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講習餘筆 卷之三

藤原明遠(中村蘭林)
(『少年必讀 日本文庫』第六編 博文館 1891.11.24
※ 原文漢字カタカナ交じり文。(*入力者注記)

○ 解題(内藤耻叟) 講習餘筆序(伊奈忠賢) 自序 目録   巻1   巻2   巻3   巻4
[目次]

講習餘筆卷之三

○ 文章は時世と共に升降することにて、先秦の文は皆高古典雅に、氣象醇厚にして巧みを求めずしてら巧に、後世の及ぶべきにあらず。漢に至ても古(*ママ)を去ること不カラ故に、文氣未衰、猶典雅純正にして古意多し。後漢より後は、風氣日に降り、文章靡弱になりて、唯華藻を事とし、典實を失へり。六朝に至ては、其衰ること極れり。唐の末に韓退之出て大に力を六經・先秦の古書に用ひ、それより悟入して古文を唱て六代の衰を振へり。同時に柳子厚・李習之(*李が輩も亦深く古文を學て、共にこれを興せり。宋に至て穆修伯長・歐陽永叔は韓文を學び、蘇老泉(*蘇洵)は戰國策を學び、東坡は檀弓・莊子を學び、曾子固(*曽鞏)は劉向を學びしなど云こと、皆古文辭を學ぶ者なり。凡古文を學ぶと云は、其字法・句法・抑揚・頓挫等の上より文章の體裁を會得することにて、古人の意を得て古人の意と見えぬ、古人の語をとれども古人の辭と知れざる樣に、飜案・脱體(*ママ)するをよく古文辭を學とも云べし。韓・柳・歐・蘇の古を學る、皆然なり。さればこそ韓退之も師トシテ其意、不トセ其辭とは云けれ。又曰く、陳言之と黄山谷も亦云るは、古之能爲文章、眞能陶萬物、去古人陳言、如靈丹一粒點ジテスガ一レ金となり。よく〳〵思ふべし。
○ 宋朝に及て、古文を好て始て韓・柳の文を學ぶ者は穆修伯長なり。穆修、韓・柳の善本を得て大に喜び、二家の文集を世に行んことを欲して、乃ち相國寺において板に鏤めたり、と朱弁のきよくい舊聞に見えたり。其後に、歐陽永叔、兒童のとき李氏の家にて韓昌黎の文集六巻を得て帰り、これを讀めり。これより韓文を學びける、と歐文の舊本韓文後記に云り。韓文の盛に世に行るゝは此を始とするなり。
○ 明の萬暦の間、李于鱗・王世貞出て一種の古文辭と云ものを唱て、その聲名籍甚なり。其文體は極めて古書の奇僻麗藻なる辭をとり、大抵其成語を以綴緝して一篇の文とする者なり。其辭を離れてこれを看れば、深き意味あるにはあらで、實は淺近なることのみ。然も佶倔艱澁にして、讀にかたく解するにかたふして、老師宿儒とても容易には解了し難きこともこれあり。それ文章は言を載する器にて、世用に適ふものなればこそ、梁の沈約も文章三易。易、易、易とは云けれ。何を以か倔艱通じがたきを事とせん。唐の李習之は、韓退之に學びし者なるに、文章のヘをとくに義の深きを主とし、理の當れるを主として、巧みに至ることを是とせる義を述たれ。今其意の淺近にして義理に本づかざるは、何のuかあらん。豈亦其奇僻に誇り、一塲の觀美に供する者か。其見陋しとこそ云べけれ。明の太祖も文章を論じて學士・同せんどうに云けるは、古人の文を作るは、或は道コを明かにし、或は世務に通ず。皆明白にして深怪險僻の語なし。近世の文士は道コを究めず、世務に達せずして、辭を立るは艱深にて意は實に淺近なり。今より翰林の文を作るに、但道理に通じ世務に明かなる者を取て、浮薄を事とすることなかれとなり。〔憲正録(*未詳)に見えたり。〕これ誠に至言なり。然れば、元の末より此怪文を唱る者ありと見えたり。太祖は堅くこれを禁ぜしなれども、幾程もなくして李空同(*李夢陽)・何大復が輩、又この僻文をハジめて、李・王に至て大にこれを振ふ者なり。世の學者往往にこれを好て李王李王と稱し、務めて其文辭を學びぬるは嘆息すべきに非ずや。元の許魯齋(*許衡)の説に、凡無檢束法度、艷麗不覊之ゥ文字、皆不。大能移性情と云り。これは唯華藻の義理に根ざゝざる文章を戒むることなり。若彼の李・王の文辭を看せしめなば、實に驚嘆にたへざらんなり。大抵今の文士に謹厚檢束なるをば小節となし、放逸流宕なるを豪傑となし、一世を雄視して正學の義理あることを不知もの或はこれ有れば、所謂移性情と云る、誠ナル哉。
