講習餘筆 卷之四
藤原明遠(中村蘭林)
(『少年必讀 日本文庫』第六編 博文館 1891.11.24)
※ 原文漢字カタカナ交じり文。(*入力者注記)
○ 解題(内藤耻叟)
講習餘筆序(伊奈忠賢)
自序
目録
巻1
巻2
巻3
巻4
講習餘筆卷之四
○ 爾雅に親族の稱呼を記すること詳かにして、獨り兄弟の子に稱なし。女子謂テ二昆弟之子ヲ一爲レ姪トとあるによりて、古人往往に兄弟の子をも同く姪と稱せり。丘瓊山(*丘濬)の大學衍義補に云るは、一槩
ニ以レ姪ヲ稱スレバ、則是男女無シレ別矣。古謂テ二同祖兄弟ヲ一爲二從兄弟ト一、謂テ二母之姉妹ヲ一爲レバ二從母一、則當ニシ下稱スル二從子ト一爲ス上レ是トとなり。(*甥が従子、姪はメイ。)此説當れり。然るに、この稱、丘氏に始るに非ず。按ずるに、左傳襄公二十八年に、衛の石惡出二奔晋ニ一、衛人立テ二其從子圃ヲ一、以定ム二石氏ノ之祀ヲ一。禮也、とあり、此の註に杜預・林堯叟、共に從子の義をとかず。但し襄公十五年の杜註に、子馮ハ叔敖ガ從子と云て、孔穎達が疏に馮ハ是艾獵ガ之子ナレバ、則馮ハ是叔敖ガ兄ノ之子也と云へば、分明に兄弟の子を指て從子と稱することにて、左傳にすでに其稱あれば、久しきことなり。是より後は、三國志、及び晋宋以來の史に往往に從子の稱あり。丘氏何としてか其本づく處を言ハざるや。東涯翁の釋親考の一書、その考證すること甚だ縁レなり。然るに、從子のことにおいては唯丘氏の説を引てこれ等の説を取ラざるは、また〳〵考索に失せるならん。それ故に、今こゝに記しぬ。
○ 長子・次子を稱して太カ・次カと云こと、安積翁の湖亭渉筆に隋(*唐カ)の創業起居註(*李淵「大唐創業起居註」)を引て具さにこれを記せり。然るに、北史を按ずるに、北齊の彭城景思王(*高浟)の傳に、王浟は神武第五ノ子也。博士韓毅見二浟ガ筆跡未ルヲ一レ工ナラ、戯テ曰、五カ書畫如レ此ノ云云とあり。これ第五の子を以五カと稱するなり。又、北史滕穆王璨(*滕穆王楊璨)の傳に、璨好レ書ヲ愛スレ士ヲ。時ノ人號シテ曰二楊三カト一とあり。此レ璨は楊忠の第三の男なる故にかく云るなり。又、北周の文宗の族宇文子慶(*宇文慶カ。)が子鼎(*宇文s)、その第三子なる故に宇文三カと稱せるよしを云り。これ等姓に配して幾クカとあれば、皇朝にて古へより源三カなどゝ稱するの本づく處なり。又、通鑑に陳臨海王(*陳伯宗)、光大元年(*567年)に太后曰ク、今伯宗幼弱、政事前ニ委ヌト二二カニ一と。胡三省の註に、文帝居リレ長ニ頊(*陳伯宗には叔父に当たる。)居レリレ次ニ。故ニ稱シテ爲ス二二カト一と云り。これ等によれば、六朝以來この稱呼これあるなり。安積翁たま〳〵此を考證に遺せるならん。
○ 居士の稱は、今の人只士人の佛に歸する者の稱とのみ心得たるは非なり。韓非子に、齊有二居士田仲ナル者一と云り。又、禮の玉藻に、居士錦帶と云語あり。これ等を始とすべし。又、梁書の文苑傳・世説の棲逸篇にも居士の稱あり。皆、不レ仕して隱處する者を云り。其コ義ありて仕へざる稱なる故に、佛學者流これをとりて稱ふることにはなれり。是レ處士・居士同じきことなり。但し、北史に陸法和佛法に歸して、官太尉に至れども、自ら居士と稱し、世人も亦居士を以これを稱せり。死するとき佛を禮し、繩床に坐して終れりとあり。これ佛者の居士と稱するの始とすべし。湖亭渉筆に居士のことを擧ゲたれども審かに云ざるを以、今これを記するなり。
○ 皇朝 天子を天皇と稱することは、唐の高宗麟コ五年(*麟徳の年号は二年〔665年〕まで。)に皇帝を天皇と稱せしむるの例によるなるべし。〔此のこと、舊唐書の高宗紀に云り。〕唐はその時のみにて、其後天皇と稱することを不レ聞カ。 皇朝は代々天皇と稱せり。貝原氏の和事始に、~武天皇を神日本磐余彦の天皇と申し奉れば、天皇の號このときよりしてありと云るは誤りなり。舍人親王の日本紀を撰せるとき、すべらみことを天皇の文字を借て稱する者ならん。然れば、唐に稱する處をとれる者なり。其天皇と云を以稱號とするは孝謙天皇のとき、淡海御船(*淡海三船)が天子の諡號を定めしとき、唐の稱に本づきて其れの天皇と追稱し奉ることと見えたれ。然れば、はるかに後のことと知ルべし。〔御舩の諡號を定めしことは、釋日本紀(*卜部兼方)に見えたり。〕
