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講習餘筆 卷之二

藤原明遠(中村蘭林)
(『少年必讀 日本文庫』第六編 博文館 1891.11.24
※ 原文漢字カタカナ交じり文。(*入力者注記)

○ 解題(内藤耻叟) 講習餘筆序(伊奈忠賢) 自序 目録   巻1   巻2   巻3   巻4
[目次]

講習餘筆卷之二

○ 家語(*孔子家語)は、漢の藝文志(*漢書藝文志)に論語家に孔子家語二十七卷とありて、師古(*顔師古)の註に、あらず今所家語と云り。王肅註の後序に、孔子家語は皆當時の公卿士大夫、及び七十二弟子ていしはかりふ處、こもごも相對問せる言語なり。時に弟子其正實にして切ナル者をとりて論語となし、其餘はこれを集録して家語となづく、と云り。博士孔衍(*西安博士。孔安国の孫。)の説には、孔安國の撰次とす。然るに、朱子の説には、家語は只是王肅編古録雜記。其書雖シト疵、然も肅が作るところに非ず、と云り。安國とも王肅とも决しがたけれども、何れにて古録を雜記すると云るは當れることにて、必孔氏の書には非ず。
○ 今家語の一書は、其説博雜冗長にして言辭・氣象、大に論語の中にある孔子の説に似ず。家語に載する處を看るに、皆荀子・左傳・大戴禮・小載記等の古書の中より其全章を取出し、是を綴輯する者にて、其篇篇體裁皆一樣ならず。左傳に出る處は、全く是左傳の文章を寫し、荀子に出る處は全く是荀子の文章を寫せり。其餘の書をとる處も皆しかなり。これにて其綴り集めたる跡、甚だ明白なり。明の宋景濂云るは、家語は後人の手に出て、孔安國の壁中の文を録する者あらず。多く左傳・禮記のゥ書を抄して、稍その辭を異にす。善讀ものはこれを知べしと。〔宋學士集(*宋景濂)のゥ子辨に云り。〕(*割注)看得て當れり。何孟春(*余冬序録等の著あり。)は博覽卓識の人なるに、家語を信ぜり。いぶかし。然るに、其載する處の語は古言なれば、又眞の孔子の遺言なるも有べくして、艶リなる説もこれあれば、取べきこともこれ多し。よく〳〵考ふべきなり。
○ 孝經は、漢の藝文志に孔子の曾子のために孝道をノベたる者と云て、孔家の書とせり。漢以來皆これを疑ずして、甚尊信せり。漢の匡衡が勸經學疏に、論語・孝經聖人言行之要と云るなど觀るべし。然るに、朱子に至て始てこれを疑て、孔子の書にあらずとなし、其とく處、論語中の孝をとける、皆親切にして味あるごとくにあらず。切要の處をとき得たることなくして、多く後人の附會に出る由を述て、刊誤を著し、その是非を辨論せり。おもふに、漢の始の儒師の手に出るならん。されども、古の遺言もあることと見えたれば、取べき言もこれなきに非ず。さて孔宅の壁中より得たるを古文とす。孔安國の傳を作る、と家語の後序に云り。又鄭玄が註あり。梁の代に安國・鄭玄の二家、並に國學を立たり。安國の本は梁の亂に亡て、陳及び周齊のとき、唯鄭註を傳ふ。隋の王邵、孔傳を訪ひ得たり。遂に河間の劉Rに至て、義を述てこれを講ぜり。儒者皆Rが自らこれを作る、孔の舊本に非ずと云り、と隋書に見えたり。唐の司馬貞も、孔傳は亡て近儒この傳を妄作して假に孔傳と稱す、と會要に見えたり。其孔傳を僞作とする説、甚だ當れり。今其文辭に就てこれを詳かにするに、浮靡萎弱にして甚だ漢以上(*以前)の語に類せず。六朝の文章に似たり。孔氏の眞書に非ざること明かなり。〔孔傳の僞作なることはべんずるにも足らず。〕(*頭注)隋の劉R、僞書百餘卷を造るよし、北史の儒林傳に見えたれば、Rが作ると云ことまことならん。 皇朝 C和帝の貞觀二年に安國が本は梁の亂に亡て、今の傳るものは劉Rより出る故に、玄宗廣く儒流を酌て訓註をなせり。孔傳は眞にあらざる故に用ゆべからざるよし詔令あること、三代實録に見えたり。然れば、 皇朝にても古來僞書とせるなり。その眞僞は少しも古書に通ずる者は辨破すべきなり。
○ 孟子は戰國に出て孔子の道を傳る者なれば、其書は孔子の道を述たる者なり。漢の文帝の時博士を置たれども、其後罷て、後漢に及て趙岐これを尊信し、始て注解をなせり。然れども、漢の藝文志にこれを儒家の類に入てゥ子に同する故に、六朝の間も皆子類を以これを看て尊信すること少し。唐の韓退之に至て、孔子の道を續ける者となし、大にこれを尊べり。又皮日休も孟子を尊び、聖人の微旨を得たるものとし、人に功ある書となして、學科に立んことをこへる説見えたり。〔其文辭、唐の文粹(*唐文粋)に載たり。〕(*割注)されども、後漢の王充、論衡の中に刺孟の篇を立て、孟子の説どもを擧てこれを辨駁する故に、趙宋の馮休もそれにならつて刪孟あり、司馬君實、疑孟あり、李泰伯、非孟あり、晁以道、詆孟あり。但し、温公の子公休は甚だ孟子の書を醇正として、これを尊べり。章望之も亦孟子を宗として、性善を言、荀・揚(*荀子と楊子)を排せり。その後に余允文は尊孟の辨を著して、温公の説を訂論せり。朱子又允文の説に就てこれを論定せり。然れば、大に尊信して經となし、論語と並び重んずることは、程・朱以來なり。これに由て、孟子大に行る。其功大なり。
