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講習餘筆 卷之四

藤原明遠(中村蘭林)
(『少年必讀 日本文庫』第六編 博文館 1891.11.24
※ 原文漢字カタカナ交じり文。(*入力者注記)

○ 解題(内藤耻叟) 講習餘筆序(伊奈忠賢) 自序 目録   巻1   巻2   巻3   巻4
[目次]

講習餘筆卷之四

○ 爾雅に親族の稱呼を記すること詳かにして、獨り兄弟の子に稱なし。女子謂昆弟之子とあるによりて、古人往往に兄弟の子をも同く姪と稱せり。丘瓊山(*丘濬きうしゆんの大學衍義補に云るは、一 スレバ、則是男女無別矣。古謂同祖兄弟從兄弟、謂母之姉妹レバ從母、則當スル從子○○上レとなり。(*甥が従子、姪はメイ。)此説當れり。然るに、この稱、丘氏に始るに非ず。按ずるに、左傳襄公二十八年に、衛の石惡出奔晋、衛人立從子○○、以定石氏之祀。禮也、とあり、此の註に杜預・林堯叟、共に從子の義をとかず。但し襄公十五年の杜註に、子馮叔敖從子○○と云て、孔穎達が疏に馮是艾獵之子ナレバ、則馮是叔敖之子也と云へば、分明に兄弟の子を指て從子と稱することにて、左傳にすでに其稱あれば、久しきことなり。是より後は、三國志、及び晋宋以來の史に往往に從子の稱あり。丘氏何としてか其本づく處を言ざるや。東涯翁の釋親考の一書、その考證すること甚だ縁レなり。然るに、從子のことにおいては唯丘氏の説を引てこれ等の説を取ざるは、また〳〵考索に失せるならん。それ故に、今こゝに記しぬ。
○ 長子・次子を稱して太カ・次カと云こと、安積翁の湖亭渉筆に隋(*唐カ)の創業起居註(*李淵「大唐創業起居註」)を引て具さにこれを記せり。然るに、北史を按ずるに、北齊の彭城景思王(*高の傳に、王は神武第五子也。博士韓毅見筆跡未ルヲ一レナラ、戯曰、五カ○○書畫如云云とあり。これ第五の子を以五カと稱するなり。又、北史滕穆王(*滕穆王楊の傳に、。時人號シテ楊三カ○○○とあり。此は楊忠の第三の男なる故にかく云るなり。又、北周の文宗の族宇文子慶(*宇文慶カ。)が子鼎(*宇文s)、その第三子なる故に宇文三カ○○○○と稱せるよしを云り。これ等姓に配していくばカとあれば、皇朝にて古へより源三カなどゝ稱するの本づく處なり。又、通鑑に陳臨海王(*陳伯宗)、光大元年(*567年)に太后曰、今伯宗幼弱、政事前ヌト二カ○○と。胡三省の註に、文帝居(*陳伯宗には叔父に当たる。)レリ。故シテ二カと云り。これ等によれば、六朝以來この稱呼これあるなり。安積翁たま〳〵此を考證に遺せるならん。
○ 居士の稱は、今の人只士人の佛に歸する者の稱とのみ心得たるは非なり。韓非子に、齊有居士○○田仲ナルと云り。又、禮の玉藻に、居士○○錦帶と云語あり。これ等を始とすべし。又、梁書の文苑傳・世説の棲逸篇にも居士の稱あり。皆、不仕して隱處する者を云り。其コ義ありて仕へざる稱なる故に、佛學者流これをとりて稱ふることにはなれり。是處士・居士同じきことなり。但し、北史に陸法和佛法に歸して、官太尉に至れども、ら居士と稱し、世人も亦居士を以これを稱せり。死するとき佛を禮し、繩床に坐して終れりとあり。これ佛者の居士と稱するの始とすべし。湖亭渉筆に居士のことを擧たれども審かに云ざるを以、今これを記するなり。
○ 皇朝 天子を天皇と稱することは、唐の高宗麟コ五年(*麟徳の年号は二年〔665年〕まで。)に皇帝を天皇と稱せしむるの例によるなるべし。〔此のこと、舊唐書の高宗紀に云り。〕唐はその時のみにて、其後天皇と稱することを不。 皇朝は代々天皇と稱せり。貝原氏の和事始に、~武天皇を神日本磐余彦の天皇と申し奉れば、天皇の號このときよりしてありと云るは誤りなり。舍人親王の日本紀を撰せるとき、すべらみことを天皇の文字を借て稱する者ならん。然れば、唐に稱する處をとれる者なり。其天皇と云を以稱號とするは孝謙天皇のとき、淡海御船(*淡海三船)が天子の諡號を定めしとき、唐の稱に本づきて其れの天皇と追稱し奉ることと見えたれ。然れば、はるかに後のことと知べし。〔御舩の諡號を定めしことは、釋日本紀(*卜部兼方)に見えたり。〕