○ 吾ガ國を日本と稱すること、杜氏ガ通典(*杜氏通典)に、倭一ニ名ク二日本ト一。在リ二日邊ニ一、故ニ以稱スレ之ヲと云り。又、劉昫が舊唐書(*李翺)にも、日本ハ者倭國ノ之別種ナリ也。以三其國在ヲ二日邊ニ一故ニ以二日本ヲ一爲スレ名ト。或ハ曰、倭國自ラ惡テ二其ノ名ノ不ルヲ一レ雅ナラ、改メテ爲ス二日本ト一と云り。新唐(*歐陽修他「新唐書」)には、日本古倭奴也とのみあり。是より前代の史には、皆倭國とのみ稱せり。然れば、日本と稱するは、吾ガ邦の自ら名くることなり。去リながら、 皇朝の記載に何れの時より日本と稱すると云ことあるをいまだ不レ聞カ。但し、舍人親王の日本書紀に始て日本の字を以やまとゝ訓じ、又その書號にも用ひたり。其後、萬葉集の中にもやまとを訓ずるに日本の字をかけることもこれあり。然るに、唐の張守節が史記五帝紀の正義(*史記正義)、及び夏本紀の正義に共にいふ、武后改テ二倭國ヲ一爲ス二日本國ト一と。これによれば、中華にて名くることなり。憶ふに、張守節は玄宗の開元中の人なれば、其武后のときを去ること遠からざる故に、その説信ずべきなり。武后のとき、粟田ノ眞人の遣唐使となりて到りしとき、武后日本と云稱號を賜ふならん。これより 皇朝にて日本と云を以國號とするか。〔日本の稱は、吾邦人の自稱なれば、眞人の時始めて彼邦人にも知れしならん。〕(*頭注)
○ 唐書の百官志に、咸亨元年(*670年)に吐蕃陷ル二都護府ヲ一。長壽二年(*693年)收メ二復ス安西ノ四鎭ヲ一。至コ元年(*756年)に更メテ名ク二鎭西ト一(*と脱)あり。 皇朝 元明天皇和銅十四年(*和銅年間は八年まで。和銅十四年は西暦721年に当たる。次注、養老四年の記事を指すか。未詳。)十二月に、始て筑紫に鎭西府を置けり。〔此こと続日本紀の元明紀に見えたり。〕(*元正天皇養老四年〔721年〕に大友旅人を征隼人持節大将軍〔征西将軍〕に任じた記事あり。)鎭西の稱、唐によるなるべし。(*年次が合わない。太宰府を鎮西府と改称したのは天平15年〔743〕から三年間の間のみ。ただし、これ以降九州地方を鎮西とも称するようになった。)
○ 皇朝中葉より佛道に歸する者を入道と稱せり。梁の簡文紀に景(*侯景)以二太子ノ妃ヲ一賜二郭元建ニ一。元建曰、豈有ンヤ三皇太子ノ妃乃チ爲ル二人ノ妾ト一乎。竟ニ不二與ニ相見一。聽シテ使ムレ入レ道ニとあるを本づく處とすべし。論衡の問孔編に子路入ルレ道など云るは、道コに進むことにて、これと別なり。
○ 今の人、文に臨てその先父祖を稱して先大夫と云ること、或はこれあり。檀弓の正義(*孔穎達「礼記正義」)に先大夫ハ謂二文子ガ父祖ヲ一。以三其世〻爲ルヲ二大夫一故稱シテ二父祖ヲ一謂フ二先大夫ト一と云へり。然れば、歴歴の官人ならでは稱すまじきことなり。
○ 今、ゥ侯の子、及び貴人の子を稱呼するにカ君と云、門生の師家の子を稱するも亦可なり。蜀の張嶷がゥ葛膽に與ふる書(*陳寿「三国志」蜀書王平伝)にカ君の稱あり。これを始とすべし。又、杜子美が詩にもカ君玉樹高シ(*「題柏大兄弟山居屋壁」)と作れり。註に、古へ貴人の子、及び身甞て其父に事る者をカ君と云。藩鎭の子も亦カ君と呼ブべしと云り。
○ 世人、生辰を稱して華誕、又は誕辰と云るは、詩の生民の萹に后稷の生れたることを云て誕ニ(*発語の辞として「ここに」と訓むとも云う。)彌テ二厥ノ月ヲ一先ジテ生ズル如シレ達(*羍〔子羊〕かと云う。)ノとあるより云ることなり。然るに、誕の字は只發語の辭にて、生辰のことにあづからざれば、これは誤り稱するなりと黄傅言が説に云り。甚だ當れり。然るに、胡繼宗が書言故事(*書言故事大全)などにも、人の生日を稱して誕彌ノ令日と云ひ、慶誕の類と篇目にも云てあれば、古人の稱し來ること久しふして、この類のこと多ければ、一旦に改めぬるも不可なり。姑く從ふも亦害なからん。正字通(*張自烈)誕の字の下に亦この辨説(*ママ)あり。
○ 縣官の稱は秦漢に始る。專ら天子を稱するとのみ心得べからず。或は公儀と云ふなり。史記の趙高が傳に秦二世皇帝殺シ二大臣・公子等ヲ一、財物入ル二縣官ニ一とあるや、漢書食貨志に仰グ二給ヲ縣官ニ一と、晁錯が傳に縣官と云る、又淮南子(*本文「准南子」)論訓に天下縣官ノ法と云へるなどは、皆公儀と云こゝろなり。又、漢書京房傳に事ル二縣官ニ一十餘年と、霍光傳に禹ガ曰、縣官非レバ二我家ノ將軍ニ一、不レ得レ至ルコトヲレ是ニと、註に如淳曰、縣官ハ謂フ二天子ヲ一と、又後漢書東平王宇(*劉宇)の傳に、縣官年少シとある類は天子を指すなり。又、漢書食貨志に其在ル所ノ之縣官と、又儒林傳に詔ニ云ク、群國縣縣官とある類は、州縣の官人と云ことなり。
○ 國是と云ふ、宋朝よりこれを言ふ多し。張鼎思が代醉編(*琅邪代酔編)に云ク、國是ノ二字、今ノ人常ニ用ユ。未レ知ラ二何ニ出ルヲ一。後漢書ノ桓譚ガ傳ニ云云と。東涯翁の秉燭談にも桓譚が傳を出處とせり。これ代醉編と同じく考證を失せるなり。劉向が新序卷ノ二云、楚莊王問テ二於孫叔敖ニ一曰、寡人未レ得レ所三以ヲ爲ル二國是ト一也。孫叔敖曰ク、國ノ之有ルレ是、衆非ノ之所レ惡ム也。人君或至テレ失フニレ國ヲ而不レ悟、或ハ至テ二飢寒ニ一而不レ進マ。君臣不レ合、國是無二遉定ル一矣。夏ノ桀・殷ノ紂、不レ定二國是ヲ一、而以下合フ二其舍取(*取舍カ)ニ一者ヲ上爲レ是ト、以下不ルレ合二其取舍ニ一者ヲ上爲レ非故ニ、致シテレ亡ルヲ而不レ知。莊王曰、善哉。願クハ相國與二ゥ侯・士大夫一共ニ定メ二國是ヲ一とある、孫叔敖の語より始るなり。桓譚が傳に云るも、孫叔敖の説とすれども、その出る處は新序とすべきなり。