○ 世に或は孟子を誹議し、其言る處の性善・養氣・四端等の説は全く孔子の道になき處にして一種の學術を創むるとせるあり。さて〳〵嘆息すべきことなり。夫孟子の性善をとき養氣をとき四端・良心等を説るの類は、皆孔子の未發を發して、聖學に大功あること、是等の處にあり。大抵天地の氣化は世と共に日々に開くる者にて、義理も亦是と共に開けて窮りなければ、先聖の發せざることを後賢の發明すること、自然のありさまなり。堯・舜・禹・湯のいまだ言ざることを、孔子始て是を云る、論語にて知ぬべし。其言ざるを言るの、堯舜のヘに違ふと云べけんや。左に非ず。其ヘを開きみちびくとこそ云べけれ。然ば、孔子のいまだ言出さゞることを孟子の始て是を言るは、孔子の未發を開くとこそ云べけれ、其道に違ふとは云べからず。何んとなれば、堯・舜・孔子、同く是己れを修め人を治るのヘにて、孟子も同く是己れを修め人を治ることをヘて、異端邪説に非ざればなり。然れば、孟子は實にこれを羽翼して其道を擴むるに非ずや。唯孟子戰國の世に出て、道術の破れし時に當れば、其言辭も激切を不して、雄辨(*ママ)痛快に、その氣象温厚に乏しきことは、亦その時世の不ルヲものにて、此亦何ぞ害あらん。羅景綸の所謂孟子儀秦之齒舌、明カス周孔之肺膓。的切痛快、蘇-萬世とある〔鶴林玉露に云り。〕(*割注)誠に然かり。其發明せることのとるべきと云ふことは、大抵天文術の一事にても察すべし。聖人は推歩(*天体の運行を測ること。暦学。)において奄オからず。其理いまだ開けざれば、後世に至ては愈々推て愈々奄ュ、明Cに至ては甚だ鉛を極めたり。これ聖人の智の至らぬ處を發すといふべし。豈古の聖人の奄オからぬを是とし、今の奄ォを非とせんや。彼の義理の學も亦同じ。四端・性善等は、孔子いまだ奄オきに至らず。孟子發して奄オきに至る者なり。豈亦孔子の奄オからぬを是とし、孟子の奄ォを非とせんや。これに由て推せば、程・朱の理氣合一の分辨あるをとき、天理人欲の差別を明かにし、道體爲學の體用を示し、存養省察の修目を詳かにするの類は、愈々論じて愈々奄オく、又孟子の未發を發する者なり。〔程朱の説は創説にて、孔孟の道には補ひなし。これは別に程朱の道としてみるべし。〕(*頭注)さて孟子・程・朱の心に本づいてヘをとける、釋氏の心をとくと大に似て大に不カラ。然るを世の學者、或は宋儒の心を云を以同く釋氏の道とせるは當らぬことなり。夫身より推てこれを天下國家の事に措き、孝弟忠信のヘより日用動作の事に及ぶも、これを主張・運用する者は皆この心なり。然れば、何事として心をあやつるの學術なからん。孔子のヘる處、心よりしてこれを修めしむるに非るはなし。唯心の字をとき出さゞるのみ。按ずるに、荀子に心をとく一條あり。其言曰、心何以知。虚一ニシテ而靜ナリ。心未一レ也。然レドモ而有所謂虚。心未嘗不一レ滿也。然レドモ而有所謂一一レ心。未一レ也。然レドモ而有所謂靜也と〔解蔽篇に出づ。〕(*割注)此よく心の動靜體用をとき得たり。孟子はいまだかく云ざるに、彼れ宋儒にさきだつてこれを發するに非ずや。豈亦釋氏の説に本づくとせんや。〔余孟子考證において具さにその意旨を論説する故に、こゝに畧しぬ。〕(*割注)
○ 莊子はゥ子の中にてもつとも傑出する者なり。其智識の高邁なるより放宕の説をほしいままにし、世俗の拘を破る。聖賢を玩弄し、禮ヘを滅棄するは罪人なりとも云べけれども、彼れ大なる一意思ある者と知るべきなり。宋の黄東發の説に、創-必有之人、設-必有之物、造-天下必無之事、用以眇-ニシ宇宙、戲-聖賢、走弄百出、茫トシテ定跡と云る〔黄氏日抄に見えたり。〕(*割注)、看得てよし。然るに、其間正論妙義を云ること往往にこれ有て、聖學を啓發すること亦多し。さて其文抄は奇奇快快・鼓舞豪放にして、窮め測るべからず。古今第一等の奇文なり。
○ 東坡が莊子祠堂記に、盜・漁父・讓王・説劍等の篇は皆淺陋にして、莊子が本書に非ずとしてこれを辨ぜり。その弟蘇子由(*蘇轍)も其説を是として古史の論に此を述り。明の鄭氏(*鄭が井觀瑣言・焦氏(*焦пjが筆乘(*焦氏筆乗)などにも、盜等のゥ篇は其文字・體製、先秦・西漢の人の辭に不、皆後人の雜へいるるならんと云り。これ皆卓見なり。但し、司馬遷が史記に漁父・盜等を作くると云こと、不曉とせり。余憶ふに、馬遷以前にありしは其眞書にて、その文亡びし故に、後人その篇名あるよりこれを僞撰するならん。莊書の評説ども、ゥ子考証(*未詳)においてこれをつぶさに記する故にこれを畧す。