○ 吾國を日本と稱すること、杜氏通典(*杜氏通典)に、倭一日本。在日邊、故以稱と云り。又、劉が舊唐書(*李にも、日本者倭國之別種ナリ也。以其國在日邊日本。或曰、倭國ルヲ一レナラ、改メテ日本と云り。新唐(*歐陽修他「新唐書」)には、日本古倭奴也とのみあり。是より前代の史には、皆倭國とのみ稱せり。然れば、日本と稱するは、吾邦の自ら名くることなり。去ながら、 皇朝の記載に何れの時より日本と稱すると云ことあるをいまだ不。但し、舍人親王の日本書紀に始て日本の字を以やまとゝ訓じ、又その書號にも用ひたり。其後、萬葉集の中にもやまとを訓ずるに日本の字をかけることもこれあり。然るに、唐の張守節が史記五帝紀の正義(*史記正義)、及び夏本紀の正義に共にいふ、武后改倭國日本國と。これによれば、中華にて名くることなり。憶ふに、張守節は玄宗の開元中の人なれば、其武后のときを去ること遠からざる故に、その説信ずべきなり。武后のとき、粟田眞人の遣唐使となりて到りしとき、武后日本と云稱號を賜ふならん。これより 皇朝にて日本と云を以國號とするか。〔日本の稱は、吾邦人の自稱なれば、眞人の時始めて彼邦人にも知れしならん。〕(*頭注)
○ 唐書の百官志に、咸亨元年(*670年)に吐蕃陷都護府。長壽二年(*693年)安西四鎭。至コ元年(*756年)に更メテ鎭西○○(*と脱)あり。 皇朝 元明天皇和銅十四年(*和銅年間は八年まで。和銅十四年は西暦721年に当たる。次注、養老四年の記事を指すか。未詳。)十二月に、始て筑紫に鎭西府を置けり。〔此こと続日本紀の元明紀に見えたり。〕(*元正天皇養老四年〔721年〕に大友旅人を征隼人持節大将軍〔征西将軍〕に任じた記事あり。)鎭西の稱、唐によるなるべし。(*年次が合わない。太宰府を鎮西府と改称したのは天平15年〔743〕から三年間の間のみ。ただし、これ以降九州地方を鎮西とも称するようになった。)
○ 皇朝中葉より佛道に歸する者を入道○○と稱せり。梁の簡文紀に景(*侯景)太子郭元建。元建曰、豈有ンヤ皇太子妃乃乎。竟相見。聽シテ使とあるを本づく處とすべし。論衡の問孔編に子路入道など云るは、道コに進むことにて、これと別なり。
○ 今の人、文に臨てその先父祖を稱して先大夫○○○と云ること、或はこれあり。檀弓の正義(*孔穎達「礼記正義」)先大夫○○○文子父祖。以其世ルヲ大夫故稱シテ父祖先大夫○○○と云へり。然れば、歴歴の官人ならでは稱すまじきことなり。
○ 今、ゥ侯の子、及び貴人の子を稱呼するにカ君○○と云、門生の師家の子を稱するも亦可なり。蜀の張嶷がゥ葛膽に與ふる書(*陳寿「三国志」蜀書王平伝)カ君○○の稱あり。これを始とすべし。又、杜子美が詩にもカ君○○玉樹高(*「題柏大兄弟山居屋壁」)と作れり。註に、古へ貴人の子、及び身甞て其父に事る者をカ君と云。藩鎭の子も亦カ君と呼べしと云り。
○ 世人、生辰を稱して華誕○○、又は誕辰○○と云るは、詩の生民のに后稷の生れたることを云ておほい(*発語の辞として「ここに」と訓むとも云う。)おへジテズル(*〔子羊〕かと云う。)とあるより云ることなり。然るに、誕の字は只發語の辭にて、生辰のことにあづからざれば、これは誤り稱するなりと黄傅言が説に云り。甚だ當れり。然るに、胡繼宗が書言故事(*書言故事大全)などにも、人の生日を稱して誕彌令日と云ひ、慶誕の類と篇目にも云てあれば、古人の稱し來ること久しふして、この類のこと多ければ、一旦に改めぬるも不可なり。姑く從ふも亦害なからん。正字通(*張自烈)誕の字の下に亦この辨説(*ママ)あり。
縣官○○の稱は秦漢に始る。專ら天子を稱するとのみ心得べからず。或は公儀と云ふなり。史記の趙高が傳に秦二世皇帝殺大臣・公子等、財物入縣官○○とあるや、漢書食貨志に仰縣官○○と、晁錯が傳に縣官○○と云る、又淮南子(*本文「准南子」)論訓に天下縣官○○法と云へるなどは、皆公儀と云こゝろなり。又、漢書京房傳に事縣官○○十餘年と、霍光傳に禹曰、縣官○○レバ我家將軍、不ルコトヲと、註に如淳曰、縣官天子と、又後漢書東平王宇(*劉宇)の傳に、縣官年少とある類は天子を指すなり。又、漢書食貨志に其在縣官○○と、又儒林傳に詔、群國縣縣官○○○とある類は、州縣の官人と云ことなり。
