← 次の章 目次 前の章 →
|

ことば

年取(としと)つた母と兄弟(きやうだい)二人とのある家庭(かてい)があつた。家には百萬(ひやくまん)の財產(ざいさん)があつて、村(むら)ぢゆうで一番の金持である。兄は既(すで)に結婚(けつこん)してゐて、いく年(ねん)もこの村で勉強(べんきやう)してゐた。どんな仕事をさせても上手(じやうず)で、人に對(たい)しても、丁寧(ていねい)で禮儀(れいぎ)正しく、村の人達(ひとたち)は、みなかれを褒(ほ)めたゝへてゐた。弟の方(はう)は年も若(わか)く、それに生(うま)れつき馬鹿(ばか)でのろまで、書物(しよもつ)は讀(よ)めず、話をさせてもはつきり返事(へんじ)もできぬふうであつたから、村人からは、いつも白痴(はくち)扱(あつか)ひをされてゐた。

ある日、隣家(りんか)の張奧(チヤオ)さんが、馬鹿息子(むすこ)に結婚の話をもつてきた。母は「たいへん結構(けつこう)なお話ですが、あの子は顏(かほ)も醜(みにく)く、あいさつも滿足(まんぞく)にいへぬくらゐ(い)なので恐(おそ)らくご縁(えん)もありますまい」

張奧(チヤオ)さんは、

「そんなことは構(かま)ひません。たゞ財產(ざいさん)さへあれば、正直(しやうぢき)のところ、それで結構なのですよ」といふ。

やがてこの結婚話(ばなし)は成立(せいりつ)した。間(ま)もなく結婚式が擧(あ)げられた。結婚して三日目(みつかめ)に里歸(さとがへ)り〔花嫁の実家に挨拶に行くこと。近隣へのお披露目の意味もあったようだ。〕がある。どうしても避(さ)けられぬ村の仕來(しきたり)〔伝統的な約束事〕である。母親はたいそう心配(しんぱい)して、馬鹿な息子(むすこ)が話もできないで、もの笑(わら)ひになりはせぬかと心配した。いろいろ考へた揚句(あげく)、うまい案(あん)を考へついた。百兩(ひやくりやう)の金(かね)を用意(ようい)させ、子供(こども)にもたせて、話し方を習(なら)ひに旅(たび)にだすがいゝ。

馬鹿な息子(むすこ)は、 家をでると、 遠くもいかぬうちに、 すぐある森に着(つ)いた。 たくさんの鳥が亂(みだ)れ飛(と)んで鳴(な)いてゐる。突然(とつぜん)に人が森のなかにきたので、鳥は人をみると、みな飛びたつた。

その人は空を見あげて「一鳥(いつてう)、林(はやし)に入(い)りて、百鳥(ひやくてう)、聲(こゑ)なし」〔「鶴の一声」のような格言〕と叫(さけ)んだ。

この馬鹿者(ばかもの)は、それを聞くと、とても不思議に思ひ、三十兩(りやう)の金を使つて、その骨(こつ)をその人から會得(ゑとく)した。

また路(みち)を進(すす)んでいくと、破(やぶ)れむしろで被(おほ)うた小さな狹(せま)い厠(かはや)がある。汲取屋(くみとりや)が、中にはいつていつた。

「蓆(むしろ)を立てゝ圍(かこひ)となし、將(まさ)に身を安(やす)んずべし」〔安心立命というような儒家の語。ここは文字通りの意。〕

馬鹿な息子は、これを聞いて、また譯(わけ)もわからぬのに感心(かんしん)し、更(さら)に三十兩の金をだして、この言葉を覺(おぼ)えた。

二人が並(なら)んで歩いていくと、大きな黄色(きいろ)い犬が甚(はなは)だしく猛(たけ)り立つて、二人に向かつて吠(ほ)えついた。汲取屋(くみとりや)はそこでいつた。

「老(お)いたる犬、老いたる犬、吠(ほ)えるなかれ。歸(かへ)らば、汝(なんぢ)に糞(くそ)を分(わ)け與(あた)へん」これを聞いて、馬鹿者は、とても意味深(いみぶか)い言葉のやうに思ひ、そこでかれのもつてゐる殘(のこ)りの金を全部(ぜんぶ)使つて、 この言葉を覺(おぼ)えた。

里歸(さとがへ)りの日が來(き)た。舅(しうと)の家へいくと、案(あん)の定(ぢやう)〔思ったとおり〕、たくさんの人が花婿(はなむこ)の駕籠(かご)を迎(むか)へてゐる。門をはいると、そこには大勢(おほぜい)の人が靜(しづ)かに並(なら)んで、かれを出迎(でむか)へてゐた。だれも、かれが言葉遣(ことばづかひ)など、この間(あひだ)ぢゆうから學(まな)んでゐたなどと知つてゐるものはない。早速(さつそく)かれは、得意(とくい)げに、

「一鳥、林に入りて、百鳥、聲なし」

といつた。花婿を迎へて、花嫁(はなよめ)の里は、心から歡迎(くわんげい)してゐるのである。花婿が門をはいつて、水を打(う)つたやうに、靜かなところで、かういつたものだから、並んでゐた親類(しんるゐ)の人たちは、花婿の頭(あたま)のよさに感心した。花婿(はなむこ)は、なか〳〵學問(がくもん)のある人だと思つた。親類の人が、かれを迎へて、奧(おく)の部屋に導(みちび)き、かれを正座(せいざ)に坐(すわ)らせた。そこでまた、修得(しうとく)した第二句(く)を用(もち)ひた。

「蓆を立てゝ圍となし、將に身を安んずべし」

舅や姑(しうとめ)は、この言葉を聞いて、どつと笑つた。こんな立派(りつぱ)な部屋(へや)なのに、花婿には、蓆(むしろ)がこひの、きたない部屋のやうに思ふのであらうか。思へば、なか〳〵金持の息子だけあつて、育(そだ)ちが高いなと感心した。やがてかれは水(みづ)を貰(もら)はうとして大聲(おほごゑ)でいつた。

「老いたる犬、老いたる犬、吠えるなかれ。歸らば、汝に糞を分け與へん」

こんなことをいつたので、急(きう)に花嫁の兩親は怒(おこ)つてしまつた。われ〳〵老夫婦を犬に譬(たと)へてゐる〔老狗は罵倒語〕。そして水をもつて來たら、糞をやるといふ。花嫁の兩親は、顏色(かほいろ)を變(か)へて立腹(りつぷく)した。これで反(かへ)つてまづくなつた。いひ切らないうちに、大勢(おほぜい)の人が、杖(つゑ)をもつたり、棒(ぼう)をもつたりして、目茶苦茶(めちやくちや)にかれを撲(なぐ)つた。遂(つひ)に追(お)ひだされてしまつた。