○ 凡文辭を學んとならば、漢以上の古書より其材をとり、其法を韓・柳・歐・蘇より得べし。さて文選を讀て其辭藻をとるべし。古人文ヘをとける書、陳(*陳が文則、陳曾繹(*陳繹曾)が文章歐冶、王伯厚が辭學指南(*「玉海」巻二〇一〜四)、呉訥(*呉納)が文章辨體、徐師曾が文體明辨等の綱領に述る處(*ママ)の説ども取べき者多し。熟讀考索すべし。世近(*ママ)□東涯翁(*伊藤東涯)の著せる作文眞訣と云書を讀しに、其ヘをとけること、前賢の説をとりその自見を交へてこれを云ること甚だ簡約にて、學者にuある者なり。讀によし。〔作文眞訣は世に行はれたり。刊謬正俗の後に附てあり。〕
○ 宋の眞コ秀の文章正宗は、義理を主とし、世道にuある者をとる。皆な漢以上の文辭なり。これより下は、唯韓・柳・李習之のみこれをとる。古文辭の撰において甚だ正しき者なり。其部を辭命・叙事・議論・詩賦と四篇にわかてり。畢竟、文のゥ體多けれども、これを總括すれば只叙事・議論の二つを出でざればなり。尤も熟讀すべき書なり。さて又、韓・柳を宗として其本集を讀べく、宋の六家に及ぶべし。茅鹿門(*茅坤)の唐宋八大家文抄(*唐宋八大家文鈔)は甚だ學者に惠あり。謝疊山(*謝枋得)の文章範、及び鄒守uの續範、其撰よろし。徐師曾の文體明辨は悉くゥ體を備へ、博く百家をとる。其撰も亦正し。皆讀べし。明の方孝儒の遜志齋文集(*遜志斎集)は其議論正實に、義理明白にして、世務を助け修省のuありて、文解も又よし。これ亦讀によろし。
○ 孫獅フ説に、批點の孟子あり。蘓老泉(*蘇洵)の親筆なりと云ども、洪景盧(*洪邁)の語を引故に、景盧は老泉を去こと六七十年以後の人なるを以、老泉にはあらじ。但、其文勢筆路を論ずるに、至て奄オく且密なれば、具眼の者ならでは不、とてこれを稱せり。〔無用間談(*孫氏jに見えたり。〕此批點の本、刊行して世に傳り、皇朝にも渡りしにや、先年蘇氏の批點の孟子を見ける人あり、と或る人余に語りき。いぶかし、實にその本を看けるや。大抵批評は看る人の見解に由ことにて、一定せぬ者なれども、達者のせるは塩ァなることなれば、古書の文體・句法・字法等に主意あるを窺ふに甚だuあることなり。檀弓に、孟鳴父が著せる述註(*林兆珂〔字孟鳴〕「檀弓述注」)と云本には批點ありて、ゥ家の評辭を載せり。其文勢・句法等を考ふるに一助あり。〔近頃の著書に、四書集u(*于惺介〔光華〕)と云ふ書あり。能く文法を論じたり。〕
○ 昔し曹子建(*曹植)は、我文章を人に見せて、人の譏り彈ずるを悦て、不カラと云處あれば、即ち改め定めり。丁敬禮と云もの、常に其文章を曹子建に示して潤飾せしめしことを甚だ稱譽せり。〔曹子建與楊コ祖(*楊修)(*文選)に云り。〕梁の王儉も又其主簿の任ム(*文章縁起、述異記の著者)に命じて、其作れる處の文を點正せしめたりとなり。大抵世の文士は拙作なる者とても己を是なりと思ひ、人の詆訶するを好まず。ましてや少しくそれに長ぜる人は猶さらのことなり。然れば、譏り議するを悦ぶは、公平の心にて稱すべきことなり。凡何れの道もらを是なりとなし、足れりとするより進まぬ者なり。今文章に志す者、よく〳〵此義を思ふて、己れが拙きをはぢず、我を善とすることなく、達者にこれを見せて其病ひを彈ぜしめ、改め正すべきなり。呂東莱のヘにも亦不非譏とこそ云けれ。さて又智者の一失と云ことあれば、其巧なる者も或は時として失誤なきに非ざれば、拙き者の非議にも取べきことあり。よく〳〵心得べきなり。
○ 陳の徐陵、あるとき聘使となりて北齊に行ぬ。時に魏收と云ける人、文學宏才北齊にて並ぶ者なく、甚だ名譽ありき。收、陵に逢て、己れが文章を集録し、徐陵に與て曰く、願くは南方にて流布せしめよと。陵これを受たり。還るとき、江水を濟りしに、其文章を取出して皆水に沈めて、吾爲メニ魏公と云り。意ふに、魏收は才士なれば、其文章も巧みにて、傳るも恥べきにあらざるべけれど、其才に誇りて自らこれを人に示すは如何ぞや。陵が拙きを藏すとてこれを沈めしは、過激なるとは云ども亦意思なきにあらじ。又五代の和凝(*梁・後唐・後晋・後漢・後周に歴仕。)は文を作るに多きを貴び、其文章百餘卷あり。自ら板に鏤めて世に行へりとなり。和凝が文章は後人の評論を聞ざれば、長ぜる者にあらじ。その多きを喜べば、必ず於に非ざるべし。然れば、恥を不知して人の非笑を招く者にあらずや。大抵古人の文章は沒せる後になりて門人子弟の手に集録して傳ることなり。然るに、後世は吾文章を自ら編録し、自らこれを梓行して、廣く人間(*世間)に流布せる者あり。彼等は文辭の巧なる者にて、讀ものゝ一助ともなるべけれども、我よりこれを云ば、其文才に誇り、世の聲譽を釣るに非ずとは云がたし。豈(*あるいは、の意。)亦和凝が嚆矢のために誤らるゝか。