國是○○と云ふ、宋朝よりこれを言ふ多し。張鼎思が代醉編(*琅邪代酔編)に云國是○○二字、今人常。未ルヲ。後漢書桓譚云云と。東涯翁の秉燭談にも桓譚が傳を出處とせり。これ代醉編と同じく考證を失せるなり。劉向が新序卷二云、楚莊王問於孫叔敖曰、寡人未國是○○也。孫叔敖曰、國之有是、衆非之所也。人君或至フニ而不悟、或飢寒而不。君臣不合、國是○○遉定矣。夏桀・殷紂、不國是○○、而以其舍取(*取舍カ)、以其取舍非故、致シテルヲ而不知。莊王曰、善哉。願クハ相國與ゥ侯・士大夫國是○○とある、孫叔敖の語より始るなり。桓譚が傳に云るも、孫叔敖の説とすれども、その出る處は新序とすべきなり。
○ 禮の曲禮に、四神の旗をとけり。これ四方に列する二十八宿の名に配する者にて、所謂龍・白虎等、皆星宿の名を以いふことなり。然るに、南方の朱雀と云もの、その物たるの義を註疏家にも具さにこれを不説、古へより或は赤きすゞめと心得たるもありと見えて、國吏の高正コが傳に、齊の文宣(*文宣帝)ゆづりを受る日に、堯難當と云もの、雀を赤く染て朱雀の瑞なるとてこれを獻ぜりと云ことあり。石氏が星經(*石申「石氏星経」〔「開元占経」中〕)に、南方は赤帝、其奄ヘ朱鳥爲七宿と、王奕が説に南方の七宿、鶉首鶉尾とするは赤鳳これを鶉といふ。鳳は丹穴に生ず。鶉は又鳳の赤き者なり。故に南方の象にとると云り。これを月令(*礼記月令)に考るに、夏は其蟲窒ネり。鳳は貞ウの長なる故に、南方の宿を朱鳥とすと楊升庵云り。さあれば、雀と云るは鳳を稱することになるなり。
五伯○○(*五覇に同じ。)の稱は、左傳の成公二年に齊の國佐が語に五伯〇〇之覇也と云るを始とすべし。杜預が註に、夏伯は昆吾、商伯は大彭・豕韋しゐ、周伯は齊桓・晋文(*夏王朝の昆吾氏、殷王朝の大彭氏・豕韋氏、周王朝の斉の桓公・晋の文公。春秋五覇とは区別する。)とせり。その後、孟子に五伯〇〇者三王之罪人也と云り。趙岐が註に齊桓・晋文・秦穆・宋襄・楚莊王とせり。孟子に又、齊桓・晋文事ども云り。其後に、荀子仲尼篇に仲尼之門、五尺之竪子言、羞スルヲ五伯〇〇と。又云、齊桓五伯〇〇之盛ナル者也と。又、王覇篇に義立而王、信立而覇、故齊桓・晋文・楚莊・呉闔閭(*闔廬)・越勾踐、是所謂信立而覇タル也とあり。班固が白虎通(*白虎通義・白虎通徳論)の號篇に、あまねく五覇の説をあげり。一には昆吾氏(*本文「毘吾氏」)・大彭氏・豕韋氏・齊桓・晋文とせり。杜預これによれり。一には齊桓・晋文・秦穆・楚莊・呉闔閭とせり。これは荀子に本づいて勾踐を除て秦穆を加へり。一には齊桓・晋文・秦穆・宋襄・楚莊とせり。應劭が風俗通(*風俗通義)にも五覇を説てこの説に同じ。趙岐はこれに從ふなり。大抵五覇の説これ等に過ぎざるなり。然るに、齊桓・晋文は孔孟もこれを稱し、左傳等にも其功業を記すれば、覇と云べきこと明白なり。其外は覇とすべき明證もあらざれば、古人姑らく五人の數に合せて言るなり。但し、荀子に云るところは、其書の古ければ據とすべけれども、國佐が五覇を云るは、闔閭・勾踐より先なれば其數に入がたきことなり。それ故に、杜預は昆吾氏等を加る説に從へり。明の何孟春・楊升庵の二子は、齊桓・晋文は覇と云べけれども、宋襄・楚莊等は覇と云べきことに非ずとてこれを五覇に入るの非を辨論せり。〔何氏の説は餘冬序録に見えたり。楊氏の説は其文集の中にある二伯論にこれを云り。〕然あれば、五伯の説、齊桓・晋文の外は明白に决して誰々と指し定めがたきものと知べきなり。
三老五更〇〇〇〇の稱は、樂記(*礼記楽記)に武王克三老五更〇〇〇〇於大學とあるを始めとす。鄭康成の説に、三老五更各一人、皆年老者也。名クルニスル三五、取三辰五星(*日月星と金木水火土星)と。〔此は文王世子の註に云り。〕又云く、三老五更皆老人、更三コ五事者也と。〔此は樂記の註に云り。〕後漢書の禮儀志に三老五更の老を養ふ禮あり。應劭等の説に、其コ行ありて年高き者一人を老とす。次の一人を更とす。三老は道於天地人、五更は訓於五品と云り。之等の説、皆その三五の字をとける、附會せるに似て穩ならず。但し、陳祥道の禮書に郷飮酒必立三賓、而養フニ必立三老。禮曰、三公在三老在、三公非レバ一人、則三老五更亦非一人矣と云り。此説切當せり。後に孔安國の孝經傳を見るに、三老五更を説て曰く、三老者國之舊コ賢俊、而老所道誼三人焉。五更〇〇者國之臣更古事博物多識、所道訓五人焉と。此とき得て□(*本文一字欠。詳又は審カ)かなり。此書僞作なりと云ども、陳祥道に先だてば、尤も據りてトルべきなり。さて更の字、魏志の註に蔡(*本文「察」)が明堂論(*明堂月令論〔蔡中郎集所収〕)を引て更應。叟は長老の稱也。字相似て書する者誤て更とす。嫂の字、女傍の叟、今亦以爲■{女/更}と云り。又、蔡獨斷(*本文「察獨斷」)にも五叟に作るべしと云り。五叟とする説も亦當れるならん。
