にしてはじめて黑谷の上人(*叡空)の禪室に入て、難解難入の文を聞て易往易行の道におもむく。まのあたり宮殿宮樹を見化佛化菩薩をげんじ奉る。元久二年(*1205)四月一日月の輪殿(*九條兼實)へさんじて退出の時、南庭をとをりけるに頭光げんじたりければ、禪閤地におりて恭敬らい拜し給ひけり。建曆三年(*1213)正月廿五日遷化。【春秋八十。】往生の瑞相一にあらず。いまだ墓所を點ぜざるに、兩三人の夢に、其所にあたりて天童行道し蓮花開敷けり。三四年よりこのかた、老病身にまとひて耳目蒙昧なりけるが、往生の期ちかづきては、ことに目も見え耳もきかれにけり。みづから上品極樂は我本國也。定てつゐに往生すべし。觀音・勢至〔至、一本此下有等字。〕の聖衆來現して眼前におはします。我往生はもろ〳〵の衆生のため也との給て、廿四日の酉のときより、高聲念佛躰〔躰字、原作程、今從一本。〕をせめて間なし。廿五日平正〔正、一本作生、或當作旦。〕(*午正カ)に光明遍照の四句の文をとなへて慈覺大師の九條の袈裟をちゃくして、頭北面西にしてねぶるがごとくにしてをはり給にけり。念佛音聲とゞまりて後もなを唇舌をうごかせる事十余反ばかり也。順次の往生うたがひなきもの也。
三井寺の公胤僧正、結縁のために四十九日の導師を望みて兩界曼陀羅幷に阿彌陀の像を供養してけり。其後五ヶ年を經て、建保四年(*1216)四月廿六日の夜僧正の夢に見侍りける、上人告云〔云、一本作曰。〕、
往生之業中。 一日六時刹。 一心不亂念。 功德㝡第一。
六時稱名者。 往生必决定。 雜善不决定。 高修定善業。
源空惣孝養。 公胤能説法。 感喜不可盡。 臨終先迎攝。
源空本地身。 大勢至菩薩。 衆生爲化故。 來此界度者。
かく示してさり給ひにけり。勢至菩薩の化身といふ事これより符合する所なり。
[六四]
高弁上人(*明惠。平重國男)おさなくては北〔北、一本作喜多。〕院御室(*後白河皇子。守覺法親王)に候はれけり。文學坊(*文覺。遠藤盛遠)まいりてその小わらはを見て、此兒はたゞ人にあらずとさうして、まげて此ちご文學に給はりて弟子にし侍らんと申て取てけり。法師になりて高雄に住せけるに、がくもんに心を入てあからさまにも他事もせざりけり。文學坊高雄をつくるとて、番匠をせさせてひしめきけること、高弁上人うるさき事に思ひて、聖敎のもたるゝかぎりいだき持て山のおくへ入て、人もかよはぬ所にてたゞ一人見られけり。晝つがた番匠が食物を營みすへたる時、山の中よりはしりくだりて、其食七八人が分をやす〳〵ととり喰て、又あらぬ聖敎をもちて歸入ぬ。さて山中に二三日も居て出られず。かくする事二三日に一度かならず有けり。文學坊此事を聞てたゞ人のふるまひに非ず權者の所爲也とぞいひける。此上人暗夜に聖敎を見給けり。大神基賢が子に光音といふ僧かの上人の弟子にて侍けり。年來給仕して侍けるがかたりけるは、さしもくらき夜火もともさずして聖敎を見給とて、弟子どもにしか〴〵の所に有文取て給へといはれければ、くらまぎれにさぐりて來を見て、此文にはあらずしか〴〵の文などの給ける、ふしぎなりし事也。かた夕暮に光音をよびて、山寺のたゞ今程はよに心のすむもの也。いざ給へ月見にとて房を出て、淸瀧川のはたをかみへ廿〔廿、一本作卅。〕餘町計、山をわけ入給て大成石有。それにのぼりて、此いしはいかにもやうある石也。伽藍などのたちけるいしずへにもやありけん、此石などやらん、なつかしきなりとて、ふくるまでこゝろをすまして、さま〴〵の物語しつゝ座せられけり。寒くおはすらんとて、その石のいづくに有べしとも覺えぬに、圓座一枚を取出して光音にしかせられける、ふしぎにめづらかなる事也。彼石をば定心石とぞ名付られける。もろこしの悟眞寺の石に摸せられけるにこそ。又繩床樹といふ松有。その松座禪にたよりありけり。正月の比松のもとに居てくはんねんせられけるに、あられのふりければ、