○ 禮の曲禮に、四神の旗をとけり。これ四方に列する二十八宿の名に配する者にて、所謂龍・白虎等、皆星宿の名を以いふことなり。然るに、南方の朱雀と云もの、その物たるの義を註疏家にも具さにこれを不説、古へより或は赤きすゞめと心得たるもありと見えて、國吏の高正コが傳に、齊の文宣(*文宣帝)禪りを受る日に、堯難當と云もの、雀を赤く染て朱雀の瑞なるとてこれを獻ぜりと云ことあり。石氏が星經(*石申「石氏星経」〔「開元占経」中〕)に、南方は赤帝、其奄ヘ朱鳥爲二七宿ト一と、王奕が説に南方の七宿、鶉首鶉尾とするは赤鳳これを鶉といふ。鳳は丹穴に生ず。鶉は又鳳の赤き者なり。故に南方の象にとると云り。これを月令(*礼記月令)に考るに、夏は其蟲窒ネり。鳳は貞ウの長なる故に、南方の宿を朱鳥とすと楊升庵云り。さあれば、雀と云るは鳳を稱することになるなり。
○ 五伯(*五覇に同じ。)の稱は、左傳の成公二年に齊の國佐が語に五伯ノ之覇也と云るを始とすべし。杜預が註に、夏伯は昆吾、商伯は大彭・豕韋、周伯は齊桓・晋文(*夏王朝の昆吾氏、殷王朝の大彭氏・豕韋氏、周王朝の斉の桓公・晋の文公。春秋五覇とは区別する。)とせり。その後、孟子に五伯ハ者三王ノ之罪人也と云り。趙岐が註に齊桓・晋文・秦穆・宋襄・楚莊王とせり。孟子に又、齊桓・晋文ノ事ども云り。其後に、荀子仲尼篇に仲尼之門、五尺ノ之竪子モ言、羞トレ稱スルヲ二乎五伯ヲ一と。又云ク、齊桓ハ五伯ノ之盛ナル者也と。又、王覇篇に義立テ而王、信立テ而覇、故齊ノ桓・晋ノ文・楚ノ莊・呉ノ闔閭(*闔廬)・越ノ勾踐、是所謂信立テ而覇タル也とあり。班固が白虎通(*白虎通義・白虎通徳論)の號篇に、あまねく五覇の説をあげり。一には昆吾氏(*本文「毘吾氏」)・大彭氏・豕韋氏・齊桓・晋文とせり。杜預これによれり。一には齊桓・晋文・秦穆・楚莊・呉闔閭とせり。これは荀子に本づいて勾踐を除て秦穆を加へり。一には齊桓・晋文・秦穆・宋襄・楚莊とせり。應劭が風俗通(*風俗通義)にも五覇を説てこの説に同じ。趙岐はこれに從ふなり。大抵五覇の説これ等に過ぎざるなり。然るに、齊桓・晋文は孔孟もこれを稱し、左傳等にも其功業を記すれば、覇と云べきこと明白なり。其外は覇とすべき明證もあらざれば、古人姑らく五人の數に合せて言るなり。但し、荀子に云るところは、其書の古ルければ據ロとすべけれども、國佐が五覇を云るは、闔閭・勾踐より先なれば其數に入レがたきことなり。それ故に、杜預は昆吾氏等を加る説に從へり。明の何孟春・楊升庵の二子は、齊桓・晋文は覇と云べけれども、宋襄・楚莊等は覇と云べきことに非ずとてこれを五覇に入るの非を辨論せり。〔何氏の説は餘冬序録に見えたり。楊氏の説は其文集の中にある二伯論にこれを云り。〕然あれば、五伯の説、齊桓・晋文の外は明白に决して誰レ々と指し定めがたきものと知ルべきなり。
○ 三老五更の稱は、樂記(*礼記楽記)に武王克テレ商ニ食フ二三老五更ヲ於大學ニ一とあるを始めとす。鄭康成の説に、三老五更各〻一人、皆年老テ更レ事ヲ致スレ仕ヲ者也。名クルニ以スル二三五ヲ一者ハ、取ル二象ヲ三辰五星(*日月星と金木水火土星)一と。〔此は文王世子の註に云り。〕又云く、三老五更皆老人、更ヘ二知ル三コ五事ヲ一者也と。〔此は樂記の註に云り。〕後漢書の禮儀志に三老五更の老を養ふ禮あり。應劭等の説に、其コ行ありて年高き者一人を老とす。次の一人を更とす。三老は道チ成二於天地人ニ一、五更は訓ユ二於五品ニ一と云り。之等の説、皆その三五の字をとける、附會せるに似て穩ならず。但し、陳祥道の禮書に郷飮酒ニ必立テ二三賓ヲ一、而養フニレ老ヲ必立二三老ヲ一。禮ニ曰、三公在レ朝ニ三老在レ學ニ、三公非レバ二一人ニ一、則三老五更亦非ズ二一人ニ一矣と云り。此説切當せり。後に孔安國の孝經ノ傳を見るに、三老五更を説て曰く、三老者國之舊コ賢俊、而老所三從テ問フ二道誼ヲ一故ニ有二三人一焉。五更ハ者國ノ之臣更ヘ二習ヒ古事ヲ一博物多識、所三從テ諮フ二道訓ヲ一故ニ有二五人一焉と。此レとき得て□(*本文一字欠。詳又は審カ)かなり。此書僞作なりと云ども、陳祥道に先だてば、尤も據りて采べきなり。さて更の字、魏志の註に蔡邕(*本文「察邕」)が明堂論(*明堂月令論〔蔡中郎集所収〕)を引て更應ニシレ作ルレ叟ニ。叟は長老の稱也。字相似て書する者誤て更とす。嫂の字、女傍の叟、今亦以爲スレ■{女/更}トと云り。又、蔡邕獨斷(*本文「察邕獨斷」)にも五叟に作るべしと云り。五叟とする説も亦當れるならん。
