逸話文庫:1:文藝:07

内外古今 逸話文庫 第一編

文藝

○ 石井潭香たんこう左手さしゆを以て雜巾をかけ

書家石井徽言きげん(號潭香)はもと幕府伊賀しゆたり、常に酒をたしみ、誕任たんにん自らほしいまゝにし、往々酒癖ありて人を驚かすことあり、壯年の比家祿を弟にがしめ、長崎に游歷し、淸客しんかく江芸閣かううんかくに從學し、其業ます〳〵進む、其後そのご松前家の賤役に身を寄せしが、或時己が預る處を灑掃さいそうし、雜巾を掛くるを重役見て、なんぢいかなれば只左手を用ひて曾て右手ゆうしゆを使はざるやと、潭香從容じうえう答ていはく、右手は千金にも換へ難しと、重役其故をなじる、潭香云、右手は文字もじを書するの外使用せず、雜巾はおろか雨日うじつに傘をるも左手を以てすと、重役いふ、汝左程さほど自重じぢうせば我面前に於て試みにうつし見せよと、潭香言下げんか筆硯ひつけん取出とりいだし、筆をくだせば雲烟うんえん飛動の妙あり、重役舌を卷て其書の遒逸ゆういつに驚く、此事いつしか藩主の聞く所となり、たちまち士籍に進め、祿をも増給し、藩主したがつてその書學を受くるに至る、是より書名都鄙とひけり、   
雑巾掛け
雑巾掛けの挿画