逸話文庫:1:文藝:02

内外古今 逸話文庫 第一編

文藝

○ 鈴木朗院本を以て文章の師となす

鈴木らう(號離屋りをく)字は叔淸しゆくせい、通稱常介つねすけ、尾張の儒官なり、えうにして頴敏、日々書千餘言をしやうし、ほゞ其意に通ず、世以て神童なりと稱す、十歳文をくし、長ずるに及びていよ〳〵精工を加ふ、淸人しんじん錢泳其文を見て稱し云ふ、先秦兩漢の風ありて唐宋八家のならひなしと、朗もと儒士なれどいづるときは必ず平常へいぜい近松出雲等作の院本ゐんぽんを懷にし、倦む時は商家の檐前えんぜん路傍の木石を嫌はず、腰打据うちすゑて院本を展讀するをたのしみとす、人怪んで問ふ、そも〳〵院本は猥褻野卑、讀書するもののかりそめにも手を觸るべからざるものに非ずやと、朗曰く否にあらず、近松出雲等はいふも更なり、すべて院本の作者はよく人情世態せたいに通曉し、とても和漢文の及ぶべきものにあらず、さればおのれは此院本を以て文章の組織を工夫するなりと、人其けん意表に出づるに驚く(同上)