○ 當世の士、其父母の死すれば、文士に請て碑銘を作らしめてこれを碑陰に記せしむる者これあり。その人品を考るに、一言一行の傳ふべきことこれあるにも非ず。然れば、何のコ行か顯はすべき。何を以か不朽に遺すべきや。且キ下繁華地にある墓處なれば、五患も料りがたければ、何ぞ永久を期すべけんや。是必其父母を尊榮せしむるの孝心よりこれをするに非ず。其永久を期する意思にも非ず。唯一時の名を競ひ、人の美觀に供ふるまでなり。然あれば、是浮薄の士のすることにて、志ある者は此風を改めて只碑陰に姓名生卒のみを記して可ならん。〔近來立碑の弊習甚だし。少しく思ふべし。〕(*頭注)中華の人のする處は、必その言行の記すべき人なればなり。それすら後世は浮華の風になりて、これにて名譽を求むることもありき。昔し、隋の秦王俊(*秦孝王楊俊)の薨ぜる時、終りに臨みて侈麗の物を焚て送具も儉約にせり。王府の僚佐請ント。隋帝の云るは、欲ントば一卷の史書足れり。何ぞ碑を用ゆることをせん。若子孫不ツコト家ば、徒に人に與て鎭石と作んとなり。〔隋書に出たり。〕今世の建るところの碑石、幾程もなくして寺院の鎭石になるもこれなきに非ざれば、よく〳〵思ふべきなり。
○ 王元美(*王世貞)は、人の傳や誌銘を作るに、力を極めてこれを稱譽し、微細の事までも殘すことなく記せり。漢以前は言ふに及ばず、唐宋の人もこの陋識はなかりしと云て、馮時可が雨航雜録(*説郛続巻一九)にこれを譏れり。此言當れり。凡人の傳・行状等を述るには、唯其大節の善行を記して、小事寸長は畧すべきことなり。さて又稱譽の過ぬれば、其實を失ふことありて、諂ふに近し。もし其人の實跡を失ふならば、傳状の詮はなきに非ずや。
○ 凡人の學問するに、少年のときは何の志もなふてうちすぎ、中年に及て學びんことを思ひ、或は老境に臨て始て舊年の非を知て學びんとするに志ある者もあり。然るに、今よりしては成がたきことに思ふて、其志を廢するあり。これ等は深切に志の立ざる人と云べし。晋の皇甫謐は、二十年にて始て書を讀み、高適は五十歳にて始て詩を作ることを學べり。宋の蘇老泉は二十七歳にて始て書を讀み、文章を學べり。明の李于鱗は詩文に名を得たる者なれども、中年のコロには詩も甚だ拙く、人のために笑れぬれど、晩年に至て巧になりぬるよし見えたり。〔劉氏鴻書に。〕この外、古人に晩學にて達する者多し。唯學は其志の憤起するに有て、功深ければ力ら到ることにて、早晩にはよらぬなり。たとひ少年より學ぶとも、悠然たるこゝろにて、困勉苦思せざれば、いつも舊面目にて進まぬことなり。たとひ晩學にて大に進むことを得ずとても、少しき得ることあらば、世の碌々たる人の醉生夢死するにはマサらざらんや。且これを以少しも彼の名ヘの中より樂地を得るならば、亦區々たる世紛を遺落し、老境中一適あるべきなり。昔晋の師曠が平公に告しは、わかふして學を好めば、日出る陽のごとく、壯にして學ぶは日中の光のごとく、老て學ぶは炳燭の明のごとし。燭の明ある、くらきを行にはまさるべしと云り。〔説苑(*に脱カ)見えたり。〕誠に面白き譬へなり。
○ 明の孫惟中と云る人は、宋の名臣の言行を愛して、歴々としてよくこれを言ひ、凡謨猷する(*計画立案する)處、これを取て法とせりとなり。〔宋學士集に見えたり。〕明の方孝儒の云るは、風俗美に賢才多きは東漢と宋に過たるはなくして、言行のヨクて古に近き者はヒトリ宋にて、漢は不となり。〔遜志齋集に見えたり。〕又朝鮮の李退溪も、三代以下の士太夫進退のよきは宋朝の諸君子なりとて、これを稱せり。〔退溪文集(*退渓集)、答鄭子中書に云り。〕其評當れり。朱子の著録せる宋の名臣言行録は、皆名賢の嘉言善行にて、家に居り官に仕る者、皆法り倣ふべきこと多くこれあり。讀べきなり。又、宋の末趙善が輯むる自警編八卷あり。各類目を著し、宋のゥ君子の言行を載たり。勸むべく戒とすべき者多し。亦好書なり。〔自警編は官板ありて世に行はれたり。必讀の書なり。〕(*頭注)方孝儒・何孟春なども、其書雜説の比すべきに非ず、とてこれを稱せり。