○ 程子の説に、若者不ンバ、則是佗須莊子。爲メニ膠固纒縛、則須一放曠之説、以自適と云り〔遺書に見えたり。〕(*割注)。この意思甚だ味ふべきなり。又眞西山の説に、莊・老の學盛になりて名ヘを害し、晋宋のC談道術の破れを生じ、國家の綱紀を失ふこと、老・莊の罪なりと云るあり。〔大學衍義にとけり。〕(*割注)これ亦畏れ思ふべき處なり。
○ 孟子の後子類の儒家なる者、荀子なり。其書極めて禮ヘを説て、孔子を尊び、王覇を辨じ、異端をしりぞく。戰國縱横の世にあたりて、義理を守り、正論を述ぶ。其功大なり。然れども、人の性は本惡とし、善を修むるを僞なりとすること、大本に於て義理を害することにて、宋儒のために排せられたり。其非十二子の篇に云る處などは、妄りに道を以任じて、情をタメて賢者を議する者にて、當らぬこと多し。荀書の評説も亦ゥ子考證に詳かにこれを論ずる故に、こゝに畧す。
○ 戰國策は、春秋の後の事實にて、其ときの游士の記録せる者なり。春秋の世を去こと遠からざるに、人物・風俗別樣に見えて、ゥ國士人の談説、大抵一般の風采なり。亂國となりし世變とは云ども、恐くは作れる者の大に潤色して、半ば實を傳へ半ば虚を傳るならん。さて其文辭は雄健・高簡にして、國語に比すれば大に勝れり。曾子固(*曽鞏)戰國策を論じて曰、戰國之游士不之可一レ、而樂於説之易一レ合。故ジテ之便、而諱其敗、言之善、而蔽其患。其相率而爲者、莫ルハ利焉。而シテ其害也。有ルコト焉。而不其失也と。説得て至極せり。晋の袁スは論語莊易は皆病痛のことにてuなし。天下の要物は戰國策なりとて、これを愛せり。〔世説(*世説新語)に見へたり。〕(*割注)蜀の李は、從横反覆の術なりとて、讀まじき書とせり。〔蜀志に見えたり。〕(*割注)スが見は甚だ僻陋にして、が意は正しけれども、此ときの事跡なれば、歴代を考る上は讀まじきことにあらず。且嘉語善辭もこれなきにあらずして、其雄辨について取べきことも多し。さて史記索隱・太平御覽・北堂書抄・藝文類聚等のゥ書に引用ひきもちゆる戰國策の文ども、今の本にこれ無もの多して、文字も又脱誤多し、と容齋四筆に云り。誠に然り。
○ 漢書は史記をつぎて漢一代の國史を成者なり。班固が父彪、司馬遷が史記の太初の比より後は闕て録せざる故に、前史の遺事を采て後傳數十篇を作る。固父の續處いまだ詳かならざる故に、前記を探りえらみて漢書とせり。それ故に、五十卷は全く史記の舊文を載たり。但し、マヽ其文辭を省畧することありて、史記に比すれば辭つまり事實鬱して、のべざることあり。其體皆史記に倣て、只世家を建ざるなり。〔此書に史記のことを一言も論ぜざるは、脱文あるならん。〕(*頭注)
○ 唐の顏師古が漢書の註は、數家の説をとり、其是非を評訂し、其義を發明す。尤も縁レなり。唐書の本傳に、班孟堅の忠臣なりと稱せり。然るに、字釋を述る前に出すことを又後にあげ、一傳の中に一事を數次釋することもありて煩はし。洪容齋(*洪邁)の隨筆にも、師古が註の字釋など贅冗なる由を擧てこれを訂せり。さて又註意に往往にとき誤ることもこれなきに非ず。凌稚驍ェ評林(*漢書評林)を集むるとき、其註解するに及ばざると思ふ處は皆けづり去て註を畧し、又註釋なくしてかなはざる處も、繁きを省て刪ることあり。さてさて不見識なることなり。たとひ通じ易く釋するに及ばずとても、古書のまゝを存して全く傳るこそ本意なれ。いはんや釋あるべき處を刪るをや。稚驍ヘ實に師古の罪人と云べし。二十一史本はこの患に罹らぬ故に其註まつたし。然れども、其全本とても師古が註脱することまゝこれあり。鑑(*一字脱。通鑑カ)の胡三省が註(*資治通鑑音注・通鑑釈文弁誤)に漢書の註をひく處を看るに、漢書全本の註になき師古及びゥ家の説どもこれを載する處あれば、今の本は其全註の本とても亦闕脱すると見えたり。
○ 梁の陽王範(*蕭範)、班固が漢書の眞本を得て皇太子に獻ず。其異同を參校するに、異状數十事ある(*一字脱。よカ)し梁書劉之が傳に見えたり。王懋わうぼうが野客叢書にも此事をあげたり。尤あれは今のつたへる本は其編次の異なる者なり。さて今の傳る本に往往に脱文・誤字あり。按ずるに、律歴(*ママ)(*漢書律暦志)の度をとく處の一黍之廣さとあるところ之廣の字の間に八字の脱あり。其こと宋元通鑑に、仁宗皇祐二年(*1050年)に宋祁田況薦u州郷貢進士房庶。曉音律言、得古本漢書。云く、度起於黄鐘之長サニ。以子穀秬黍ナル、一黍之起一千二百黍之廣、度云云となり。これにて他の條の脱語あるべきも推て知るべし。
