内外古今 逸話文庫 第一編
文藝
○ 秦世壽初めて漢語を用う
秦世壽は通稱壽太郎、尾張の世臣にして鼎が子なり、幼にして鼎の薰陶を承て内外の典窺はざる所なし、性又篤實にして弟子を敎授すること殊に丁寧なり、世壽累世の儒家なれども、典籍講義の外平生絶て漢語を口にすることなし、或年の夏日に世壽その門人張卯之吉の家に來り、炎熱堪へ難し、幸に新汲水一碗を參らせよと云ふ、張多年世壽に從學すれども、曾て一言の漢語を聞かず、然るに此時始めて一度の漢語を用ひられしは珍しとて、人に語りしとなり(同上)
秦松洲。名は世寿、字は無疆、通称は寿太郎。松洲と号する。秦滄浪の男。尾張藩儒。安政六年(1859)、六二歳で没する。(長沢孝三編『漢文学者総覧』)「世寿」は「よゝほぎ」と訓んだらしいことが「名古屋市博物館だより」207号に見える。漢語音で読んでいないことが注目される。
秦滄浪。名は鼎、字は士鉉、または子鉉、通称は嘉奈衛。滄浪、また小翁と号する。秦峨眉の男。尾張藩儒。細井平洲に学ぶ。天保二年(1831)、七三歳(あるいは七一歳とも)で没する。(『漢文学者総覧』)「春秋左氏伝校本」等を著す。月光亭主人牧墨仙(墨僊)『一宵話』(ひとよばなし)(日本随筆大成所収)第二編の序に「秦鼎」の陰刻があり、同じ尾張藩士で浮世絵・銅版画家の墨僊と親交があったか。
元来は仏教語で内典は仏書、外典(げてん)は儒書等、仏典以外の書を指すが、ここは儒者なので、内典は儒書、外典は仏書、和書等を指す。秦滄浪、世寿ともに校勘を得意としたとされるが、江戸中期以降の校証・校勘学の流れを承けているところもあるか。
未詳。張は修姓によって氏姓のうちの一字をとったものか。
修姓は江戸中期の古文辞学派以来流行したと言われる。
「幸(さいは)ひに~せよ」は願望形で捉える。「どうか~していただけるとありがたい」というほどの意。「どうぞ汲みたての井戸水を一杯もらえまいか。」という要求をしたこと。
「幸ふ」で「ねがふ、こひねがふ」という読みもある。
一気にいくつもの漢語を使ったこと。「炎熱・(堪え難し)・新汲水・一碗」など。なお、「新汲水」は「(井戸から)汲みたての水」の意。汲み置きではぬるくて耐えられないからだろう。「新」は「~したばかり」の意。
現代語では「新月」はまだ月影が見えない状態も指すが、漢語では「昇ったばかりの月」「月の初めの月影(三日月など)」の意を表す。
譜代の家臣。
ふだん漢語を使わないのは好尚によるものか、他の士分の者に儒者として見られることを嫌ったか、あるいは国学等の影響もあるか。
祖父峨眉(名原丕また元丕、字子恭、東菰・峨眉等と号した。)も服部南郭門の古文辞学の儒者であり、細井広沢にも学んだ。刈谷藩儒。