○ 晋の阮嗣宗(*阮籍)は未甞評論時事否人物となり。然るに、劉毅は不善を見れば必評論せりと。虞玩之も好て人物を臧否せるよし見えたり。〔倶に晋書。〕臧否とは、そのよしあしを評議することなり。何れをか是とせんに、人を非議して其あしきをとき、それに諂ふて其よきを譽るは、必ず禍をとり辱しめをうるに至れば、士たる者のあるまじきことなり。まして忌憚を憚らずして當世のことを評論するは愼むべきなり。阮嗣宗のせざるは、此ことなり。さてよく人を愛し、よく人を惡は仁者の公心なれば、凡是を是とし非を非とし、人の賢否を評論することは、亦善をとり惡を戒むるの心よりこれを己れに反ふすることあらば、修省するの一uともなるべし。劉・虞二氏の意は此義ならん。
○ 人死して火化すること、是夷俗なり。秦の西、儀渠・文康の國(*古代の国名)は、其親戚死すれば柴をあつめ積てこれを焚く。燻して煙上るを登遐と云、然後に孝子とする、と列子に見えたり。又・羌(*五胡の内)の虜は其焚ざるを憂ふと云こと、荀子に云り。其後世火花の濫觴なり。林邑・扶南より以南のゥ國は、死する者これを中野に焚てこれを火葬と云と梁書に見えたり。唐の太宗貞觀七年に、突厥頡利可汗けつりかがん卒せり。國人に命じて其俗に從て尸子を焚てこれを葬ると云ふ。通鑑に見えたり。元の世祖(*クビライ〔フビライ〕)雲南を下して、賽典赤さいてんせきを以行省(*雲南の省名)平章政事とす。時に雲南の俗禮儀なくして、親死すればこれを焚て喪祭をなさず。賽典赤始てヘてこれが棺槨奠祭をなさしむると云こと、元史に見えたり。是皆西南夷の俗法にて、釋氏の道に火化を禮とすること西域の夷俗なり。然るに、佛道の盛に行るより、後世は中華もこれに倣て火化すること多かりき。晋城と云所の風俗に火葬をたふとべり。程明道その處の令となりしとき、これにヘ諭して禁止せること、行状に見えたり。又、高宗の紹興二十七年に火化を禁じ、荒間の地を置て貧民に給し、收葬せしめりと云こと、宋史にあり。又、明の太祖(*朱元璋)學士陶安と南京の城樓に登りて尸を焚く氣を聞てこれを惡めり。陶安曰く、近世風俗に狃ひ、或はこれを焚て骨を水に投ず。孝子慈孫の心において忍びざることにて、恩を傷り俗を敗ることこれより甚きことはなしと。太祖この言を是なりとして、洪武三年に民間の火葬を禁止し、違ふ者は重き罪に坐せしむと云ふこと、雙槐歳抄(*黄瑜)に出たり。又、明の京丞相仲遠と云人は、寒微より起りしが、父祖皆火化して墳墓なく、寒食ごとに野祭しけるよし、眞珠船(*胡侍)に見えたり。新羅にても、宣コ王薨じて遺詔し、佛制によりて火化せり。又、元聖恭王なども火葬せると東國史畧(*権近)に云り。然れば、士庶も火化すること有らんなり。以上の説にて、華夷ともに火葬の多きことを知るべきなり。 皇朝は、文武天皇のとき元興寺の道昭死して、其徒これを火葬にせり。此火化の始めなり。其後、持統天皇崩じて火化せり。これより後、天皇より士庶に至るまで火葬するもの多く有て、今日に至てこの風俗いまだ止まず。さて〳〵嘆あしき(*ママ)ことなり。よく〳〵思ふべし。人の父母を愛敬する孝心より、この身は父母の分けたる體なるとてそこなひ傷らぬ樣にと愼むことなり。我が身すら然かくするに、其愛敬する處の親の身を、死せるとて火に焚くべき者ならんや。棺歛を謹み、制度を守り、埋葬に心を盡して、厚く終りを送るを禮とするは、其愛敬の止むべからざるが爲めなり。王莽が焚如の刑を作り、陳良等を燒しや、燕の騎劫が即墨を圍しとき、人の冢墓を掘り、死人を燒しを、齊人望見て涕泣し怒ること十倍せりとなり。又、司馬晋のとき、後趙の石虎が太子宣を刑するに火を以刑殺せしことあり。是等は皆、尸を焚て以大(*大に辱めること)とすればなり。今ま人の子たるものとして、死せる親を大のありさまにすること、有るべきことならんや。風俗となれば、自然と人の怪まぬことになりゆきぬ。よく思察して、これを見るべし。忍びぬことにあらずや。然れば、今此を禁ぜんとならば、その敬愛の道理を以これにヘ諭し、誠に其忍びられぬことを知しめてこの法を禁止せば、甚だ以行れやすきことならんなり。