○ 陳壽の三國志は、三國の間各ゥ家の記録をあつめて此を刪畧し、輯撰する者なり。壽が本傳に、其辭多觀戒、有u風化。文艶不レド相如、質直グトと稱せり。今其文辭を看るに、誠に質實にして華藻は少きのみ。亦良史なり。范曄が後漢書に勝れり。宋の文帝、其畧なるを惜て、裴松之に命じて補注せしむ。博く群記をとりて書中に分ち入、本書に數倍せり。趙宋の葉水心の説に、三國志の註に載する處のゥ書は、壽が盡く取て書とする者にて、註の載する説は、皆壽が書の棄餘なり。後生誦讀すること詳かならざる故に、陳壽が麁畧せることとす、と云り。これ卓見にて、よく三國志を熟せるなり。誠に陳壽が書は簡實にて法ある者なり。補注の説とるべきことなきに非れども、繁冗に失すること多し。唯陳壽魏の漢賊たることを不知して正統を以これにアタヘて帝を稱し、本紀となし、蜀・呉を僭國となして、主を以これを稱し冠するを以これを云るは、名分に明かならぬことなり。それ故に、其後に晋の習鑿齒、漢晋春秋(*佚書)を著し、蜀を正とし魏を纂(*簒)とせり。又南宋の蕭常と云もの、三國志を改正し、續後漢書を著し、蜀漢を統とし、昭烈帝の章武元年(*221年)辛丑より起て、少帝の炎興元年(*263年)癸未に終る。註文の善者は併せ書し、帝紀・年表各二卷、列傳十八卷、呉載記十一卷、魏載記九卷とせるよし、文獻通考に記せり。又寧宗の開禧中(*1205-07年)に、李托と云もの、漢を尊びて三國志六十七卷を改修せると玉海に記せり。黄東發の日抄(*黄氏日抄)の中に陳壽が魏を統とする罪を論辨せり。
○ 晋書は、唐の太宗、房玄齡・李延壽等二十一人に命じ、十八家の晋史をあつめ、臧榮緒が晋書を主として撰すると唐書會要(*王溥「唐会要」)等に云り。多くは語林(*何良俊「何氏語林」)・世説・捜神記等の小説を采て、干寳が晋紀(*佚書)・檀氏が晋陽秋(*檀道鸞「続晋陽秋」。佚書)をとらざる故に美事に遺畧多し、と劉知幾の史通に云り。豐城二劔(*晋の張華が雷孔章〔雷煥〕を予章郡豊城県に遣って得させた龍泉・太河という二口の剣。後、河に入って龍になったという。)のこと、雷次宗(*東晋の隠者)が豫章記に出て、寓言に施さば可ならん。これを實録にとるは然らず。晋書にこれを取は誤れり、と王伯厚(*王応麟)の困學紀聞に評せり。元の劉靜修(*劉因)も、晋書は繁蕪誣談、鄙褻の事具さにこれを載せて、甚だ史體を失へりと云り。これ等の評論皆當れり。今晋書を看るに、文辭冗長にして拙語多く、典雅ならず。刪り定むべき者尤も多し。但し其志は大抵沈約が宋書より出たる者にて、其説審かなり。
○ 唐書は五代晋の劉、唐三百年の間の國史野録を刪集してこれを撰す。所謂舊唐書是なり。其叙事甚だ詳かにして、文辭も亦富贍なり。然れども、遺事闕畧することありて、全備せざる書なり。宋の至和(*1054-56年)中に歐陽修・宋祁等に命じて其遺闕を補緝し、改て編修せしむ。所謂新唐書是なり。其進むる表に、其事則増於前、其文則省於舊と云るを、劉元城(*劉安世)これを評して云く、新唐書叙事、好-其辭。故其事多シテ而不ナラ、僻澁ニシテヲシテ一レコトヲ。此作ルノ之弊(*原文「」)也。唐書進表云、其事云云。其病正兩句也と。この説甚だ當れり。明の楊升庵も大に新書に滿たずして、其姚元崇が十事の要説を以皇帝と問答すること、舊書に傳る處は首尾具さに備て、千年の下猶如面晤。新書に記する處は剪裁晦澁にして、事實不として、舊書と新書と各々其傳の其文を擧てこれを示し、其得失を察せしめたり。合せ讀ば誠に升庵の評の如し。〔其こと丹鉛總録に見えたり。〕其他の傳も徃徃にかくの如し。其本紀も新書は甚だ疎略にして、只綱を擧るまでなり。太宗(*李世民)の建成・元吉(*太宗の兄)を攻し條なども、新書は其事跡を詳かに見がたきに、舊書は委曲にその樣を摸寫せり。但し、新書の志の論は歐陽氏の筆にて、艶リの論ども多く、舊書に勝れり。然るに、總てこれを言はゞ二書亦各々得失あることなり。安積翁(*安積澹泊)の湖亭渉筆に、唐書の評論數條をあげたり。考ふべし。今これを畧す。又柳芳(*柳仲敷)が唐書一百三十卷あること、宋史の藝文志に見えたり。但し、玉海・通考(*馬端臨「文献通考」)等にはこれ有ことを云ざるなり。又南唐の陳喬も唐書一百卷を著せり。高祖より穆宗に至る、と南唐書に見えたり。
