逸話文庫:1:文藝:33

内外古今 逸話文庫 第一編

文藝

物徂徠ぶつそらい大岡越前守が學問せんといふをとゞ

大岡越前守えちぜんのかみ町奉行まちぶぎやうたりしとき、一日いちじつ徂徠を招きてこれをきやうし、其上にて越前守いへるは、それがし要職をかたじけなふし、數萬の商民を支配するには、學問なくしては萬事行ひがたかるべし、ねがはくは入門してをしへを受けんと、徂徠の云、君がげん善し、されども君敏才びんさいありてうつたへを聽く、し今より學問し給はゞ、あるいつひ素志そしへんじ、本職をかろんじ政務をゆるがせにするに至るべし、學問は無用にしたまへと、越前守いはく、しからば學問したるものは職務を勤めがたきや、徂徠の云、要職を勤めし人多くは博學なり、れ幼時より學問して自然にその道を得たるなり、學問は大道たいだうなり、物を見かけて急に學び用をなすべきにあらず、ゆゑなまじいに學問して、いさゝか事に通ずれば、萬事に見え、かへつ差障さしさはりとなるべし、それともに學問し給はんとなれば、退休たいきうのちいとまありて學び給はゞ、從來の頴明えいめい、多少る所あるべく、自然しぜん家庭の敎育ともなれば、れ又無益にあらず、たゞ當分たうぶんの學問はかへつさまたげなるべしと、越前守なるほど聞えたりとて、つひに學問の沙汰さたなし (小宮山南梁)