岩のうへ松のこかげにすみ染の袖のあられやかけしその〔その、一イ本作しら。〕玉
釋尊の御遺跡おがみ奉らんとて、弟子十餘人をあいぐして天竺へわたり侍らんと思はれける比、春日大明神にいとま申さんとてかの御やしろへ參られけるに、鹿六十頭ひざをおりて地にふして上人をうやまひけり。其後生所紀伊國湯淺郡へむかはれたりけるに、上人の伯母也ける女房に付て春日大明神御詫宣有けるは、我佛法を守護せんがために此國に跡をたれり。上人我國をすてゝいづくへかゆかんとするとの給ければ、上人申給ひけるは、此事信ぜられず、まことならばそのしるしをしめし給ふべしと申給へば、汝われをうたがふ事なかれ。我此山に來りし時六十頭の鹿ひざをおりてうやまひしは、我汝がうへに六尺あがりてかけりはなれざりしゆへに、われをうやまひしによりて、上人に向てひざを折し也。上人又申やう、それはまことにさるべき也。去ながら猶うたがひあり。すみやかに凡夫の振舞にはなれたらん事を示し給へと申されければ、この女房とびあがりて萱屋のむね〔むね、一本作梁、下同。〕に尻をかけて座せり。其顔の色瑠璃のごとくに靑くすき通、口より白き泡をたらす。その泡かうばしき事かぎりなし。その時上人信仰して誠に此やうふかしぎ也。年比華嚴經の中にふしんおほかり。悉く解説〔説、原作脱、據一本改、下同。〕し給へと申されければ、御領狀有けり。上人すゞり・かみをとり出して所々を書いでゝとひまいらするに、一々にあきらかに解説し給。上人涕泣隨喜して渡海の事も思ひとゞまり給けり。かの白泡のかうばしき事他郷まで匂ひければ、人あやしみつゝきほひあつまりて、拜みたうとぶ事かぎりなかりけり。三ヶ日迄をり給はでむねの上に御座有ける。嚴重ふしぎなりける事也。上人寛喜四年(*1232)正月十九日入滅の時、手あらひ袈裟かけ念珠とりて毘盧舍那五聖(*毘盧舍那・文殊・普賢・觀音・彌勒)に向ひ奉て、宴座してみづからの頭上にして光明眞言幷五字陀羅尼左(*ママ)布字觀有けり。其後高聲に、所〔所、一本引(*作カ)處。〕於第四兜率天、四十九重摩尼殿〔殿、原作天、據下文及一本改。〕、晝夜恒説不退行、無數方便度人天と唱て種々の述懷どもありけり。一切法門その大意を得て、玉鏡をかけて一念の疑滯なし。聖敎を燈明として一塵として〔一塵として、據一本補。〕穢たる事なし。我名聞にまじはらず利養を事とせず、此身をもて一切の衆生を度して、しかしながら四十九重摩尼殿の御前へ參り侍らんずる也。必ず我を攝取(*攝受)せしめ給へとて、雙眼よりなみだをながして又高聲に云、此是大慈淸淨智、利養毋間慈氏尊、灌頂地中佛長子、随順思惟入二佛境一と誦して、南無彌勒菩薩と兩三反となへて手をあげて信仰の念佛をすゝめらる。弟子三人は寳號をとなふ。不動尊左脇にげんじ給ひけるゆへに一人をして慈救呪を誦せしめけり。又五字文殊呪を誦せしむ。かくのごとく諸僧寳號をとなへ神呪を誦する間に、現供養の作法をもつて行法ありけり。行法をはりてとなへていはく、
我昔所レ造諸惡業。 皆由無始貪瞋癡。
從身諸〔諸、一本作語。〕意之所レ生。 一切我今皆懺悔。