○ 元の至正四年(*順帝)に、儒臣歐陽玄(*歐陽圭斎)・掲奚斯(*掲斯)等に命じて、遼・金・宋の三史を修せしむ。此より先にゥ儒議論して三國の正統久ふして决せず。是に至て脱脱とくと(*托克托)獨り斷じて三國宜正統、各年號と云て、議者遂にやめり、と元の權衡が庚申外史に見えたり。又元の楊維驍ヘ三史を修せし後、正統いまだ歸する處あらざる時に、三史正統の辨を撰みて表上し、遼・金は統となすべからざることを審かに論ぜり。其文陶氏(*陶宗儀)の輟耕録に見えたり。遼・金は夷狄にて中國にヨリ、宋は南渡すれども其統一日も絶ざれば、遼・金は全く是僭國なり。時に元の夷より宋をとる故に儒臣も遼・金を恕することありと見えたれ。それ故に楊氏の辨斷も用られず、脱脱の一言にて定ると見えたり。明の陳于陛が意見と云書に、遼・金の二史は統に非ざれば革め去て宋史に附すべしと云る、當れり。又嘉靖(*明・世宗)中に何維棋(*柯維騏)宋史新編二百卷を撰ぜり。遼・金を以附見し、晋戴書記(*未詳)の如くせり。宋の舊史は四百九十六卷ありて、其事廣博に文辭冗雜にして塩ならず、煩しきこと多し。陳全之も宋史は一事を紀して先後不カラ、一人にして彼是不カラとして、遺恨あることを云ふ。〔蓬窓日録に見えたり。〕それ故に、新編は一一これを刪畧し、甚だ簡約なり。然れども事實を節すること多くして、事の舒暢せざることあり。又美事の遺することもこれあれば、亦その切略に遺恨なきに非ず。さて遼・金を附するは卓見なれども、其事甚だ畧にして、二國の事跡を審かに知がたければ、今遼・金の二史を廢しては亦闕典なり。
○ 温公(*司馬光)の資治通鑑は、荀悦が漢紀・袁山ッ(*袁山松)が後漢紀に倣て編年の體とし、廣く歴代を括する者なり。其事實詳贍に、取捨謹嚴にて、治亂の盛衰・君臣の得失、善の法となすべく惡の戒とすべきもの皆備れり。自書契以來、未ナル通鑑と王伯厚の評せる、過論にあらず。歴史中の第一の書と云べし。通鑑の評、馬氏(*馬端臨)の通考に詳かなり。又安積氏の渉筆(*湖亭渉筆)にも具さにこれを述る故に今こゝに畧す。〔通鑑の取舍謹嚴なることは、原づく所の史書に比校してしるべし。誠に感服すべきこと多し。〕(*頭注)
○ 朱子の通鑑綱目は、春秋に倣て大要を大書し、綱となし、左氏に倣て事實を分注し、目とす。皆温公の通鑑を省略したる者なり。其綱は春秋の書法に擬し、朱子微意を寓し、らこれを述り。其目は趙師淵に命じて簡畧せしむる者にて、事實をとるに畧に過て詳かならず。取べきことに削り去ことあり。或は始尾の照管(*注意、照応)を失ひ、舛誤も亦これあり。それ故に、楊升庵は師淵が史學に長ぜずして綱目の編録の宜しからざる義を説り。〔升庵文集(*升庵集)に見えたり。〕さて温公は魏を正統とせり。是陳壽に從り。朱子これを非として蜀漢を以て統となせり。これ習鑿齒が漢晋春秋(*佚書)に從へり。鄭が井觀瑣言に、尹氏の綱目の發明(*尹起萃「資治通鑑綱目発明」)は、胡氏春秋傳を學び、劉友uの書法(*資治通鑑綱目書法)は公羊・穀梁傳を學ぶ。但し、本文の誤に因て、曲てこれが説をなせり。朱子未ムルニ故に其大義明かなれども、未者あるべし。如帝或書、弑或書、殺或上レズルト、曲てこれが辭をなさし(*ママ。「なせし」カ、「なさしむ」カ)と云り。此説誠に然り。キて発明・書法等に穿鑿の説多し。惜むべし。然れば、綱も朱子いまだ全く整頓せられぬことなれば、目は殊にとくと吟味にも及ばれざると憶ふべし。明の憲宗(*原文「憲宋」)成化九年に、儒臣に命じ、朱子の通鑑綱目及び後儒の著せる考異(*資治通鑑考異)・考證のゥ書を考訂して、王逢が集覽・尹起辛(*尹起萃)が發明を以その後に附せり、と名山藏めいざんざう(*明・何喬遠)に云り。然れば、一書となし、附して行ふはこの時よりと見えたり。商輅等に命じて續通鑑綱目(*続宋元資治通鑑綱目)を編しめけるもこのときなり。此書は宋元の事を記して、書體(*体例)は朱子に倣へり。只其書疎畧なること尤も多し。それ故に、薛應旄(*薛応は温公に倣て宋元通鑑を編めり。其事を録すること、甚だ詳かにして好書なり。
○ 凡編年の體は、治亂得失において備れり。唯其事の起りこゝに始て、其事の終り毎毎數年を隔てこれあれば、首未(*首尾)を總括してこれを知るには看がたきことあり。それ故に、宋の袁機中(*袁機仲〔袁枢〕)、温公の通鑑を以紀事本末(*通鑑紀事本末)四十卷を作る。皆その事類を合せ、編年を以これを次第す。これを讀ば、治亂の大勢・政事の興廢、首尾悉く備て、これを考索するに甚だ便りあり。通鑑を看るには、必本末を讀べきなり。明の馮gふうき、宋史紀事本末百九卷を著し、陳邦瞻、元史紀事本末八十卷を作る。共に袁氏の書體に倣て好書なり。凡そ史は一人の始終を論ずるには紀傳の體長ぜり。治亂盛衰を看には編年の體長ぜり。編年あれば本末の體これなくしてかなはぬことなり。みつの者は、皆史の闕べからざるなり。