○ 北魏の夏侯夬は、南袞州の大中正たり。夬、南方の人辛ェ・遵等と終日遊聚し酣飮して、常に相謂て曰く、人生局促にして何ぞ朝露に異ならん。坐上に相看るも、先後の間のみ。若し先に亡ることあらば、良辰美景のときは靈前にをいて飮宴せよ。僕もの知ことあらば、其饗を受なんとなり。此世の纒滯を離れ思ひ、灑落なるに似たれども、その生を惜み死を哀むの心は實に憐むべけれ。宋の孫は老て致仕せる後にうんと云ふ處に家居せしが、あるとき石守道に對して易の離の卦九三の爻の辭を論じ、さて云るは、樂小人之志、歌而鼓、不大耋之嗟と。これ九三の辭について云ることにて、さて〳〵當然の理を得たる達者の言なり。其意は、離の九三は前明盡なんとして後明繼んとするのときにて、時の盛衰・人の生死、この象にあてゝ見ることなり。夫れ造化の新々とざれば、生ずるあれば死するあり、盛りなるあれば衰るあり。生も常なり、死も亦常なり。老ぬれば老ぬるにまかせ、死すれば死するにまかせて、少しも悲嘆せず。離の前名(*ママ)なんとする象のときに、ほとぎをたゝひてにこ〳〵と歌て、當然を樂み、大耋になりしことをうし忘れて嗟かぬぞとなり。又、韓持國あるとき程伊川と物語せり。持國嗟嘆して云く、今日も暮けりと。伊川曰、これは常理にてあれば何をか嘆ぜんや。持國曰く、されば老ぬれば行き去るにてあれと。伊川曰く、さあらば公は去り玉はで可なりと。持國曰く、何としてかよく去ることなからん。伊川曰く、不ば去で可なりと。是伊川の言も亦その當然の理を知れる者なり。大抵、世人の終りに臨て牽戀して念を遺すや、又佛者の死に及て拐~を弄し、氣力を起し、快活にして逝ぬるも、同く是九三の道理に達せずして當然を知ぬことぞかし。〔世人、死生の間に於て悠々自適の所あるべし。何ぞ必しも過哀せん。又、何ぞ必しも強遣せんや。〕(*頭注)
○ 荀子に、慶者在ルハ(*堂とも。)、吊者在(*慶弔は隣り合わせの意。)と云ひ、淮南子にも欲スル或爲、欲スル或離と云る、誠に人間のありさまなり。b瓔ョむべからず、禍も懼るべからず。唯自己を修め、義命に安じ、憂喜を度外に置んこそ、達者の見とも云べけれ。昔し唐の文宗のとき、宰相王涯と云る人の再從弟に王沐と云ものありけるが老て貧しかりしが、涯が宰相となりしことを聞て、大幸を得たりと思ふて、涯がもとにいたり、簿尉とならんことを求めんとて、長安に留ること二年にして、始て涯に見ゆることを得たり。涯これを待つこと尤も薄し。その後、王涯が嬖せる家奴にたよりて求むる處を云り。涯微官を與へんことを許せり。これより日々涯が門に造りて命を待り。涯罪を得て、其家皆收繋せらるに至て、沐たま〳〵其家にありて涯と共に腰斬せられけり。又、舒元輿が族子に守謙と云者あり。性質愿にして敏なりけり。元輿これを愛して常に相從ふこと十年ありて、ある時何のとがもあらざるに元輿が意に違て大に怒られ、それより日々譴責せられてその家の奴婢までも亦疏畧にせり。守謙安からず思て江南の在所に歸りなんことを請ければ、元輿これを留めざるに由て守謙なく〳〵其家を出ぬ。其夕昭應と云所に到りぬれば、元輿罪を蒙て收族せられぬと聞ぬ。守謙は其家を去ぬれば免れたり。さて〳〵王沐は王涯にうとんぜられなば免れなんものを、幸を得て不幸の禍に逢ぬ。守謙は元輿に愛せられなば禍に逢んものを、不幸なる故に幸を得て免れけり。誠なるかな、人間萬事塞翁馬。
○ 邵康節の詩に、美酒飮ムル微醺、好花半開(*到半開時カ)と云る、甚だ味あることなり。酒は沈醉すべからず、花は盛りを賞玩せざることを云て、畢竟滿れば缺け、盡ぬれば窮ることを警めて、易道に達するの言なり。凡そ人事の間、何ごとも其十分を盡さずして先を殘すこそ、無窮の意あるなれ。よく〳〵思ふべきなり。
○ 唐の于武陵の詩に、花開風雨、人生足別離と。この詩に就て頓阿法師の歌に「世の中はかくこそありけれ花ざかり山風吹て春雨ぞふる」と讀けり。年ごとに春にもなりなば、良辰を卜して花を尋ね柳を問ひ、野橋を過ぎ古寺を訪ふて、其幽賞をきはめんと思へど、正月ムツキの末つかたまでは猶さえかへる空の氣色にて、春とも思はですぎゆき、二月キサラギも半すぎて三月ヤヨヒコロにもなれば、花もやう〳〵盛りにて、うらゝかなる日景を待ぬれども、思ひの外に春雨うちしめり山風吹つゞきて花を散すらんも覺束なきに、幾程もなくはれゆくまゝのどやかなる比になりぬれども、又は病魔に惱まさるゝや或は事故にさへられなどして、カドも出やられで、いつしかに梢に殘る花もあらで春も暮すぎ、繁りゆく葉のみになりて、空しく三春を打過することのみぞ多かりき。誠に武陵・頓阿が詩歌こそよく云得たることにて、何事も心のまゝならぬは人間のあり樣なれ。