○ 漢書惠帝紀の註に、荀悦曰、諱盈、之字曰滿。師古曰、臣下以滿レバナル、則知諱盈ナルヲ也。他皆類と。宣帝紀の註に、漢紀を引て曰、諱詢、字次卿。詢、之字と。成帝紀の註にも亦この例に云り。按ずるに、容齋隨筆に、之臣下所以相代也。蓋之字訓。陳侯使。遇クニ一レ否、謂六四變ジテ而爲一レ也と云り。又、示兒編に、之字訓。謂諱臣下所ジテ以相代ルヲ也。謂ジテ以代ルヲ上レ也。(*漢代に劉邦の諱を避けて〔避諱〕邦を國と言い替えたことを指す。)左傳(*荘公二十二年に陳詞の公子完が斉に亡命した故事。)クニ一レ、謂觀變ジテ上レ(*観卦が否卦に「之く」、変わる意。観卦が「本卦」で、否卦が「之卦」になる。公子完の運勢を史官が卜した語。)也。今以盈之・恒之名、以滿・常非也と云り。これ容齋に本づいて殊にこれを詳かにするなり。周密が癸辛雜識にも、當世避メテ變也。如變爻一レ也と云てこのことをとけり。湖亭渉筆に盈之等を名とせる焦氏筆乘の誤りを辨じて、ゆくと云を以、之の字を訓ぜしなれども、これ等の説をアゲざるはたま〳〵考索に遺せるならん。
三王〇〇と云は、禹・湯・文・武をすべて云こととするは非なり。但、孟子離婁下に周公思三王〇〇以施ンコトヲ四事と。趙岐の註に三王三代之王也。四事禹湯文武所之事也と。孫の疏に三王禹湯文武之三代王也と。云く、文武は周の一代の始王なる故に、一王に統れども、文王は命を受て天子とならざれば、禹湯と同じく稱しがたきことなり。然るに、孟子は上の文に禹湯文武のことを云て、これを受て三王とある故に文王も數に入れざること不なり。應劭の風俗通に夏禹・殷湯・周武王、是三王〇〇ナリ也と云る、此正説なり。さて又、文王は殷に服事し、尚臣屬なるを以三王に列せられぬ義を云り。當れり。又、鄒陽が梁王に上る書に三王〇〇比也とある、文選の翰(*五臣註の李周翰か。)が註に三王禹湯武也と、又左傳成公二年に四王〇〇之王タルヤ也と、杜預が註に禹湯文武也と云り。唐文粋に載す李が帝王所、使メバ黄帝・堯・舜ヲシテ三王〇〇之天下、則亦必爲禹湯武王之所一レ矣と。これ等皆よるべきなり。
○ 楊子法言に、人の性に善惡あることを云るを以、性善惡の説皆楊子を始めとせり。然るに、周の人に世碩と云ものありて、人の性に善あり惡あり。善性を擧てこれを養へば善長ず、惡性を擧てこれを養へば惡長ず、と云けるよし、王充が論衡本性篇に見えたり。これ全く楊子の旨と同じ。その書は世子(*馬国翰「玉函山房輯佚書」巻六四〔八八冊目〕所収)と云ふ。子類なり。漢の藝文志儒家の類にありて、七十子の弟子とせり。
○ 唐虞三代以來、創業の主皆その興る處の國、或はキする處の地名より天下の國號とせり。只、元の太祖は易の辭に由て國號を大元と稱し、明の太祖も始めは呉を以國を建たれども、それを改て大明と號せり。これに由て、國地より號を定めぬは元・明のみとするは考へざることなり。六朝齊の太祖(*蕭道成)、宋のとき梁公に封ぜられけれども、讓りを受て後に讖書(*予言書)の金刀利刃齊と云語(*金刀は劉、刈は剪に通じ、劉姓の宋朝に取って代わる意があるという。)にとりて、國を齊と號しけるよし、蕭子顯が齊書(*南斉書)崔祖思が傳に見えたり。然れば、南齊を始とすべし。
○ 人のよく酒を飮を上戸〇〇と云、不下戸〇〇と云。江次第(*江家次第)に、よく飮を高戸〇〇とあり。公事根源に上戸〇〇と云り。何孟春の餘冬序録に、よく飮を大戸〇〇とし、飮こと不小戸〇〇とすと云て、唐宋酒令、詩話にこれを言こと多しといひ、又、呉志を引て、孫皓が饗宴に人以七升小戸〇〇たちどこロニ澆灌シテスコトヲとあれば、三國以前に此品目ありと云り。又、白氏文集に猶嫌小戸〇〇長先醉と云句あり、註に飮こと多大戸〇〇とし、少き者を小戸〇〇とすと。又、五代史に朱全忠飮シム葛從周。辭スルニナルヲとあり。然れば、飮こと不小量〇〇とし、よく飮を大量〇〇と云も亦可なり。又、宋文章志(*沈約。佚書)に以上頓〇〇と云ことあり。然れば、不飮を下頓〇〇と云るも亦可なり。