○ 漢書惠帝紀の註に、荀悦曰、諱ハ盈、之字曰レ滿ト。師古曰、臣下以二滿ノ字ヲ一代レバ二盈ナル者ニ一、則知ル二帝ノ諱盈ナルヲ一也。他皆類スレ此ニと。宣帝紀の註に、漢紀を引て曰、諱ハ詢、字次卿。詢、之字ヲ曰レ謀トと。成帝紀の註にも亦この例に云り。按ずるに、容齋隨筆に、之ノ字ハ謂三臣下所ヲ二避テ以相代ル一也。蓋之ノ字訓ズレ變ト。陳侯使ムレ筮セレ之ヲ。遇フ二觀ノ之クニ一レ否、謂二觀ノ六四變ジテ而爲ヲ一レ否ト也と云り。又、示兒編に、之ノ字訓ズレ變ト。謂二君ノ諱臣下所レ避ル者ノ變ジテ以相代ルヲ一也。謂下諱レ邦ヲ變ジテ二國ノ字ニ一以代ルヲ上レ之ニ也。(*漢代に劉邦の諱を避けて〔避諱〕邦を國と言い替えたことを指す。)如下左傳(*荘公二十二年に陳詞の公子完が斉に亡命した故事。)遇フ二觀ノ之クニ一レ否ニ、謂ガ中觀變ジテ爲ヲ上レ否ト(*観卦が否卦に「之く」、変わる意。観卦が「本卦」で、否卦が「之卦」になる。公子完の運勢を史官が卜した語。)也。今以二盈之・恒之ヲ一爲レ名、以二滿・常ヲ一爲ル者ハ非也と云り。これ容齋に本づいて殊にこれを詳かにするなり。周密が癸辛雜識にも、當世避レ諱ヲ改メテ爲二某ノ字ト一者ハ變也。如二卦ノ變爻ヲ曰ガ一レ之ト也と云てこのことをとけり。湖亭渉筆に盈之等を名とせる焦氏筆乘の誤りを辨じて、ゆくと云を以、之の字を訓ぜしなれども、これ等の説を擧ざるはたま〳〵考索に遺せるならん。
○ 三王と云は、禹・湯・文・武をすべて云こととするは非なり。但、孟子離婁下に周公思下兼テ二三王ヲ一以施ンコトヲ中四事ヲ上と。趙岐の註に三王ハ三代ノ之王也。四事ハ禹湯文武所ノレ行フ之事也と。孫奭の疏に三王ハ即チ禹湯文武ノ之三代ノ王也と。云く、文武は周の一代の始王なる故に、一王に統れども、文王は命を受て天子とならざれば、禹湯と同じく稱しがたきことなり。然るに、孟子は上の文に禹湯文武のことを云て、これを受て三王とある故に文王も數に入れざること不ルレ能ハなり。應劭の風俗通に夏ノ禹・殷ノ湯・周ノ武王、是三王ナリ也と云る、此レ正説なり。さて又、文王は殷に服事し、尚ホ臣屬なるを以三王に列せられぬ義を云り。當れり。又、鄒陽が梁王に上る書に三王ハ易シレ爲シレ比也とある、文選の翰(*五臣註の李周翰か。)が註に三王ハ禹湯武也と、又左傳成公二年に四王ノ之王タルヤ也と、杜預が註に禹湯文武也と云り。唐文粋に載す李翺が帝王所ノレ尚フ問ニ云ク、使メバ三黄帝・堯・舜ヲシテ居二三王ノ之天下ニ一、則亦必爲ン二禹湯武王之所一レ爲ル矣と。これ等皆よるべきなり。
○ 楊子法言に、人の性に善惡あることを云るを以、性善惡の説皆楊子を始めとせり。然るに、周の人に世碩と云ものありて、人の性に善あり惡あり。善性を擧てこれを養へば善長ず、惡性を擧てこれを養へば惡長ず、と云けるよし、王充が論衡ノ本性篇に見えたり。これ全く楊子の旨と同じ。その書は世子(*馬国翰「玉函山房輯佚書」巻六四〔八八冊目〕所収)と云ふ。子類なり。漢の藝文志儒家の類にありて、七十子の弟子とせり。
○ 唐虞三代以來、創業の主皆その興る處の國、或はキする處の地名より天下の國號とせり。只、元の太祖は易の辭に由て國號を大元と稱し、明の太祖も始めは呉を以國を建たれども、それを改て大明と號せり。これに由て、國地より號を定めぬは元・明のみとするは考へざることなり。六朝齊の太祖(*蕭道成)、宋のとき梁公に封ぜられけれども、讓りを受て後に讖書(*予言書)の金刀利刃齊ク刈ルレ之ヲと云語(*金刀は劉、刈は剪に通じ、劉姓の宋朝に取って代わる意があるという。)にとりて、國を齊と號しけるよし、蕭子顯が齊書(*南斉書)崔祖思が傳に見えたり。然れば、南齊を始とすべし。
○ 人のよく酒を飮を上戸と云、不ルレ飮マを下戸と云。江次第(*江家次第)に、よく飮を高戸とあり。公事根源に上戸と云り。何孟春の餘冬序録に、よく飮を大戸とし、飮こと不ルレ能ハを小戸とすと云て、唐宋酒令、詩話にこれを言フこと多しといひ、又、呉志を引て、孫皓が饗宴に人以二七升ヲ一爲レ限ト。小戸雖レ不レ入ラレ口ニ、立ロニ澆灌シテ取ルレ盡スコトヲとあれば、三國以前に此ノ品目ありと云り。又、白氏文集に猶嫌フ小戸ノ長先醉フと云句あり、註に飮こと多キを大戸とし、少き者を小戸とすと。又、五代史に朱全忠飮シム二葛從周ニ酒ヲ一。辭スルニ以ス二量ノ小ナルヲ一とあり。然れば、飮こと不ルレ能ハを小量とし、よく飮を大量と云フも亦可なり。又、宋文章志(*沈約。佚書)に以二大ニ飮ヲ一爲二上頓ト一と云ことあり。然れば、不ルレ能ハレ飮を下頓と云るも亦可なり。
