内外古今 逸話文庫 第一編
文藝
○ 圓山應擧樵夫牧豎を師とす
或る時應擧に
臥猪の
畫を求むる者あり、應擧いまだ臥猪を見ず、心に之を思ふ、
矢背に老婆あり、
薪を負ひて常に應擧が家に來る、應擧婆に問ふて言ふ、
汝野猪の
臥したるを見たることありや、婆云ふ、たま〳〵山中にて見ることあり、應擧云、汝かさねてこれを見ば早く吾にしらせよ、
篤く賞すべし、婆
諾して去る、後一ヶ月ばかりに、老婆あはたゞしく來て
告ぐるやう、
我家の
背なる竹林中に野猪臥し居るなり、應擧
大に
悅び、汝
先づかへれ、必らず驚かすべからずと
戒めて、急に酒食を
携え、門人一兩輩を
將て矢背に至れば、野猪は
猶竹林中に臥したり、應擧
乃ち筆を
執りてこれを
寫し、婆に
謝して家に歸り、其後
淸畫して
工描已に整ふ、時に
老翁の
鞍馬より來るものあり、應擧
猶臥猪の事を思ひ居たれば、問ふて云、汝臥猪を見しことありや、翁云山中常に之を見る、應擧その
畫く所を
出し示して云、
此畫如何、翁熟視する
良久しくして云、此畫よしと雖も臥猪にあらず、
病猪なり、應擧驚いて其
故を問へば、翁云、
凡そ野猪の
叢中に眠るや、毛髪憤起四足
屈蟠、おのづから勢ひあり、僕
曾て山中に病猪を見たるに、其
狀實に此畫の如し、應擧
是に
於て始めて悟り、翁に臥猪の
形容を問ふに、翁
之を説くこと
詳かなり、應擧さきの畫を棄てゝ更に臥猪の
圖を成す、四五日ありて矢背の婆來る、應擧
彼の竹林中の臥猪を問へば、婆云あやしむべし、
彼猪その翌日死したり、應擧いよ〳〵鞍馬翁の言に感ず、一旬を過ぎて翁又來る、應擧その後ちに
畫ける所を示せば、驚嘆して云
是れ
眞の臥猪なりと、應擧よろこび厚く翁に謝したり、其畫に心を
用ゐること
此くの
如し、
宜べなり我邦絶妙の
畫人として、其
芳名今日までも
馨しきこと、應擧また
或る時
野馬の
艸を
喰ふところを畫けり、一
老農之を見て
難じて曰く、是れ
盲馬なり、應擧その故を問へば、翁云ふ、
夫れ馬の草を食はんとするや、必らずまづ其眼を
閉づ、
草葉の目に
入ることを
厭ふなり、
然るに此
畫馬草中に鼻づらを入れながら、猶
兩眼を
開きてあり、盲馬にあらずして何ぞや、應擧深く
其説に感じ、畫いよ〳〵上達したりと云ふ (瀧澤馬琴)