○ 宋書の孝義傳に籍年〇〇實年〇〇と云ことあり。籍年は公儀ムキの書出の年を云、實年はまことの生年を云なり。趙宋のとき、士大夫の少年なる子の早く仕官せんことを欲すれば、其年をuし、布衣の士擧に應ずれば歳數をず。故に實年〇〇官年〇〇と云ことあり、と容齋二筆・代醉編(*琅邪代酔編)等に記せり。この風、六朝よりこれあれば、中華にも既に久しきよりこれ有ことなり。
杜撰〇〇と云こと、野客叢書に杜黙と云もの詩を作るに、多くは律に叶はざる故に、事の格に合ざる者を杜撰〇〇とすと云り。又、驚座新書(*王兆雲)白醉瑣言(*王兆雲)、五代の廣成先生杜光庭は、多く神仙家の書を著す。悉く誣罔に出でぬ。故に、人の妄言する者を謂て杜撰〇〇と云となり。意ふに、後説勝れるに似たり。
○ 凡事の麁末にして整らぬことを胡亂〇〇と云。宋儒の語録にも往往にこの語あり。劉氏鴻書(*劉仲達)に書記洞詮(*梅鼎祚)を引て云く、五胡華を亂るとき、漢人の兵を避る者、凡事皆倉卒になして不完備スルコトを相率て胡亂〇〇と云となり。
○ 凡らいふには名を稱し、人を呼ぶには字を稱することは、名は字より重き故にこれを貶して自ら呼。字は賤き故に人を呼にはその名の重き者を避て字を云なり。此こと杜預が春秋釋例にこれを説り。隱公元年の正義に引り。
○ 今人の古實に達せる者を有職者〇〇○と稱す。或はその官職の職より誤りて、職原抄に奄オきを有職者と心得たるあり。大に非なり。職の字、もと識の字なるを誤て職の字に作れるなり。是有識者〇〇○と云ことなり。其本づく處は、漢書魏相傳に有識者〇〇○シテ可と云や、又劉向傳に有識〇〇之士、詠其美と云るなど是なり。皆學術智識ある者を云ことなれば、これより轉じて事實に通ぜし者を稱するもそむかぬことなり。
○ 鎌倉以來、政務をとり行ふ臣を稱して執權職〇〇○と云、其文字は晋書に長沙王於洛とあるを出處とすべし。
○ 世俗に鬼靈を幽靈〇〇といふこと、文撰(*ママ)謝惠連が古塚を祭る文に幽靈〇〇髣髴と云るより來れり。
○ 古より鬼物の祟りあるを物のけ〇〇○と云て、古き物語などに見えたり。これ本づく所あり。史記齊悼惠王の世家に舍人怪以爲シテ而伺とあり。註・索隱に曰、物恠物也と。又、漢書郊祀志に李少君能使と、註に物鬼物也と。
○ 凡その才藝のすぐれたる者を稱して堪能〇〇と云り。宋書明帝紀に其文武堪能〇〇、隨銓用とあり。これ等の語より來るなるべし。
確執〇〇の字、唐書李密が傳に出たり。有確執〇〇とあり。此は李密を山東へやることを群臣の中によろしからずとて堅く止むるを云なり。確執は堅く了簡をすえて(*ママ)、然らば意次第とゆるさぬことなり。それ故に、三代實録などにも大法師位義濟確執〇〇シテ曰などあるもそのこゝろなり。然るに、後來は誤り來りて、人のげきありて意の合ざるを確執と心得たり。非なり。
○ 無と云詞は、戰國のときより古人往々にこれを云り。其義、陶九成(*陶宗儀)が輟耕録卷の四に具さにゥ説をあげたり。考ふべし。
○ 宋儒の道理を談ずるに、毎毎の字を以これを云るを、或人の説に、道の字は行路の流行往來せるごとく、人倫・日用の離るべからざるものにて、道の字は以言活字也。理の字は本玉石の文理を云て事物の條理を形容すべけれども、天地生生の妙を形容するに不。理の字、以スル死字也。聖人は道の字を以言て、理の字に及ぶものまれなり。莊子々理の字を云り。後儒と云り。然るに、獨り莊子のみにあらず。古書に道理といひ、天理といひ、只理と云るなど、多これあり。皆道と云べき處に理の字をも用ひたり。大抵道と云も理と云も、皆天地の間人倫・日用、萬事・萬物の自然なりにすぢみちありてかへられず、ヤマれず、かくのごとくありて行はれゆく者をさして、姑くこの字を借てこれを形容するものなり。理の字すでに事物のそれ〴〵の條理を形容するなれば、天地生生の妙もこれに就て外ならざれば、何ぞ形容するにたらずとせんや。且道の字・理の字、畢竟死活を以云べきことに非ず。さて宋儒の專ら理の字にて云るは、道のそれ〴〵に條理ある所を艶リにサトさんとて然せるならん。古マレに言こと、後の人々言こと、これのみに非ず。其意を得れば何ぞ害あらん。