と誦し終りて定印に住して入觀あり。やゝ久くして右脇にしてふし給ひぬ。入滅の儀端座・右脇の二の樣有。われ尺尊御入滅の義にまかせて、右脇にして滅をとるべし。今はかきおこすべからずとの給ひて、南無彌勒菩薩とゝなへて、巳の刻にねぶるがごとくにて終り給ひにけり。異香室にみち、すべて種々の奇瑞等つぶさにしるすにいとまあらず。
[六五]
越後の僧正親嚴、わかゝりける時たび〴〵大みねを通りけるに、年頃もち來りたりける小字の法花經を、香精童子其かたちはみえ給はで、聲ばかりしてしりさきにつきてこひ給けり。樣あるらんと思ひて奉りにけり。そのゝち日にしたがひて名譽ありて、東寺一の長者、法務大僧正、御持僧、牛車宣旨まできはめられたりし、たうとかりし事也。
[六六]
後鳥羽院、聖覺法印(*澄憲男)參上したりけるに、近來專修のともがら一念・多念とてわけてあらそふなるは、いづれか正とすべきと御たづねありければ、行をば多念にとり、信をば一念にとるべき也とぞ申侍ける。
[六七]
南都高天〔天、一本作間、同イ本與此同。〕寺にすむ僧ありけり。長谷へ參て通夜してさぶらひけるに、常よりも人おほく參りて侍けるに、此僧あかつき下向せんとしけるに、たれともしらぬ俗來りて珠を持て僧にさづけていひけるは、この珠准后(*藤原家實。藤原基通男。)へまいらせて給はるべしとてすなはちさりにけり。珠の色むらさきにて其勢(*背)たちばなの程なりけり。かのをしへのごとく准后へもて參て奉りにけり。其まへの夜准后の御夢に長谷の觀音より寳珠を給はらせ給ふと御覽ぜられけるを、御心の中ばかりにおぼしめして仰出さるゝ事なかりけるに、其後朝に此珠をもちて參りたりける、ふしぎなる事也。件の珠醍醐の僧正實賢(*藤原基輔男。)あづかり給はりて、たび〳〵寳珠法おこなはれけるとなん。
[六八]
神祇權少副大中臣親守、年來大般若一筆書寫の心ざしありけれども、むなしくてやみにけり。常のことぐさに、此願を心にかけて、一日に二枚計づゝ書奉る共十余年にはてなん。口おしくも思ひたらぬかなといひけるを、前權大副同長家聞て、たちまちに智發して此願を思ひ立て、終に一筆書寫の功を終〔終、原作へ、據一本改。〕てけり。供養の後隨喜のあまりに親守がもとに行ていひけるは、此事はもと我思よりたるにあらず、仰せられしむねをきゝてをのづから發願〔發願、原作おこ、今從一本。〕して大功をなしたる、しかしながら御恩也。かつは其事謝せんがためにことさらまうできたるなりといひて對面したるをみれば、ちいさき鬼三人長家にしたがひて有。そのたけあか子ばかりなりけり。縁をのぼりける時は三人庭にひざまづきて畏りけり。頓て二人はしたがひてうへにのぼりて有。一人は下に有。皆長家を守護するさま也。かやうの事は夢などにこそ見る事もあれ、まさしくうつゝに見たる事はふしぎの事也。大般若書寫によりて十六善神の立そひて加護し給けるにや、たうとくめでたき事也。かの親守は五部大乘經自筆に書奉たるもの也。まさしく正直のものにてながく虚言などせざりしもの也。かゝるふしぎこそありしかと親守かたりしをきゝてしるし侍る也。
[六九]