○ 實録は六朝の梁に始る。梁皇帝實録を始とす。編年・紀傳の法を雜取まじへとりてこれをなす。後日史官の採擇に備る者なり。唐に至て盛なり。高祖以下のゥ帝、皆各々實録あり。宋より明に至ても、これに倣て帝ごとに實録を作れり。 皇朝の國史日本紀より皆實録の體に倣ふ者なり。文コ(*日本文徳天皇実録)・三代(*日本三代実録)の二史は、既に實録を以て稱せり。中葉、文獻の盛りなりしに、何としてか紀傳の史は編修せられぬぞ、誠に闕典にて遺恨なきにあらず。
○ 班固が漢書の藝文志は、劉が七畧をとりてこれを述るなり。往代・當時の書籍の存亡、これによりて考ることを得たり。誠に大功なり。後人の著述、世々日々に増uすれば、歴史ことに皆この志あるべきことなるに、後漢書より以來は此志を著さずして、一代の典籍を考證すること難からしむ。幸に隋書に至て尤も審かに經籍志を述て、甚だ考索のuあり。その後、唐宋の二史も亦この志あり。誠に不ンバアル者なり。劉知幾の史通に、藝文の一志を附贅懸疣ふぜいけんいうとせるは、甚だ疏莽の談なり、と胡元瑞これを議せり(*胡元瑞筆カ )。宜なり。〔官板に、八史經籍志に(*に衍)あり。大に便利なり。〕(*頭注)
○ 天祿閣外史と云書八卷あり。後漢の黄叔度の作なる由にて、漢魏叢書の中にこれを收めり。其文辭、麗藻を事とし馴雅なるに似たれども、頗る委弱にして六朝の文詞に類せり。さて叔度の傳によれば、言論風旨不概見と有て、其著述あることを云ず。且隋唐の藝文志にもこの書を不ば、甚だ疑はしきことに思ひしに、其後明の朱國(*朱国禎)が湧幢小品を讀けるに云ることは、嘉靖の間、崑山の王舜華と云もの、高才奇癖ありて天祿閣外史を著し、叔度に託するとして、其僞書なることを辨論せり。又りくが戒庵漫筆(*戒庵老人漫筆)にも王舜華が作るとし、胡御史某なる者この文を左國司馬ゥ篇の中に雜へて刊行し、蘇常四郡の學舍に頒ち、ゥ生に誦習せしめり。殆亦一奇事なりと云り。〔戒庵漫筆は、續説郛の中に收めり。〕これにて其疑ひ釋けり。程氏(*程栄)がこれを叢書の中に入けるは不吟味なり。Cの方密之は該博なる者なるに、通雅の中に古書の文字を擧るに、外史をも引用ひたれば、其贋物なることを知らざると見えたれ。
○ 文選は、梁の昭明太子蕭統のえらべるなり。文選の學、唐のとき甚だ盛なり。唐の李善は博學にて、書と言れし人なりしが、文選を註してタテマつれり。其子李これを補uしてゥ生に講授せり。其業を傳る者を文選と號せりと唐書李が傳に見えたり。李善は文選の學を曹憲に受たる由、曹憲が傳に見えたり。その後、呂尚、李善が註の繁冗なるを患ひ、呂延濟等の五人(*他に呂廷祥・劉良・張銑・李周翰)と其註解を更め定めり。五臣註これなり。後に又李善が注を併せて六臣註とす。宋朝に至ても文選の學盛に行れて、當時の文人梅をば必驛使を稱し(*一枝之春の故事)、山水は必C輝を稱して士子の語に文選爛レテ秀才半なりと云ける、と老學庵筆記(*陸游)に云り。煕寧・元豐(*1068-85年。北宋・神宗)の時、經學議論盛にして選學(*文選の学問)廢せる、と王伯厚の困學紀聞に云り。皇朝も古へは專ら文選を學びしなり。本朝文粹等に載する古人のゥ作文を看るに、其材をとる處皆文撰(*ママ)なり。又、藤原高光と云人は、文選に熟して三キの賦を背誦ソラヨミせしことなど見えたれば、これ等にて其學の盛なること知ぬべきなり。按ずるに、東坡の劉汚に答る書の中に、文選にとれる李陵・蘇武贈別の詩、及び陵が武にアタゆる書は、詞句けんせん(*言葉巧みで意味が浅薄)にして、齊・梁の間の小兒これを擬作する者にて、决して西漢の文に非ず。蕭統曉らずして載たり、と云り。洪容齋(*洪邁)も東坡の説を是なりとし、さて云るは、李が詩に獨有、與子結ブト綢繆、盈の字は惠帝の諱にて、漢の法に、諱に觸る者は罪あれば、陵この字を用ゆべからず。u々東坡の言信ずべしとなり。〔容齋隨筆にあり。〕讀者よく〳〵考察すべし。
○ 千字文は、梁の周興嗣の作なり。梁の武帝、ゥ王に書を習はしめんために、殷鐵石と云者に命じ、王右軍(*王羲之)が書中にて一千字の重ならざるを摺しめたり。毎子雜碎にて次でなき故に、武帝興嗣をして綴り韻語となさしめり。興嗣一夕にて編綴して進上す。俄かに苦思する故に、鬢髪皆白くなりぬ、と唐の李綽が尚書故實に見えたり。梁書の本傳には、只王右軍が千字を韻語になさしむるとのみこれあり。按ずるに、古事記に百濟國より應神帝の朝に始て書籍を渡せるに、論語・千字文を渡すとあり。應神のときは西晋の始に當て、梁の代に先だつこと二百年に餘れば、千字文いまだ編次せざる以前なり。然るにかくあるは、記録の誤る者と知べし。〔我朝に傳來する千字文は、王右軍の千字なり。編次せざる以前のものたること疑ふべからず。〕