其古書に多く云とするは、易の繋辭傳に窮理〇〇と、孟子に理義〇〇と、荀子修身篇に其行道理〇〇也勇と、韓詩外傳に倚天理〇〇人情と、樂記に天理〇〇と、戰國策に不道理〇〇と、呂氏春秋にも々これを云り。其離俗覽に世之所理義〇〇也と、勸學篇に不義理〇〇、生於不學と、愼行篇に有ラバ不利之利、則可一レ矣と、高誘が註に理道也と、察俗篇に其於也、必驗ムルニと、註に道理也と、侶順篇にコ行(*圏点ママ。以下同)、懷寵篇に必、然後と、淮南子(*本文「准南子」)の本經訓に不と、註に道理也と、又主術訓に動靜と、人有困窮と、不道理〇〇之數と、齊俗訓に非ムルニ道理〇〇と、説林訓に其理〇〇と、註に理道と、詮言訓に之理〇〇と、又漢書董仲舒傳に樂と、又云スル之理〇〇與と、衛傳に逆天理〇〇人倫と、杜傳に所行無と、又王充論衡に失道理〇〇之實と、又文選王子淵洞簫賦に誠義理〇〇と、又王僧達の詩に〇〇亦道心と、註に濟曰、於之理と云り。この外猶多し。今たま〳〵記する處を以こゝに示すなり。豈後儒のみこれを云とせんや。
○ 蓋の字、大抵發語の辭にて、疑ひを含て决せず、或は謙して云ときに用ゆるなり。詩の小雅黍苗篇の正義(*孔穎達「毛詩正義」)に云く、蓋者疑辭、亦爲發端。孝經ゥ言、皆示ルヲ專决。禮禮器云、蓋道而未也。檀弓云、蓋有ント而厚スル。是發端也。黍苗、詩人指シテ而述。非ルニ疑事、在末句シテ發端、而其上歴四時。故となり。又檀弓の正義に、蓋者意有謙退、不。事雖疑、亦云也と云り。又孝經第二章の御註(*唐玄宗「御注孝経」)に蓋也と、モが疏に按ズルニ孔傳云、蓋辜較こかう(*大略・一絡げ)之辭、劉R云、辜較也。劉云、蓋者不之辭と云り。これ等の字義、字書に審かにこれを述ざるを以、これを擧て初學の士に示すなり。さて蓋の字をけだしと訓ずること、或人の説に氣だしと云ことにて、氣の出ると云こゝろを以發語の訓と云るなれども、そのヨリ處を知らず。附會ならん。いかなる詞とは知れねども、發端に言ことなればこそ、この蓋の字を訓ぜしなれ。萬葉集の中の歌に、往往にけだしと云詞ありて蓋の字を用ひたり。然れば、久しき訓なりと知べきなり。
○ 一二三四等の數目の字、茂密なる壹貳參肆等の字(*大字)を書すること、明の陸容が菽園雜記に云く、明の始め刑部尚書開濟に始まると傳へ云ども、宋の邊實が崑山志にこれあり。錢穀の數を書するに、本字を用ゆれば、姦人ために改めかふる故に、これにかへて防ぐとなり。正字通、捌字の下には秦に起ると云り。老學庵筆記に壹貳參肆伍陸漆捌玖拾の字、皆書にこれありて、參は正三の字、■{人偏+(七/木)}(*カ)の字は晋・唐書に或作と云り。又容齋五筆に孟子に市價不ニセ、趙岐(*趙註孟子)に無ニスル也と。本文大貳、註に小二の字を用ゆれば二貳通用する者なりと云り。又儀禮經傳通解(*朱熹)の鍾律篇に此篇凡數皆令式に準じ、大字を借用ると云り。これ等の説によれば、其用ひ來ること久ふして、唐宋の比よりは盛りに借用ることと見えたり。 皇朝の大寳令に數目を書するに、皆茂密の字を用ゆれば、これ唐令による者ならん。さて五筆通解(*未詳)にて看れば、畫多き字を大字とし畫少き字を小字とすることなり。又方密之(*方以智)も壹貳等の字の證を擧てこれを説り。通雅(*方密之)四十卷算數の篇に見えたり。
道體〇〇の字、宋儒の言出せる者と或人云り。程子の語に道體の説ありて、近思録にも道體の篇目あり。然るに、六經にこの二字所見なし。按ずるに、淮南子詮言訓云く、無爲之體〇〇也と。又人間訓に或明ニシテ於禮義、推道體〇〇と云るなど本づく所とすべし。
○ 朱子、論語の天を言ふを註して也と説るを、宋儒の始めてかく釋せることとなして議せる人あり。凡天とさして古書に云は、彼の蒼蒼たる處を指にはあらで、道理の妙用を存在してある所よりこれを云ことなる故に、天は道の自然に、條理のしかある本體に就て理也とは云り。此本づく處あり。淮南子原道訓聖人ミダ一レと云語あり。高誘が註に也と。
五常〇〇と云こと、列子楊朱編に人懷五常〇〇之性と云を始とす。然るに、その名目を不この後荀子非相篇に案徃舊造、謂之五行とありて、楊wが註に五行五常、仁義禮智信是也と。又樂記に五常之行と、鄭玄が註に五常五行也と、孔穎達が疏に五常之行仁、金義、火禮、水知、土也と。これ五常・五行を仁義禮智信とするなり。其よる處は、漢書董仲舒が傳に仁義禮智信〇〇〇〇○五常〇〇之道〇〇と云る、これを始とす。又王尊が傳に五常九コと云ひ、又陸賈新語にも人道五常〇〇と云る、皆仁義禮智信を指すなり。その後、班固が白虎通等に詳かにこれを説り。然れば、其名目を述るは董仲舒とすべきなり。或人班固を始めとせるは、大に考證を失せることなり。