○ 宋書の孝義傳に籍年・實年と云ことあり。籍年は公儀向の書出シの年を云、實年はまことの生年を云なり。趙宋のとき、士大夫の少年なる子の早く仕官せんことを欲すれば、其年をuし、布衣の士擧に應ずれば歳數を减ず。故に實年・官年と云ことあり、と容齋二筆・代醉編(*琅邪代酔編)等に記せり。この風、六朝よりこれあれば、中華にも既に久しきよりこれ有ことなり。
○ 杜撰と云こと、野客叢書に杜黙と云もの詩を作るに、多くは律に叶はざる故に、事の格に合ハざる者を杜撰とすと云り。又、驚座新書(*王兆雲)ニ引テ二白醉瑣言(*王兆雲)ヲ一云ク、五代の廣成先生杜光庭は、多く神仙家の書を著す。悉く誣罔に出でぬ。故に、人の妄言する者を謂て杜撰と云となり。意ふに、後説勝れるに似たり。
○ 凡事の麁末にして整らぬことを胡亂と云。宋儒の語録にも往往にこの語あり。劉氏鴻書(*劉仲達)に書記洞詮(*梅鼎祚)を引て云く、五胡華を亂るとき、漢人の兵を避る者、凡ソ事皆倉卒になして不ルレ能二完備スルコト一を相率て胡亂と云となり。
○ 凡ソ自らいふには名を稱し、人を呼ぶには字を稱することは、名は字より重き故にこれを貶して自ら呼ブ。字は賤き故に人を呼にはその名の重き者を避て字を云フなり。此こと杜預が春秋釋例にこれを説り。隱公元年の正義に引り。
○ 今マ人の古實に達せる者を有職者と稱す。或はその官職の職より誤りて、職原抄に奄オきを有職者と心得たるあり。大に非なり。職の字、もと識の字なるを誤て職の字に作れるなり。是レ有識者と云ことなり。其本づく處は、漢書ノ魏相傳に有識者詳ニ議シテ乃チ可と云や、又劉向ガ傳に有識ノ之士、詠二頌ス其美ヲ一と云るなど是レなり。皆學術智識ある者を云ことなれば、これより轉じて事實に通ぜし者を稱するもそむかぬことなり。
○ 鎌倉以來、政務をとり行ふ臣を稱して執權職と云、其文字は晋書に長沙王執二權ス於洛ニ一とあるを出處とすべし。
○ 世俗に鬼靈を幽靈といふこと、文撰(*ママ)謝惠連が古塚を祭る文に幽靈髣髴と云るより來れり。
○ 古より鬼物の祟りあるを物のけと云て、古き物語などに見えたり。これ本づく所あり。史記齊悼惠王の世家に舍人怪テレ之ヲ以爲シテレ物ト而伺フレ之ヲとあり。註・索隱に曰、物恠物也と。又、漢書郊祀志に李少君能使レ物ヲ卻クレ老ヲと、註に物ハ謂フ二鬼物ヲ一也と。
○ 凡その才藝のすぐれたる者を稱して堪能と云り。宋書ノ明帝紀に其文武堪能、隨テレ才ニ銓用スとあり。これ等の語より來るなるべし。
○ 確執の字、唐書李密が傳に出たり。有レ人確執スとあり。此レは李密を山東へやることを群臣の中によろしからずとて堅く止むるを云なり。確執は堅く了簡をすえて(*ママ)、然らば意次第とゆるさぬことなり。それ故に、三代實録などにも大法師位義濟確執シテ曰などあるもそのこゝろなり。然るに、後來は誤り來りて、人の隙ありて意の合ざるを確執と心得たり。非なり。
○ 無恙と云詞は、戰國のときより古人往々にこれを云り。其義、陶九成(*陶宗儀)が輟耕録卷の四に具さにゥ説をあげたり。考ふべし。
○ 宋儒の道理を談ずるに、毎毎理の字を以これを云るを、或人の説に、道の字は行路の流行往來せるごとく、人倫・日用の離るべからざるものにて、道の字は以レ所ヲレ行フ言活字也。理の字は本ト玉石の文理を云て事物の條理を形容すべけれども、天地生生の妙を形容するに不レ足ラ。理の字、以レ所ヲレ存スル言フ死字也。聖人は道の字を以言て、理の字に及ぶものまれなり。莊子屢々理の字を云り。後儒ハ以レ理ヲ爲レ主トと云り。然るに、獨り莊子のみにあらず。古書に道理といひ、天理といひ、只理と云るなど、多クこれあり。皆道と云べき處に理の字をも用ひたり。大抵道と云も理と云も、皆天地の間人倫・日用、萬事・萬物の自然なりにすぢみちありてかへられず、止れず、かくのごとくありて行はれゆく者をさして、姑くこの字を借てこれを形容するものなり。理の字すでに事物のそれ〴〵の條理を形容するなれば、天地生生の妙もこれに就て外ならざれば、何ぞ形容するにたらずとせんや。且道の字・理の字、畢竟死活を以云べきことに非ず。さて宋儒の專ら理の字にて云るは、道のそれ〴〵に條理ある所を艶リに喩さんとて然カせるならん。古ヘの希に言フこと、後の人屢々言フこと、これのみに非ず。其意を得れば何ぞ害あらん。其古書に多く云とするは、易の繋辭傳に窮理と、孟子に理義と、荀子修身篇に其行ヤ二道理ヲ一也勇と、韓詩外傳に倚二天理ニ一觀二人情ヲ一と、樂記に天理と、戰國策に不レ近二道理ニ一と、呂氏春秋にも屢々これを云り。其離俗覽に世ノ之所レ不ルレ足ラ者理義也と、勸學篇に不レ知二義理ヲ一、生ズ二於不學ニ一と、愼行篇に有ラバ下知ル二不利ノ之利ヲ一者上、則可二與ニ言フ一レ理ヲ矣と、高誘が註に理ハ道也と、察俗篇に其於ヤレ人ニ也、必驗ムルニレ之ヲ以レ理ヲと、註に道理也と、侶順篇にコ行尊レ理ヲと(*圏点ママ。