○ 唐の開元中に、呉兢(*本文「呉競」)太宗の魏徴等の群臣と治道を論ぜし言事を類編し、君道・政體の篇に始て謹終の篇に終る。貞觀政要と名けてこれを上つれり。其書、國家の政ヘの美事・勸戒具さに備て、治道に助けある書なり。貞觀の治、遠く兩漢に過て、成・康の古にも及ぶべし。其書を讀て知ぬべし。唐の中葉の後、文宗・宣宗の君など、政要を讀て、甚だその政治を慕へり。宋の仁宗も政要を看て、太宗を稱せしことあり。 皇朝にても、鎌倉の將軍實朝、貞觀政要を讀り。又將軍ョ嗣へ時ョ、貞觀政要を寫して奉ると云ことなど東鑑に見えたり。我 東照~祖も駿府において惺窩(*藤原惺窩)に命じて政要を講ぜしめけること、惺窩翁の行状(*林羅山・菅玄同「惺窩先生行状」)中に見えたり。但、政要の中に載することは一時君臣の間の事にて、上聖賢の嘉謨善行より述るに非ざれば、善盡さぬこと有て取捨すべき書なり。唯、宋の末に眞コ秀の經業醇正に、學識該博なるを以、廣く六經史傳をとりて作れる大學衍義の一書は、凡人君の心に本づき、己れを修めてこれを國家の治道に推及すの本領より論著する者にて、古今治道の第一の書なり。それ故に、元の仁宗のときアマネく經籍を求めけるに、大學衍義を進むる者あり。即・事せんじ(*皇后・皇太子の家事を管掌する官)王約等に命じてこれを釋せしめり。仁宗の云るは、天下を治る、この書にて足りと。因て刊行せしめて臣下に賜るとなり。〔元史に見えたり。〕明の太祖、宋景濂に問て、帝王たる者は何れの書を讀によろしきとありければ、眞コ秀の大學衍義を讀たまへと云り。太祖とり覽て、これをスび、大書して兩廡(*東西の両廊)の壁に掲しめり。又、景濂を召て衍義を講ぜしむることあり。其後、成祖の朝に、楊士奇(*楊東里)曰く、コ秀所の大學衍義の一書は尤も學者にuありて、君となり臣となる者、皆不ンバアル知となり。又、成化二年(*1466年。明・憲宗)に、劉定之も上書し、大學衍義・貞觀政要の相マジヘて進講し、以比セン商周子孫取ルノ文武之意と云り。又、孝宗のとき、講官王華、大學衍義を講ぜり。唐の李輔國が張皇后に結び、表裏用と云處に至て、衆その事の嫌疑あるを以これを諱んことを請しに、王華熨Rとして講論せり。孝宗これを不厭して、これに食を賜るとなり。〔已上、皇明通記・名山藏等に見えたり。〕然れば、明朝に至て甚だ衍義をとり用ひたりと見えたれ。又、高麗の恭愍王のとき、尹澤、大學衍義を進講せんことを乞り。又、恭讓王のとき、鄭夢周、經筵事。王、貞觀政要を覽んとして夢周に命じて講ぜしめり。講讀官尹紹宗、進て曰、殿下中興す。當二帝三王上レ。宋太宗ルニ也。請大學衍義、以闡帝王之理と。王これを然りとせりとなり。〔東國史畧(*権近こんごん、他撰)に見えたり。〕これ明の太祖の時に當れり。然れば、外國の三韓にても亦衍義を尊信することなり。〔衍義はよろしき書なれども、專ら宋儒の説によりて一律重言せる者なり。衍義補(*丘濬「大学衍義補」)は實用にuあり。〕
○ 宋儒に至て義理大に開けて聖學に大功あれども、又學問の弊も宋儒よりこれあることなり。何となれば、義理を考索するに力を用ゆる處より、自然とこれを推て高からしめ、これを推て深からしむるに至て、文辭上の正面になき説も生じ、徃徃に穿鑿に失し、附會に出ることこれなきに非ず。畢竟、漢儒の義理において淺陋なる處を補塞することなるに、亦却てまがれるをためて直きに過るの弊あり。それ故に、明儒に至ては、又宋儒を議して異説まち〳〵に出ることあり。これ又宋儒の弊を救として反て直きに過ることある者なり。二つながら皆非なり。明の鄭曉の説に、宋儒ゥ經傳註、有漢儒。宋儒譏ルコト漢儒太過。近世又信ズルコト宋儒太過。今之學者又譏ルコト宋儒太過と云り。〔古言(*鄭暁)に見えたり。〕言誠に然なり。明の太宗のとき、陽の一老儒譏濂洛之學、己れが著せる書をタテマつれり。太宗これを覽て大に怒れり。閣臣楊士奇ツトメて營救し、殺されざることを得たり。人を遣して其家に就て、盡く其著すところの書を焚しめたり、と空同子(*李夢陽〔献吉〕「空同子集〔空同集・空同先生文集〕」)に記せり。又、姚廣孝も道餘録を著し、宋儒を譏詆せしに、楊洪と云もの廣孝と交り厚かりけるが、其書を燬りと云こと、名山藏に見えたり。これ等にてその詆議の多きこと知ぬべし。世の學者よく〳〵心得あるべきなり。
○ 元劉正修(*劉静修。下記引用文は、「静修集続集」巻三に見える。)、傳註の漢に始り、疏釋の唐に起り、議論の宋に盛なることを述て云るは、近世學者往往傳註疏釋、便發ゥ儒之議論。蓋不論議之學自傳註疏釋、特正大高明之論爾。傳註疏釋之於其六七、宋儒用ルノ之勤ルヲ一レ、補其三四、而備也。故必先ニシテ傳注、而シテ疏釋、而シテ議論。勿コト新奇、勿癖異、然シテタリト也と。〔此劉正修の學を叙する論中に出たり。其全文は其文集(*静修集続集)、及び稗編(*唐荊川〔唐順之〕「荊川稗編」)等に載せたり。〕今劉正修(*ママ)は專ら宋儒を學び、朱子を信ずる者にて、其言如なれば、其おもねらずして公正なること觀つべく、其説誠に當れり。世の學者或は訓詁の學となして漢儒を議するは如何ぞや。よく〳〵思ふべし。
