逸話文庫:1:文藝:19

内外古今 逸話文庫 第一編

文藝

○ 圓山應擧樵夫しゃうふ牧豎ぼくじゆを師とす

或る時應擧に臥猪ふすゐを求むる者あり、應擧いまだ臥猪を見ず、心に之を思ふ、矢背やせに老婆あり、たきゞを負ひて常に應擧が家に來る、應擧婆に問ふて言ふ、なんぢ野猪やちよしたるを見たることありや、婆云ふ、たま〳〵山中にて見ることあり、應擧云、汝かさねてこれを見ば早く吾にしらせよ、あつく賞すべし、婆だくして去る、後一ヶ月ばかりに、老婆あはたゞしく來てぐるやう、我家わがいへうしろなる竹林中に野猪臥し居るなり、應擧おほいよろこび、汝づかへれ、必らず驚かすべからずといましめて、急に酒食をたづさえ、門人一兩輩をて矢背に至れば、野猪はなほ竹林中に臥したり、應擧すなはち筆をりてこれをうつし、婆にしやして家に歸り、其後淸畫せいぐわして工描こうべうすでに整ふ、時に老翁ろうわう鞍馬くらまより來るものあり、應擧なほ臥猪の事を思ひ居たれば、問ふて云、汝臥猪を見しことありや、翁云山中常に之を見る、應擧そのゑがく所をいだし示して云、この如何いかん、翁熟視するやゝ久しくして云、此畫よしと雖も臥猪にあらず、病猪べうちよなり、應擧驚いて其ゆへを問へば、翁云、およそ野猪の叢中そうちうに眠るや、毛髪憤起四足屈蟠くつばん、おのづから勢ひあり、僕かつて山中に病猪を見たるに、其さま實に此畫の如し、應擧こゝおいて始めて悟り、翁に臥猪の形容けいようを問ふに、翁これを説くことつまびらかなり、應擧さきの畫を棄てゝ更に臥猪のを成す、四五日ありて矢背の婆來る、應擧の竹林中の臥猪を問へば、婆云あやしむべし、かの猪その翌日死したり、應擧いよ〳〵鞍馬翁の言に感ず、一旬を過ぎて翁又來る、應擧その後ちにゑがける所を示せば、驚嘆して云しんの臥猪なりと、應擧よろこび厚く翁に謝したり、其畫に心をもちゐることくのごとし、べなり我邦絶妙の畫人ぐわじんとして、其芳名はうめい今日こんにちまでもかんばしきこと、應擧またる時野馬やばくさくらふところを畫けり、一老農らうのう之を見てなんじて曰く、是れ盲馬もうばなり、應擧その故を問へば、翁云ふ、れ馬の草を食はんとするや、必らずまづ其眼をづ、草葉そうようの目にることをぃとふなり、しかるに此畫馬ぐわば草中に鼻づらを入れながら、猶兩眼れうがんひらきてあり、盲馬にあらずして何ぞや、應擧深くその説に感じ、畫いよ〳〵上達したりと云ふ (瀧澤馬琴)