○ 和歌に感興のuあること、室先生の駿臺雜話の中に云る處誠に當れることなり。それに就て思ふに、代々の撰集及びゥ家の歌の集中に、世の盛衰を觀じ、或は其感慨の意を述べ、或は我警戒(*戒め)を寓する歌どもこれあるべければ、一意思ある歌どもを、學術ありて歌學に長ぜし人の取捨を審かにして輯録し、一書となさんことこそあらまほしけれ。然あらば、これを讀もの甚だ感發のuあるべきなり。
○ 砥左衛門が十文の錢を滑川へおとしけるに、其道の人家へ人を走らせて、錢五十文を出して續松タイマツを十把買てこれを燃し、川を渡て十文の錢を求め得たり(*と脱)いひけるは、十文の錢を只今求めずは水底に沈てながく失ぬべし。五十文の錢は商人の手に入て永く失ず。彼と我と何の差別あるべきと云しこと、太平記に見えたり。然るに、此に類することあり。程伊川、元豐の比、雍・華の間をゆきし時、關西の學者六七人も從へり。時に程子千錢を以て馬鞍にかけたるに、舍につく頃に失ぬ。僕夫の云けるは、晨裝のとき亡ふに非ず、水を渡りしときに墜すならんと。程子嘆じて曰く、千錢可惜と。坐中の二人聲に應じて曰く、千錢は微物なり。何とて意となすに足んと。後に一人曰く、水中・中、可以一視と。程子曰く、吾有用之物、若メバ水中、則不ルヲ上レ矣と云ること、伊川文集雍行録に見えたり。今、砥は伊川の説を知てしかせるにはあらじ。適々大賢の見識と符合するならん。誠に砥は非タヾ也人とこそ思はるれ。
○ 後鳥忠@のとき、信濃の前司行長、平家物語を作りて生佛といひける盲人にヘてかたらせけり。彼の生佛が生れつきの聲を今の琵琶法師は學びたるなり、と兼好法師が寂寞つれづれ草に記せり。今の世にも、瞽者の琵琶を彈じて平家を語るはこの遺ヘなり。然るに、中華にも是に類することあり。羌南が洗硯新録(*藝海珠塵に収録)に、世の瞽者、或は男或は女、琵琶を彈ずることを學びて、古今の小説を演説し、衣食をモトむ。京師南京に多くこれあり。瞿存齋が梁を過る詩に曰く、陌頭盲女無愁恨、能撥シテ琵琶、説趙家と云り。(*袁枚「随園詩話」、阮葵生「茶余客話」等に引用。)
○ 北齊の常景と云ける人は、學問を好み經史に耽りて、珍異の書に遇ば慇懃に求め訪ふて、價ひの貴賤を不して必是を得んとせる由見えたり。〔北史(*李延寿撰。二十四史の一。)(*あり脱カ)篤志の人はかくあるべきことなり。又、宋の朱昂は前後所の奉賜を以、その三分の一にて奇書を購りとなり。〔宋史にあり。〕(*割注)〔藏書家は奇書を求むるなかれ。好書を求むべし。〕(*頭注)明の楊士奇も、常祿の外に時時賜ふことあれば、百費を節約にしてこれを積蓄へて皆書籍を買ふの資けとせり。十餘年を經て、經史子集類頗る多く蓄へりとなり。〔徐氏筆奄ノ記せり。〕これ等、好處置にて倣ふべきなり。
○ 中華にも神廟に韻語を作り、籤となして吉凶を占ふこと多し。西山の十二眞君(*東晋の浄明道祖師許遜の十二弟子に対する称呼。道教の神名。)に各々詩ありて訓誡の語あり。後人取て籤とす。極めて驗あり。謝洪陸使君の廟(*陸使君廟。謝は「射」か。宋の陸弼が瀘州刺史に左遷されて死んだのが射洪神として祀られた。使君は刺史の尊称。)にも、杜子美の詩を以籤となして驗しあり、と老學庵筆記に云り。又、江東廟は秦のとき石固(*江東嘉濟尊王として祀られる。石公廟。)と云人の神なり。後人その靈應あるに因て、韻語百首を著し籤となせり。神これに乘て、人の問に應じぬ。切に中らざるはなし、と明の一統志に記せり。(*李賢「大明一統志」)
○ 今世に百壽と稱して、壽の字一百を書し掛軸となすあり。百字皆別體にて一つも同じき者なし。埀露・金錯・倒薤などゝ云る種々の體(*雑体。王「古今文字志目」、蕭子良「篆隷文体」等に挙げる。)あり。何れの人に始ると云に、御史ちやうこうと云ものゝ家に傳て、其六世の祖張子成に出るよし、朱國驍フ湧幢小品に見えたり。