以下同)、懷寵篇に必中テレ理ニ、然後ニ説クと、淮南子(*本文「准南子」)の本經訓に不レ離レ二其理ヲ一と、註に道理也と、又主術訓に動靜循レ理ニと、人有テ二困窮一而理無レ不ルレ通ゼと、不レ修二道理之數ヲ一と、齊俗訓に非レ求ムルニ二道理ヲ一と、説林訓に循フ二其理ニ一と、註に理ハ道と、詮言訓に循二天ノ之理ニ一と、又漢書董仲舒ガ傳に樂ムレ循ヲレ理ニと、又云ク有ルレ所レ詭スル二於天ノ之理ニ一與と、衛傳に逆ヒ二天理ニ一亂ル二人倫ヲ一と、杜鄴傳に所レ行無二非レ理ニ者一と、又王充ガ論衡に失二道理ノ之實ヲ一と、又文選ノ王子淵洞簫ノ賦に誠ニ應ズ二義理ニ一と、又王僧達の詩に於亦道心と、註に濟曰、於ハ謂フ二鉛ノ之理ヲ一と云り。この外猶ホ多し。今たま〳〵記する處を以こゝに示すなり。豈ニ後儒のみこれを云とせんや。
○ 蓋の字、大抵發語の辭にて、疑ひを含て决せず、或は謙して云ときに用ゆるなり。詩の小雅黍苗篇の正義(*孔穎達「毛詩正義」)に云く、蓋ハ者疑ノ辭、亦爲二發端ト一。孝經ゥ言レ蓋ト者ハ、皆示レ不ルヲ二敢テ專决セ一。禮ノ禮器ニ云、蓋道ハ求テ而未二之ヲ得一也。檀弓ニ云、蓋有ント二受テレ我ニ而厚スルレ之ヲ者一。是レ發端也。黍苗ノ詩ハ、詩人指シテレ事ヲ而述ブ。非レ有ルニ二可レ疑事一、在二末句ニ一不シテレ爲二發端ト一、而其上歴ク陳二四時ヲ一。故ニ爲スレ皆トとなり。又檀弓の正義に、蓋ハ者意有テ二謙退一、不二敢テ指シ斥サ一。事雖レ不トレ疑、亦云レ蓋ト也と云り。又孝經第二章の御註(*唐玄宗「御注孝経」)に蓋ハ猶レ略ノ也と、邢モが疏に按ズルニ孔傳ニ云、蓋ハ者辜較(*大略・一絡げ)ノ之辭、劉R云、辜較ハ猶ホ二梗槩ノ一也。劉瓛云、蓋ハ者不ル二終ヘ盡サ一之辭と云り。これ等の字義、字書に審かにこれを述ベざるを以、これを擧て初學の士に示すなり。さて蓋の字をけだしと訓ずること、或人の説に氣だしと云ことにて、氣の出ると云こゝろを以發語の訓と云るなれども、その據處を知らず。附會ならん。いかなる詞とは知れねども、發端に言フことなればこそ、この蓋の字を訓ぜしなれ。萬葉集の中の歌に、往往にけだしと云詞ありて蓋の字を用ひたり。然れば、久しき訓なりと知ルべきなり。
○ 一二三四等の數目の字、茂密なる壹貳參肆等の字(*大字)を書すること、明の陸容が菽園雜記に云く、明の始め刑部尚書開濟に始まると傳へ云ども、宋の邊實が崑山志にこれあり。錢穀の數を書するに、本字を用ゆれば、姦人ために改め易る故に、これにかへて防ぐとなり。正字通、捌ノ字の下には秦に起ると云り。老學庵筆記に壹貳參肆伍陸漆捌玖拾の字、皆書にこれありて、參は正ニ是レ三の字、■{人偏+(七/木)}(*柒カ)の字は晋・唐書に或作ルレ漆ニと云り。又容齋五筆に孟子に市ノ價不トレ貳ニセ、趙岐ガ註(*趙註孟子)に無二二ニスルレ賈ヲ者一也と。本文ハ用二大貳ノ字ヲ一、註に小二の字を用ゆれば二ト與レ貳通用する者なりと云り。又儀禮經傳通解(*朱熹)の鍾律篇に此ノ篇凡ソ數皆令式に準じ、大字を借リ用ると云り。これ等の説によれば、其用ひ來ること久ふして、唐宋の比よりは盛りに借リ用ることと見えたり。 皇朝の大寳令に數目を書するに、皆茂密の字を用ゆれば、これ唐令による者ならん。さて五筆通解(*未詳)にて看れば、畫多き字を大字とし畫少き字を小字とすることなり。又方密之(*方以智)も壹貳等の字の證を擧てこれを説り。通雅(*方密之)四十卷算數の篇に見えたり。
○ 道體の字、宋儒の言出ダせる者と或人云り。程子の語に道體の説ありて、近思録にも道體の篇目あり。然るに、六經にこの二字所見なし。按ずるに、淮南子詮言訓ニ云く、無爲ハ者道ノ之體也と。又人間訓に或明ニシテ二於禮義ニ一、推ス二道體ヲ一と云るなど本づく所とすべし。
○ 朱子、論語の天を言ふを註して天即理也と説るを、宋儒の始めてかく釋せることとなして議せる人あり。凡ソ天とさして古書に云フは、彼の蒼蒼たる處を指スにはあらで、道理の妙用を存在してある所よりこれを云ことなる故に、天は道の自然に、條理のしかある本體に就て理也とは云り。此レ本づく處あり。淮南子原道訓ニ聖人ハ不二以レ人ヲ滑ラ一レ天ヲと云語あり。高誘が註に天ハ理也と。
○ 五常と云こと、列子ノ楊朱編に人懷ク二五常之性ヲ一と云を始とす。然るに、その名目を不レ著サこの後荀子ノ非相篇に案徃舊造ルレ説ヲ、謂フ二之五行ト一とありて、楊wが註に五行ハ五常、仁義禮智信是也と。又樂記に五常ノ之行と、鄭玄が註に五常ハ五行也と、孔穎達が疏に五常之行ハ若シ二木ノ性ハ仁、金ノ性ハ義、火ノ性ハ禮、水ノ性ハ知、土ノ性ハ信ノ一也と。これ五常・五行を仁義禮智信とするなり。其よる處は、漢書董仲舒が傳に仁義禮智信ハ五常ノ之道と云る、これを始とす。又王尊が傳に五常九コと云ひ、又陸賈新語にも人道ハ治ム二五常ヲ一と云る、皆仁義禮智信を指すなり。その後、班固が白虎通等に詳かにこれを説り。然れば、其名目を述るは董仲舒とすべきなり。或人班固を始めとせるは、大に考證を失せることなり。
