内外古今 逸話文庫 第一編
文藝
○ 石井潭香左手を以て雜巾を掛る
書家石井
徽言(號潭香)はもと幕府伊賀
衆たり、常に酒を
嗜み、
誕任自ら
恣にし、往々酒癖ありて人を驚かすことあり、壯年の比家祿を弟に
襲がしめ、長崎に游歷し、
淸客江芸閣に從學し、其業
益進む、
其後松前家の賤役に身を寄せしが、或時己が預る處を
灑掃し、雜巾を掛くるを重役見て、
汝いかなれば只左手を用ひて曾て
右手を使はざるやと、潭香
從容答て
云く、右手は千金にも換へ難しと、重役其故を
詰る、潭香云、右手は
文字を書するの外使用せず、雜巾はおろか
雨日に傘を
執るも左手を以てすと、重役いふ、汝
左程自重せば我面前に於て試みに
寫し見せよと、潭香
言下に
筆硯を
取出し、筆を
下せば
雲烟飛動の妙あり、重役舌を卷て其書の
遒逸に驚く、此事いつしか藩主の聞く所となり、
忽士籍に進め、祿をも増給し、藩主
從てその書學を受くるに至る、是より書名
都鄙に
播けり、
雑巾掛けの挿画
出典未詳。
音「しゅういつ」。原文の儘。