○ 癸辛雜識(*周密)に節序交賀之禮、不、毎束刺、僉於上。使一僕ヲシテ上レ。俗以と云り。此によれば、宋の末よりあることにて、今年始の賀禮などに名札を以僕にもたしめてこれをくばらする、この風俗なり。又、堯山堂紀外の明人の條に、京師毎正旦、主人皆出惟置白紙簿筆研於几上。賀客至レバ其名。無迎送也と云り。〔皇明泳化類編別集にも、亦この事を記せり。〕士庶の家にこれをすること多し。これ等其事の簡便なるを好て、其實意を得ざるを嫌はぬは如何ぞや。後世の風俗とこそ云べけれ。
○ 今のカキ判は押字と稱し、又は花押とも云ふ。東觀餘論(*黄伯思)の説に、唐の文皇、群臣の上奏するに眞草を用るに任す。惟、名は草することを不得。遂に名を草するを花押とす。後人の花押は、乃ち草を以その自書に記す故に押字といふ。唐人、及び宋の初め、前輩與書牘に、或は只だ押字と名とを用ゆ。或は己れが名字を書せずして、別に形摸をなすは非なりと云り。又、孫公談圃(*舊小説所収)に、先朝の人書状・簡尺に多くは押字を用ゆるは、簡省に從て以名にかふるなりと云り。然れば、押字は我名を書する處に畧してこれを草書することより起れり。さあることなるに、今の人は種々の形にかきなして全く字體にあらず。さて其書簡の空穴の數にて吉凶を云ひ、其生れの性に叶へりの叶はざるのと云る附會の説どもをなせり。これ等は陰陽占卜家のする處にて、從ふべからず。唯、實名の字を以これを變化してなすべきことあんり。按ずるに、周密が癸辛雜識に、宋の十五帝の御押を記せり。その形ち今の書判に似たり。今こゝに畧しぬ。
○ 省百錢、長百錢(*重さを基準にするか、枚数を基準にするかの為替レート。短陌・省陌と足銭。日本では省銭と長銭。)あることは、梁の武帝の普通年中(*520-527年)に錢を鑄て、嶺東は八十を百とし東錢といふ。江郢は七十を百となす。長錢といふ。これを始とす。その後、唐の末、昭宗のとき、八十を定めて百とせり。五代漢(*後漢)の隱帝(*劉承祐)のとき、三司使(*五代・北宋の官名)王章、又三錢をじ、七十七を以百となし、これを省百錢と云。宋になりては五代漢の制に因て、官に輸す者は八十、或は八十五を用ゆ。然れどもゥ州の私用には四十八錢を用ひたり。太平興國二年(*977年)に始て民間に詔して緡錢びんせん(*銭緡ぜにさしとも。)定めて七十七を以百とす。これより後、公私皆然り。これを省錢と名けりとなり。〔このこと梁書・唐書・宋史・容齋隨筆・文獻通考等に云るをとる。〕この後、元明の間、省百錢あることを不聞。皇朝は天文の比、上杉憲政の家老長尾意玄と云もの制を立て、始て九十六文を百とせり(*九六くろく銭)。其意は闕け滿あることよろしきとて四文を省きて、さて三十二文づゝ三つに分ち、又三十二文を四つに分つれば八文になることにて、かくあれば錢を用ゆるによしとなり。今に至て一等にこの省錢を從ふことなり。
○ 人に酒を進めて其壽を祝すること、詩の大雅江漢の篇に虎拜稽首天子萬壽と云ひ、又風七月の篇に爲春酒、以介眉壽と云る、其初る處にて、史記に淳于が奉とあるや、漢の高祖の置未央宮、奉玉巵、起太上皇と云るなどは、皆その事にてあれば、上壽の禮は戰國以來殊にこれ有りと見えたり。其後に唐などにも、貞觀八年(*866年)、太上皇の西突厥の使者を兩儀殿に宴せるとき、長孫無忌上千萬歳とあるや、又貞觀十六年に宴スル武功士女於慶善宮南門とき、老人等爭萬歳と云ることあり。〔唐書・通鑑等に。〕漢書師古が註に、上壽の義を説て云く、凡言フハスト、謂於尊者、而獻ズルヲ無彊之壽、と是なり。さて生辰を慶賀することは、唐の玄宗の埀拱元年(*685年)八月五日に東キにうまれけるに、開元十七年(*729年)八月癸亥に、源乾曜・張説上疏して千秋の節とせんと請て、これを天下に布き、是日群臣を燕樂し、甘露醇酒を獻じて上萬歳とあるを始とす。その後、肅宗の生日九月三日を地平節となし、代宗の生日十月十三日を天興節とするなどは、皆その生辰に酒を獻じて壽を祝するなり。〔已上は舊唐書等に記せり。〕宋に至ては、太祖の建隆元年(*960年)に二月十六日を以長春節となして百官上廣政殿と云ひ、又太宗の太平興國二年(*977年)に、十月七日を以乾明節となし群臣上崇コ殿と云る〔宋史に。