○ 朱子文質の義を説て夏尚レ忠ヲ、商尚レ質ヲ、周尚ブレ文ヲと〔論語の註に〕。語類等に忠質文のこと漢儒に始ると云り。按ずるに、史記の貨殖傳に夏人政尚レ忠ヲと、漢書杜欽傳に殷ハ因レ夏ニ尚ブレ質ヲ、周因二於殷ニ一尚レ文ヲと、又董仲舒が傳には忠敬文と云り。白虎通にも、三代のことを忠敬文を以これを詳かにとけり。これ等宋儒のよる處なり。
○ 習鑿齒が語に性理遂ニ錯ルと云り。世説に見えたり。性理の字、これ等を始めとすべし。
○ 理窟の字は、世説の巧藝篇に張憑勃窣(*緩慢、ゆっくり)トシテ爲スト二理窟ヲ一とあり。これを本づく所とすべし。
○ 詔獄の語、漢書文帝紀・武帝紀等に出たり。師古が註に解なし。通鑑の胡三省の註に漢ノ時左右キ司空・上林中キ官ニ皆有二詔獄一。蓋奉テレ詔ヲ以鞠ム(*取り調べる・糺す。鞠断。)レ囚ヲ、因テ以爲スレ名トと、又成帝紀の註に凡詔シテ所二繫治スル一、皆爲二詔獄ト一と云り。この説にてよく通ぜり。
○ 書の盤庚の孔傳に櫽括の語あり。孔穎達の疏に木括ハ必是舊語、不レ知レ出ルヲ二何レノ書ニ一と云り。さて〳〵考索を失することなり。荀子性惡篇に櫽括烝矯、然シテ後ニ直シと、註に櫽括ハ正ス二曲木ヲ一之木也と、又大畧篇に示二ゥ櫽括ヲ一と、又宥座篇に櫽括ノ之側ニ多二枉木一と、又淮南子修務訓に其曲中ルハレ規ニ櫽括ノ之力ラナリと、又韓非子難勢篇に夫レ棄二櫽括ノ之法ヲ一と、又鹽鉄論十二に若三櫽括輔檠ノ之正スガ二弧刺ヲ一也と、註に櫽ハ揉ムルレ曲ヲ者也、括ハ正スレ方ヲ者也と、又云是猶ホ下不シテレ用二櫽括斧斤ヲ一、欲スル中撓メレ曲ヲ直セント上レ枉ヲ也と。これ等にて看れば、まがれる者をためてすぐになし、正ダせる器(*道具)なり。
○ 晋書陶侃が傳に何有ンヤ三亂頭養望自謂コト二弘達ト一耶と云語あり。小學外篇にこれをとる。その養望の詞詳かならず。小學の註に呉氏曰、養望ハ養フ二其虚望ヲ一也と、淺見翁(*浅見絅斎)の説に待ツ二養ヲ於人ニ一の義なりと、皆的切ならず。按ずるに、北史魏収傳に不レ養二望ヲ於邱壑ニ一、不レ待二價ヲ於城市ニ一と云る詞あり。然れば、養望の二字は六朝のときの語と見えたり。これに照して觀れば、望は意望のこゝろ、養はそだておくの義にて、安ンじおる(*ママ)こと(*虚名を当て込むこと。)なり。今こゝに云るは、亂頭を以修飾せざるを當然となして、これに安じ居てその意に任せおくと云ことならん。宋元通鑑ノ仁宗紀に張昇對テ曰、今陛下ノ之臣、持シレ祿ヲ養フレ望ヲ者多フシテ、而赤心謀ルレ國ヲ者少シとあり。これ等その字を用ゆるこゝろ照し看るべし。
○ 參をまいる(*ママ)と訓じて詣ることに用ゆるは、もと朝廷へ造る朝參より來る。通鑑に陳ノ文帝永元三年ニ北齊ノ高歸彦至明ニ欲レ參ゼントとあり。此レ參の一字を用ゐて(*原文「用ゆて」)據ろあり(*原文「據ろはり」)。胡三省が註に參ハ朝參也、毛晃曰參ハ造ル也、趨承ル也と。
○ 贔負(*原文ルビ「ヒキ」。さらに圏点を付す。)と云語、張平子が西京ノ賦に巨靈贔負と云るを出處とすべし。註に粽ガ曰、巨靈ハ河~也、贔負ハ作ス(*レ脱カ)力之貌也と。今マ世俗に云る所、この義に近し。
○ 東鑑・太平記などの書に、あはてさはぐことを毎毎周章とかけり。この語は文選王文考が魯の靈光殿賦に東西周章スと云るを本とすべし(*他に左思「呉都賦」に見えると云う)。註に翰ガ曰、周章ハ言フ二驚視ヲ一也と。
○ 舌耕の字は後漢書の賈逵が傳に出たり。筆耕の字は梁書の王僧孺が傳に出たり。
○ 人に銘誌などを請ひ、凡てその手跡を求めてかゝさしむる(*ママ)に、預じめ謝物を贈るを潤筆と云。この語、北史の鄭譯が傳を始めとすべし。容齋二筆(*洪邁)に詳かに潤筆せしことを云り。
○ 本錢を出して利入を規るを俗語に放債と云と容齋五筆に記せり。
○ 文章の中チ大疵謬の處をば、首より尾りに至るまで大朱筆にて横にこれを抹するを紅勒帛判と云よし、夢溪筆談(*沈括)に見えたり。
○ 朱子太極圖説の後論に此統ノ之所二以有一レ宗、會ノ之所二以有一レ元也と云語あり。此れ王弼が周易畧例に出たり。其明彖ノ篇ニ云ク、統ルレ之ヲ有レ宗、會スルレ之ヲ有レ元、故ニ繁シテ而不レ亂レ、衆シテ而不レ惑ハと、唐ノ那璹(*原文「唐ハ那璹」)が註に統二領スルニ之ヲ一以二宗主ヲ一、會二合スルヲ之ヲ一以ス二元首ヲ一と云り。
○ 防レ微ヲ杜グレ漸ヲと云語(*よからぬものがはびこらぬうちに芽を摘む意)、司馬光(*原文「司馬公」)の書儀に云て、朱子小學の書にその語を取れり。この文字は宋書の呉喜が傳に出たり。始めとすべし。