○ 朱子文質の義を説て夏尚、商尚、周尚〔論語の註に〕。語類等に忠質文のこと漢儒に始ると云り。按ずるに、史記の貨殖傳に夏人政尚と、漢書杜欽傳に殷、周因於殷と、又董仲舒が傳には忠敬文と云り。白虎通にも、三代のことを忠敬文を以これを詳かにとけり。これ等宋儒のよる處なり。
○ 習鑿齒が語に性理〇〇と云り。世説に見えたり。性理の字、これ等を始めとすべし。
○ 理窟の字は、世説の巧藝篇に張憑勃(*緩慢、ゆっくり)トシテスト理窟〇〇とあり。これを本づく所とすべし。
詔獄〇〇の語、漢書文帝紀・武帝紀等に出たり。師古が註に解なし。通鑑の胡三省の註に漢時左右キ司空・上林中キ官皆有詔獄〇〇。蓋奉さだ(*取り調べる・糺す。鞠断。)、因以爲と、又成帝紀の註に凡詔シテスル、皆爲詔獄と云り。この説にてよく通ぜり。
○ 書の盤庚の孔傳に〇〇の語あり。孔穎達の疏に木括必是舊語、不ルヲレノと云り。さて〳〵考索を失することなり。荀子性惡篇に〇〇烝矯、然シテと、註に曲木之木也と、又大畧篇に示〇〇と、又宥座篇に〇〇之側枉木と、又淮南子修務訓に其曲中ルハ〇〇之力ラナリと、又韓非子難勢篇に夫〇〇之法と、又鹽鉄論十二に若〇〇輔檠之正スガ弧刺也と、註にムル者也、括者也と、又云是猶シテ〇〇斧斤、欲スルセント上レ也と。これ等にて看れば、まがれる者をためてすぐになし、正せる器(*道具)なり。
○ 晋書陶侃が傳に何有ンヤ亂頭養望〇〇自謂コト弘達耶と云語あり。小學外篇にこれをとる。その養望〇〇の詞詳かならず。小學の註に呉氏曰、養望其虚望也と、淺見翁(*浅見絅斎)の説に待於人の義なりと、皆的切ならず。按ずるに、北史魏収傳に不於邱壑、不於城市と云る詞あり。然れば、養望の二字は六朝のときの語と見えたり。これに照して觀れば、望は意望のこゝろ、養はそだておくの義にて、安じおる(*ママ)こと(*虚名を当て込むこと。)なり。今こゝに云るは、亂頭を以修飾せざるを當然となして、これに安じ居てその意に任せおくと云ことならん。宋元通鑑仁宗紀に張昇對曰、今陛下之臣、持祿者多フシテ、而赤心謀者少とあり。これ等その字を用ゆるこゝろ照し看るべし。
をまいる(*ママ)と訓じてイタることに用ゆるは、もと朝廷へイタる朝參より來る。通鑑に陳文帝永元三年北齊高歸彦至明ゼントとあり。此參の一字を用ゐて(*原文「用ゆて」)據ろあり(*原文「據ろはり」)。胡三省が註に參朝參也、毛晃曰參也、趨承也と。
贔負〇〇(*原文ルビ「ヒキ」。さらに圏点を付す。)と云語、張平子が西京賦に巨靈贔負〇〇と云るを出處とすべし。註に粽曰、巨靈河~也、贔負(*脱カ)力之貌也と。今世俗に云る所、この義に近し。
○ 東鑑・太平記などの書に、あはてさはぐことを毎毎周章〇〇とかけり。この語は文選王文考が魯の靈光殿賦に東西周章〇〇と云るを本とすべし(*他に左思「呉都賦」に見えると云う)。註に翰曰、周章驚視也と。
舌耕〇〇の字は後漢書の賈逵が傳に出たり。筆耕〇〇の字は梁書の王僧孺が傳に出たり。
○ 人に銘誌などを請ひ、凡てその手跡を求めてかゝさしむる(*ママ)に、あらかじめ謝物を贈るを潤筆〇〇と云。この語、北史の鄭譯が傳を始めとすべし。容齋二筆(*洪邁)に詳かに潤筆せしことを云り。
○ 本錢を出して利入をハカるを俗語に放債〇〇と云と容齋五筆に記せり。
○ 文章の中大疵謬の處をば、はじめよりおはりに至るまで大朱筆にて横にこれを抹するを紅勒帛判〇〇〇〇と云よし、夢溪筆談(*沈括)に見えたり。
○ 朱子太極圖説の後論に此之所以有一レ之所以有一レ也と云語あり。此れ王弼が周易畧例に出たり。其明彖スル、故シテ而不、衆シテ而不と、唐(*原文「唐」)が註に統スルニ宗主、會スルヲ元首と云り。
と云語(*よからぬものがはびこらぬうちに芽を摘む意)、司馬光(*原文「司馬公」)の書儀に云て、朱子小學の書にその語を取れり。この文字は宋書の呉喜が傳に出たり。始めとすべし。