○ 宋の何基の説に、經を治るには、謹み守て炎゚すべし。必多く疑論を起すべからずと云り。〔宋史儒林傳に見えたり。〕此言至極せり。大抵虚心平氣にこれを讀ざる故に、炎゚するに不して異説を成し、議論を生ず。學者の大病なり。よく〳〵何氏の戒めを思ふべし。〔經を治るは本文を炎゚すべし。注疏は必ず(*必ずしもの意カ)信ずべからず。〕
○ 呂東莱、讀史の法に、史をみるには我身その中にありて事の利害・時の禍患を見るがごとくすべし。又、卷をおほひら思ふべし。我これ等の事にアハば、何としてかこれに處置せんと。如史を讀ば、學問進むべくして、智識も高くなりuあらんと云り。東莱又六事に分て史を讀のヘあり。一には戒、二には擇、三には範、四には論事、五には處事、六には治體と。〔小學紺珠(*王応麟「玉海」巻七六─七八)に見えたり。〕これ亦良法なり。又、蘇東坡は漢書を讀に、數過にして始て盡せり。治道・人物・地理・星官・官制・兵法・貨財の類、一過するごとに一事を求むれば、數過を待ずして事事画Iなりと云り。元の虞邵庵これを擧て讀書の良法とせり。又、唯室山人の看法に、凡歴史を讀には一傳を看るたびにマヅこの人は何等の人ぞと定め、或は道義あるか、或は才コあるか、大節かくるなきかと、人品すでに定て、さて一傳の文字・全篇の文體いかんと看るべし。既に了りて人事に何の用となるべく、奇詞妙語の筆端をたすくべき者をとりてこれを記すべし。若に史を讀ば大にuありとなり。〔王懋が野客叢書に附見せり。〕
○ 司馬温公、くみし范祖禹ズル修書帖に云く、其實録正史、未必皆可キニ一レ、雜史小説未必無一レルコト。在高鑒擇ブニ一レ之をとなり。此説甚だ然り。これは通鑑を修するに就て云り。誠に正史とても妄誕を傳て疑ふべきことあれば不ことにて、反て野史・小説の中にて眞の事實を得ること、毎々これあり。此は讀ものゝ具眼にあることなり。宋朝の事跡に至ては、本傳に遺れることのゥ家の小説にて其美事をうること多くこれあり。よく心得べきなり。
○ 凡歴史を讀もの、紀傳を好て志を縁nせざるは鹵莽と云べけれ。その一代の典故・法制は皆志によりて見ゆれば、其時の制作の得失を知ざれば叶ぬことにて、經濟の學に志しある者は殊に心を附べきことなり。杜氏の通典(*杜佑「杜氏通典」)・馬氏の通考(*馬端臨「文献通考」)、丘氏の衍義補(*丘濬「大学衍義補」)等の治道にuある書は、皆歴代の志を主とする者なり。ゆるせにすべからず。
○ 梁の王は左氏春秋を愛し、三度抄録せり。餘經及周禮・儀禮・國語・爾雅等は再び抄し、子史ゥ集は皆一遍抄して大小百餘卷あり。これを好事に傳るにはたらざれども、遺忘に備ると云り。晋の葛稚川(*葛洪)の説に、衆書を抄し、其於vを撮れば、功を用ること少くして、驗して收むる處多く、思ひ煩はしからずして、見る處博しと云り。王融も亦年老て愈抄書せる由を云り。凡古人の勸學する人は皆然なり。すべて書は何れによらず抄録すべきなり。白紙の卷册を設けてこれを傍らに置、隨て讀隨て抄してこれに書すべし。大抵其部類を分ちて、或は禮制、或は職官、或食貨、或は學術、或は人物、或は雋語などの類を以その門類を定めて、各々其門の中に記すべし。然あれば、其事のとるべきもの、後の考索するに、これに就て求めて甚だ得やすく、閲の力を省き、且はこれによりて記臆すること多くしてuあることなり。
○ 宋の沈仲回の説に、道學之名、起於元祐、盛ナリ於淳X。其徒讀ヲバ、則目フト一レ、留政事ヲバ、則目俗吏。其所讀者四書・近思録・通書・太極圖・東西銘語録之類。自詭其學、爲正心・修身・齊家・治國・平天下。然レドモレバ其所一レ、則言行不相顧と云り。〔周密が癸辛雜識に見えたり。〕かゝる學者は、只見識の高それしたるまでにて、修省の實行はこれなければ、何のコ義をかこれ云ん。且經史に度らず、學術孤單なることなれば、何の用にか叶ふべけん。唐の太宗の蕭をせむる語に、身俗、口道と云る言、甚だ俚俗なれどもよく云ることにて、これ等の學者即ち是なり。明の邵國賢が不ルコトヲ假道學と云しも、亦これぞかし。


講習餘筆 卷之二


○ 解題(内藤耻叟) 講習餘筆序(伊奈忠賢) 自序 目録   巻1   巻2   巻3   巻4
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