○ 今マ文字のかき誤るを魯魚(*原文圏点ナシ)の誤りと云。その本づく所は、諺ニ云、書三寫スレバ魚成レ魯ヲ帝成スレ虎ヲと芥隱筆記(*龔頤正。説郛所収。原文「艾隱筆記」)に見えたり。又字經レバ二三寫ヲ一、烏焉成スレ馬ヲと云語、横浦文集(*張九成「横浦(先生文)集」。欽定四庫全書集部四所収。)に出たり。(*魯魚烏焉の語源。)
○ 名ヘの字、晋宋の人よりこれを言ること多し。後漢の李元禮(*李膺)欲ス下以二天下ノ名ヘ是非ヲ一爲ント中己ガ任ト上と云を始めとすべし。〔この語、本傳(*後漢書党錮列伝)にはこれなし。世説のコ行篇にあり。〕(*割注)
○ 今マ紙を云にばんが大きなの小サいなのと云は、番の字なり。通雅に紙ノ幅バ謂二之ヲ番ト一と云り。又張華が博物志を引て云く、賜フ二側理紙(*水苔で作った紙)萬番ヲ集賢院學士ニ一、大府供ス二紙五千番ヲ一と、又云く紙謂二其可キレ翻ス故ニ以レ番ヲ數フ一レ之ヲと、又唐の蕭穎士少フシテ夢ム三古人授クト二紙百番ヲ一と云こともあり。〔堯山堂外記(*蔣一葵)に載せり。〕これによれば、一枚と云を一番と云て可なり。
○ 唐の李義山(*李商隠)が雜纂と云書あり。其書に必不ルハレ來ラ 醉客逃ルレ席ヲ 客作ス二偸レ物ヲ去ヲ一 不ルハ二相稱ハ一 病メル醫人 肥大ノ新婦、などゝ皆その趣きのことを以ならべ云て一ト滑稽なる者なり。C少納言の枕草紙にすさまじきもの ひるほゆる犬 春のあじろ 人にあなづらるゝ物 家のきたおもて としをいたるをきなゝど云る、文體は皆雑纂を摸寫したるものなり。大抵前人のする處、祖述せること多きなり。
○ 闔テレ棺ヲ乃止ムと云辭、人の知れることにて、其出處は韓詩外傳に子貢曰、君子亦有ルレ休スルコト乎、孔子曰云云、故ニ學テ而不レ已マ、闔テレ棺ヲ乃止ムと、又晋の劉毅が語にも葢テレ棺ヲ事方ニ定ルと云り。又杜子美が贈ル二蘇徯ニ一詩に丈夫葢レ棺ヲ事始テ定ル、君今幸ニ未レ成二老翁ト一と、又赴二奉先縣ニ一詠懷の詩に葢レ棺ヲ事則已ム、此志常ニ覬豁(*実現することを願う意)と云り。又韓退之が同冠峽の詩にも葢レ棺ヲ事乃了ルと云り。これ等にて看れば、古人屢々言る詞なり。其意は人生のありさまは死期をめあてにすることにて、身を修め學を勤むるも死ぬるまでなり。その榮辱禍b煬繧ノはいかゞなりゆかんもはかられねば、何事も死する後ならでは知れぬことなるに由て、棺にふたをしてより一生涯のことがすむと云義なり。誠に然り。
○ 原テ(*もとづいて)レ心ニ定ムレ罪ヲと云こと、刑を論ずる要となして古人これを云り。鹽鐵論刑法篇に春秋ノ之治ムルレ獄ヲ、論ジテレ心ヲ定ムレ罪ヲ、志善ニシテ而違フレ法ニ者免ス、志惡フシテ而合フ二於法ニ一者誅スとあり。又漢書ノ王嘉ガ傳にも聖人斷ズルレ獄ヲ、必先原テレ心ニ定レ罪ヲ、探テレ意ヲ立レ情ヲと云り。
○ 好事不レ出レ門ヲ、惡事傳ル二千里ニ一と云語、世俗の云ひもてはやす辭にて、よくも〳〵言得たるなり。何孟春の餘冬序録に、諺ニ曰と云てこの語を述たれば、時俗の云ることにて出處はなきなり。又積コトレ善ヲ三年、知レ之ヲ者少ク、爲スコトレ惡ヲ一日、聞フ二於天下ニ一と云語、古人の詞となして晋書宣帝紀の論に引けり。これ亦此のこゝろなり。
○ 窮鼠齧ムレ猫ヲと云語、俗間の云ることなり。鹽鐵論十一卷刑法篇に出たり。
○ 俗に以レ一ヲ知ルレ萬ヲと云ことあり。これ荀子ノ非相篇に云り。
○ 燈欲レ滅ント増スレ光ヲと云こと、俗間にこれを云り。藝文類聚に載す(*ママ)梁の紀少瑜が詩に殘燈猶ホ未レ滅セ、將ニシテレ盡ント更ニ揚グレ光ヲと云り。堯山堂外記(*原文「堯山堂外紀」)には陳(*ママ)沈滿願(*「沈滿願殘燈詩云、殘燈猶未滅、將盡更揚輝。」)とせり。この詩などより言るならん。
○ 狂言綺語と云辭は、白樂天が香山寺白氏洛中集記(*香山寺蔵「白氏洛中集」記の意。)に願クハ以二今生世俗文字ノ之叢、狂言綺語ノ之過ヲ一、轉ジテ爲ント二將來世世讚佛乘ノ之因・轉法輪ノ之縁ト一と云り。陳后山集(*陳師道「陳后山詩集(后山集)」)に別ル二圓澄禪師ニ一詩に多生ノ綺語未レ經レ懺ヲと云り。註に白氏の此の語を引てさて云るは、釋氏書の綺語は蓋口中四業ノ之一、謂フ三綺節ノ文詞過テ有ルヲ二増華一也となり。
○ 堅白同異のこと、史記荀卿が傳の註にとけるは明白ならず、通じがたし。荀子修身篇の楊wが註に云る處、とき得て詳悉なり。看るに好し。
○ 郢書燕説と云こと、韓非子十一卷外儲説の篇に具さにこれを言り。考へ看るべし。
○ 男女交合のことを人道と云。詩の大雅生民の毛傳に云り。孔穎達の疏に人道ハ謂フ二人交接ノ之道ヲ一とせり。これ古言と云べし。
○ 極めて笑ふにたへかぬるを捧腹(*原文圏点ナシ)と云。この文字日者傳(*史記の卜占家伝)に出たり。
講習餘筆 卷之四 終
○ 解題(内藤耻叟)
講習餘筆序(伊奈忠賢)
自序
目録
巻1
巻2
巻3
巻4