○ 今文字のかき誤るを魯魚(*原文圏点ナシ)の誤りと云。その本づく所は、諺云、書三寫スレバ魚成帝成と芥隱筆記(*頤正。説郛所収。原文「艾隱筆記」)に見えたり。又字經レバ三寫、烏焉成と云語、横浦文集(*張九成「横浦(先生文)集」。欽定四庫全書集部四所収。)に出たり。(*魯魚烏焉の語源。)
名ヘ〇〇の字、晋宋の人よりこれを言ること多し。後漢の李元禮(*李膺)天下名ヘ〇〇是非ントと云を始めとすべし。〔この語、本傳(*後漢書党錮列伝)にはこれなし。世説のコ行篇にあり。〕(*割注)
○ 今紙を云にばんが大きなの小いなのと云は、番の字なり。通雅に紙と云り。又張華が博物志を引て云く、賜側理紙(*水苔で作った紙)萬番〇〇集賢院學士、大府供五千番〇〇○と、又云く紙謂其可一レと、又唐の蕭穎士少フシテ古人授クト百番〇〇と云こともあり。〔堯山堂外記(*一葵)に載せり。〕これによれば、一枚と云を一番と云て可なり。
○ 唐の李義山(*李商隠)が雜纂と云書あり。其書に必不ルハ 醉客逃 客作 不ルハ相稱 病メル醫人 肥大新婦、などゝ皆その趣きのことを以ならべ云て一滑稽なる者なり。C少納言の枕草紙にすさまじきもの ひるほゆる犬 春のあじろ 人にあなづらるゝ物 家のきたおもて としをいたるをきなゝど云る、文體は皆雑纂を摸寫したるものなり。大抵前人のする處、祖述せること多きなり。
乃止〇〇と云辭、人の知れることにて、其出處は韓詩外傳に子貢曰、君子亦有スルコト乎、孔子曰云云、故而不乃止〇〇と、又晋の劉毅が語にも事方〇〇と云り。又杜子美が贈詩に丈夫葢〇〇○事始〇〇、君今幸老翁と、又赴奉先縣詠懷の詩に事則已〇〇○、此志常覬豁(*実現することを願う意)と云り。又韓退之が同冠峽の詩にも事乃了〇〇○と云り。これ等にて看れば、古人々言る詞なり。其意は人生のありさまは死期をめあてにすることにて、身を修め學を勤むるも死ぬるまでなり。その榮辱禍b煬繧ノはいかゞなりゆかんもはかられねば、何事も死する後ならでは知れぬことなるに由て、棺にふたをしてより一生涯のことがすむと云義なり。誠に然り。
(*もとづいて)と云こと、刑を論ずる要となして古人これを云り。鹽鐵論刑法篇に春秋之治ムル、論ジテ、志善ニシテ而違者免、志惡フシテ而合於法者誅とあり。又漢書王嘉傳にも聖人斷ズル、必先、探と云り。
好事不〇〇○惡事傳〇〇○千里〇〇と云語、世俗の云ひもてはやす辭にて、よくも〳〵言得たるなり。何孟春の餘冬序録に、諺曰と云てこの語を述たれば、時俗の云ることにて出處はなきなり。又コト三年〇〇者少〇〇スコト一日〇〇於天下〇〇○と云語、古人の詞となして晋書宣帝紀の論に引けり。これ亦此のこゝろなり。
窮鼠齧〇〇○と云語、俗間の云ることなり。鹽鐵論十一卷刑法篇に出たり。
○ 俗にと云ことあり。これ荀子非相篇に云り。
燈欲〇〇ントと云こと、俗間にこれを云り。藝文類聚に載す(*ママ)梁の紀少瑜が詩に殘燈猶、將シテントと云り。堯山堂外記(*原文「堯山堂外紀」)には陳(*ママ)沈滿願(*「沈滿願殘燈詩云、殘燈猶未滅、將盡更揚輝。」)とせり。この詩などより言るならん。
狂言綺語〇〇〇〇と云辭は、白樂天が香山寺白氏洛中集記(*香山寺蔵「白氏洛中集」記の意。)に願クハ今生世俗文字之叢、狂言綺語〇〇〇〇之過、轉ジテント將來世世讚佛乘之因・轉法輪之縁と云り。陳后山集(*陳師道「陳后山詩集(后山集)」)に別圓澄禪師詩に多生綺語〇〇と云り。註に白氏の此の語を引てさて云るは、釋氏書の綺語は蓋口中四業之一、謂綺節文詞過ルヲ増華也となり。
堅白同異〇〇〇〇のこと、史記荀卿が傳の註にとけるは明白ならず、通じがたし。荀子修身篇の楊wが註に云る處、とき得て詳悉なり。看るに好し。
郢書燕説〇〇〇〇と云こと、韓非子十一卷外儲説の篇に具さにこれを言り。考へ看るべし。
○ 男女交合のことを人道〇〇と云。詩の大雅生民の毛傳に云り。孔穎達の疏に人道人交接之道とせり。これ古言と云べし。
○ 極めて笑ふにたへかぬるを捧腹(*原文圏点ナシ)と云。この文字日者傳(*史記の卜占家伝)に出たり。


講習餘筆 卷之四


○ 解題(内藤耻叟) 講習餘筆序(伊奈忠賢) 自序 目録   巻1   巻2   巻3   巻4
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