使廳(*撿非違使)のけちえん經は、長保元年(*999)三月十日〔十日、一本作十四日。〕はじめておこなひて、其後年ごとにをこなはれけるが、絶て久しく成にけるを、建久年中(*1190−1199)別當兼光卿(*藤原兼光。藤原資長男)かたのごとくおこなひけり。其後建保六年(*1218)五月廿日別當顯俊卿(*藤原顯俊。藤原光雅男)雲林院にておこなひたりけり。左の佐(*左衞門佐)經兼(*藤原經兼。藤原定經男)いげ着座したりけり。此度はじめて前右大臣公繼(*藤原〔德大寺〕公嗣。藤原實定男)を始て別當經たる人々に法花經幷に涅槃經一卷づゝけちえんせさせられたりけり。其外別當のさたにてもみづから書れたりけり。開結の二經(*三部經の内、本經以外の開經と結經)は左佐經兼・右佐賴資(*藤原賴資。藤原兼光男)けちえんし侍りけり。尉いげは尊勝陀羅尼をぞ奉ける。みな捧物をぐしけり。寳治六年(*寳治二年〔1248〕カ)五月廿八日、別當定嗣卿(*藤原定嗣。藤原〔葉室〕光親男)靈山の堂にて又行れしは、建保の例をうつされけり。ふるきためしの有けるとかやとて、ゆるしもの(*恩赦)なん侍りけり。又金光明經をも別當のさたにてそへられけり。今度法花經品々をば詩につくらせ、又金光明經の品々をば哥によませられけり。
[七〇]
爰かしこ修行する僧有けり。名をば生智といふ。度々渡唐したりけるもの也。建長元年(*1249)の比渡唐しけるに、惡風にあひて已に船くだけんとしければ、こと〔と、一本作た、下同。〕う(*端舟の類カ)といふ小船に乘うつりにけり。ふねせばくして百餘人ぞ乘たりける。殘りのともがらはもとの船に殘りて有ける、心の内をしはかるべし。ことうに乘て十餘日有けるに、水つきて既に死〔死、一本此上有うへて三字。〕なんとしける時、行衍坊嶷〔嶷、原作闕、據一本改。〕淨といふ上人の乘たりけるが云やう、各同じ心に觀音經を卅三卷よみ奉るべし。我も祈請しこゝろみるべしとて、左の手の小指に燈心をまとひてあぶらをぬりて、火をともして燈明として同じく經をよみけり。卅三卷のおはり程に成て、南のかたより淡(*泡)のごとく成もの、海のおもてに一段ばかりしらみわたりて見えけるが、此舟のもとへ流れくるあり。あやしと思ひて杓をおろしてくみてみれば、少も鹽の氣もなき水のめでたきにて有けり。人々是をくみのみて命いきにけり。是件の觀音の利生方便也。世の末といひながら、大聖(*釋迦・菩薩)の方便ふかしぎの事也。大舟にすてのせられたりけるもの共すでにかぎりなりけるに、いづくより共しらぬ小船出來て、此ともがらをうつしのせて、ことゆへなく波ぎし〔波ぎし、一本作彼岸。〕へつけてけり。是もくわんおんの御たすけ有けるにや。
[七一]
湛空上人(*藤原正信。藤原實能孫)嵯峨の二尊院にて涅槃會をおこなはれける時、人々五十二種の供物をそなへけるに、花をうへにたてゝ哥をよみて付けるに、西音法師(*平時忠男)水瓶に櫻〔櫻、一本作梅、似是。〕を立ておくるとてよみける、
きさらぎの中のいつかの夜半の月入にしあとのやみぞかなしき
返し、湛空上人、
闇路をばみだのひかりにまかせつゝ春のなかばの月はいりにき
又一首をそへられける、
會をてらす光のもとをたづぬれば勢至ぼさつのいたゞきのかめ
[七二]
いつ比の事にか書寫上人(*橘善根男)みづから如〔如、一本作妙。〕法如説に法花經かき給けるに、炎魔王〔王、據一本補。〕宮より官をもて申おくりけるは、自業自得果の衆生の業をむくはんがためにみな我所にきたる、そのむくひいまだつくさゞるに、上人の寫經のあひだ、罪報の衆生みな人中(*人間界)・天上にむまれ或は淨刹(*淨土)にまうづる間、罪惡の地悉く荒廢せり。ねがはくは上人經を書給ふ事なかれとうたへ申たりければ、上人の給けるは、此事わが進退にあらず、はやく釋迦如來に申さるべしとぞこたへ給ひける。
古今著聞集卷第二終
(一本奧書云)
或本云
此一段以竹園御本追而書加之了【定昭僧都次・性信親王上有之。】(*最終段の位置に關する注記。)
目録
巻二 釋敎