〕等は皆其ことなり。さて年算を以十年ごとにその壽數を祝賀することは、宋の高宗の紹興十九年(*1149年)正月甲寅朔に以皇太后年登ルヲ七十、即宮中慶壽、二十九年正月丙辰朔年八十慈寧殿慶壽とある、其始なり。その後、孝宗の淳煕二年(*1175年)十二月十七日に太上皇七十を以行慶壽、十三年正月一日聖壽八十、行慶壽とあり。〔宋史・玉海等に。〕然れば、年壽を賀することは宋の高宗のときより始ることにて、唐のとき、宋の中葉までは士大夫も年算を賀すること見えず。それ故に、藝文類聚・初學記などにその詩文を不。唐の白居易などの九老の宴會や宋の司馬光などの耆英會は、只長壽を尊てその幸を得たる義を述ることにて、慶壽のことにはあらず。宋の陳恭公の六十九のとき、其姪世脩が范蠡遊五湖圖を獻ずとあるや、錢穆公の生日に楊次公老子出關圖を獻ぜしなど云ことも、只其誕辰を賀することにて、年壽を慶するに非ず。南渡の後に至て、朱子の詩文などに年壽を賀する作見えてあれば、士庶の慶壽も大抵その比より始るならん。宋の末より明に至ては、ゥ家の文集にそれを賀する序文・詩篇など往往にこれあり。但し、 皇朝にては反て中華より先きにこの禮式始まれり。國史によるに、 淳和天皇の天長元年(*824年)十一月に太上天皇〔嵯峩天皇なり。〕四十の賀を行ることあり。これ其始めなり。其後、 仁明天皇の嘉祥二年(*849年)十月に天皇四十の賀を行へり。又、 C和天皇の貞觀五年(*863年)十月に良房を召て宴を賜て、其六十の壽を賀せり。又、 光孝天皇の仁和元年(* 885年)四月に基經の五十の算を賀せり。〔續日本後紀・三代實録等に云り。〕これ等その始めにて、これより後は君臣ともに毎々この慶壽のことこれあり。大抵、 皇朝の儀式は唐に摸すること多きに、此年賀の禮のみ中華に先だつことは亦一奇事なり。
○ 書籍を板に鏤むるの始は、沈存中(*沈括)が筆談(*夢渓筆談)には、唐の人は未だ盛んに之をなさず。五代の馮瀛王(*馮道)が五經を印行せしより始て、その後典籍皆板本となると云り。揮塵録(*王明清)には母昭裔に始ると云り。然るに、石林燕語(*葉夢得)には、書傳の彫板馮道に始るとするは然らず。但、監本(*国子監で刊行した本)の五經の板は道これをするなり。柳琵が詩序に言、某在とき書肆を閲するに、字書・小學率ね彫板印紙といへば唐すでにこれあり。河汾燕間録(*陸深。続説郛所収。)に、隋の文帝開皇十三年(*593年)十一月に敕シテ廢像遺經、悉彫板とあれば、此印書の始る、隋にありて已に然りと云り。胡元瑞の説には、隋の世既に彫本あるに、唐の文皇、何ぞ其遺制を擴めてゥ書を刻せずして、盡く五品以上の子弟を選び、弘文舘に入れて書を鈔せしむるは何ぞや。意ふに、隋の世に彫るところは只浮屠の經像のみにて、他の籍を彫るには及ばず。唐の中葉以後に至て始てゥ書を彫刻し、五代に至りて行はれ、宋になりて盛んに、今において極れりと云り。〔經籍會通(*胡応麟他「少室山房集」所収)に。〕胡氏の説當れり。宋の景コ二年(*1005年)に、太宗國子監に幸して庫書を閲せり。時にモ云けるは、臣少ふして師に從て儒を業とせし時に、經の疏ある者、百に一二もなかりき。その傳寫することの得難ければなり。今、板本大に備れり。斯乃儒者逢之幸也と。宋史モが傳に見えたり。又、宋の淳化中(*990-994年)に、史記・前後漢書を以有司に付して彫印せしむ。これより書籍の刊鏤することu多し、と金臺紀聞(*陸深。続説郛所収。)に云り。これ等によれば、宋の始め既に板本流布せりと見えたれ。又、今の植字板と稱する者は活板とも、又は活字とも云。宋の慶暦中(*1041-48年)に、布衣畢昇と云る者、始てこれをなせしよし、沈存中の筆談に云て、其作の法も亦詳かにこれを記せり。又、宋朝類苑(*宋朝事実類苑)にもこれを載せり。
○ 古の書籍は、皆卷軸なり。唐に至て始て葉子となせり。今の書冊なり、と程大昌の演繁露(*説郛所収)に云り。


講習餘筆 卷之三


○ 解題(内藤耻叟) 講習餘筆序(伊奈忠賢) 自序 目録   巻1   巻2   巻3   巻4
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