逸話文庫:1:文藝:43

内外古今 逸話文庫 第一編

文藝

意匠いしやう慘憺さんたん經營中けいゑいのうち

狩野守信は、いつに探幽齋とがうす、名畫めいぐわの聞え高き人なり、其曾て泉州堺の一國寺にかくたりしとき、徒食としよく三年の久しきに及ぶも、未だ曾て筆を採りしことさへなければ、同寺の老僧はしきりに其揮毫きごうを望みて責むるに、其徒食安逸あんいつ、一家のりうを成すものに似ざるを以てせしかば、守信は其望を辭するあたはず、たゞちに筆を採てゑがかんとせしが、別に意匠の浮かばざりしを以て、其儘そのまゝに過ぎ去りたり、しかるに其後四五日をて、童僧どうそう住持ぢうじの室に至り、告ぐるに守信のきやうせるを以てせしかば、住持は驚きせ至て之をうかゞひしに、守信は深夜起き出でゝ障子の腰板に身を寄せ、さま〴〵に姿勢をへんじて、寝起するさまを障子にうつしりしが、翌朝よくてうに至りて突然筆を採り、一室の杉戸に鶴の臥したるものをゑがきたり、然るに其筆勢絶妙にして、凡常ぼんじやうの及ぶ所にあらざりしかば、住持はその狂せるに非ざるを信じ、心をやすんじて其す所にまかせしに、後十餘日間、守信はひるは筆を採て昨夜なす所の躰姿すがたをうつし、夜はねずして影を障子にうつし、拮据きつきよ十餘日にして、つひに二十五羽の鶴を畫き出だせり、然るに其後、住持また深夜に守信の室を窺ひし時、守信はひぢを張り足を伸ばし手を口にてゝ、鶴の臥したるさまを障子にうつし居たりしかば、住持は翌日守信のへやに至り、今朝けさ畫き玉ふ所の鶴は、必ずくのごと臥したる鶴のならんと云ひしかば、守信は大に驚き、如何いかんしてそれを知るやと問ひしに、住持は直ちに昨夜さくや窺ふ所の姿を示し、もつそのひそかに窺ひ知りたるよしを告げたり、守信聞てます〳〵驚き、直ちに筆を採て他の二枚に畫くかとおもひのほか、其れには描かずして、馳せて別室に至り、其杉戸にひのき一本をゑがいて、つひこの寺を立ち去りたり、こゝおいて住持は其磊落らいらくなるに驚き、かつ放慢はうまんなるをいかりしに、のち十數日を經て、守信再び歸りきたりしかば、住持は其何故なにゆゑに歸り來りしやを問ひしに、守信は平然として、予貴寺きじを去つて東國に下りしに、みちにして箱根山中に、一の古檜枝こくわいし予がかなふものをみとめたり、よつて先きに書きのこせし檜樹ひのきの枝、一枝ひとえだ足らざるをゑがき足さんが爲めに來れるなりと、直ちに筆をふるつて一枝を畫き添へ、直ちに筆をおさめて歸り去れり     

薬玉
章末の挿画(文藝<了>)