逸話文庫:1:武事:20

内外古今 逸話文庫 第一編

武事

○ 賢母兒節をはげます

織田信孝のぶたか秀吉と弓箭ゆみやをとる時、信孝のの人を人質に、秀吉のもとにいだし置かれしを、はりつけにしてちうせらる、かの乳の人の子は、幸田彦右衛門とて信孝の士大將さぶらひだいしやうなり、これよりさき、秀吉信孝の長臣等ちやうしんらかたらはるゝに、岡本下野守しもつけのかみは同心して信孝にそむきけれども、幸田は背かず、幸田が母誅せらるゝに及びて、子の彦右衛門にしよを送りて、我今むなしく成ることゆめ〳〵なげくべからず、親は必ず子に先だつ習ひなり、たゞ忠義を守りて、君にな背きまゐらせそ言遣いひつかはしければ、聞く人感じあへり、天正十一年四月十八日、秀吉の先陣信孝の地に責入せめいる時、幸田兄弟いさぎよく討死うちじにしたりけり、幸田が母はまことに漢の王陵わうりやうが母の志とも云つべしたゞし王陵が母は天下を志ろしめすべき高祖の事をりたれども、只今たゞいま危難に迫れる織田家にちゆうつくせといへる、まことありがたきことなるべし (湯淺常山)