南山の雛
兄嫁と娘の二人がゐた。二人の間柄は、義理の姉妹ではあつたが、眞實の姉妹のやうに、たいへん仲が良かつた。生れつき二人とも美しく利口で、しかも人に親切であつたから、だれひとりとして、かの女たちを敬愛しないものがない。特に兄嫁の方は賢くて、姑にも親孝行であつたので、近隣の稱讃の的であつた。
兄嫁が不憫でならないのは、姑のもとで生活してゐることである。姑は亂暴な腹の黒い女であつた。兄嫁は、毎日姑にどのくらゐ叱られるか分らない。譯も分らずに打たれたり、なんでもないのみ怒鳴られたりする。食べ物も食べさせられないときがある。飮物も飮まされないときがある。甚だしいときには、いろいろの苦役をさせられて、虐待をうけた。義妹は蔭で母親をいさめたが、母親はすこしも聽かぬどころか、ますますいろいろと息子の嫁を虐待する。こんなふうで、義妹はなんとも手がでなかつた。たゞあとで泣くばかり、義姉のために悲しむばかりである。
ある夜、姉妹は、部屋で痛む頭をおさへて泣いてゐた。——といふのは、けふ母が嫁を激しく撲つたので、娘は傍でみてゐて、見るに忍びないで、なんども母をなだめた。母も娘と口論して、一度ひどく怒鳴つたのだつた。——思ひがけなく、二人が晝間のことを語り慰めあつてゐるのを、紙の窓から母が聽いてゐた。姑はひそかに心のなかで考へた。
「年寄を嫁が不幸に陷れようとしてゐるのだな。見てゐなさい。打ち殺さずにはおくものか」
姑ははじめすぐに部屋にはいつて、嫁を撲たうと思つたが、また思ひ返して、殺さうと決心したからには、殺してしまへば、それでいいのだ、あわてゝ、失敗するには當らないと思つた。
つぎの日、姑は嫁を呼んで、とてもやさしく猫撫で聲で、かの女にいつた。
「いま、あいにく雇人がゐないので困つてゐるが、南山の麥はもう實り熟してゐる。それを取らないのは誠に勿體ない。おまへは家にゐても暇で用がないから、この晝食のお辨當をもつて、麥を取りにいつてください。四、五日で刈取りも濟むと思ふよ」
かういはれて嫁は、冷水を浴びたやうに、ぞつとして、震へがとまらない。眼からは、涙が流れて、とめどもない。
「分らずやの、つけあがりもの。ひとが優しく相談すりや、反つて泣き叫ぶ。おまへは殺されるとでも思ふのかい。えゝ、思ひ違ひをしないでおくれ」
姑は嫁がいぎたいない〔いきたくないカ。「いぎたない」は寝坊の意。〕ふうに泣いてゐるのを見て、非常にかの女を罵つた。ぷりぷりしながら部屋をでていつた。
嫁は姑がでていく後姿をみつめながら、なほさら悲しくなつて、遂に身を震はして泣いた。じぶんの一生を考へると、將來もこのやうに辛いだらう、どんな幸福な日が訪れよう。そこで思ひ切つて勇氣をだし、決心をした。鎌と繩と食糧とをもつて、傍目もふらずに南山へ目指して歩いた。あまり遠くまで歩かないうちに、うしろからじぶんを呼ぶ聲がする。ふり返ると、いふまでもなく、義妹が追ひ馳けてくるのである。かの女は、義妹にいつた。
「妹よ。家で母あさんの側にゐないで、わたしを追ひかけて、なにしに來たの。南山はとても暑く、それに人を食ふ猛獸が現れる。はやく歸りなさい。母あさんが知つたら怒ります」
「恐くはありません。猛獸がでるといふ噂なので、そつと、姉さんのあとを追つてきたのです。いつしよに連れていつてください。姉さん。あなたは思ひ切つて、決心しても、わたしに一言も打明けてくれない。だからじぶんできたの……」
義妹は、 言葉がとぎれとぎれになつて泣きだした。
「ありがたう。いつも〳〵あなたのなさけは身に沁みます。生れ變つても報いきれない。お母あさんが、わたしだけに行かせようとしたものを、どうしてあなたを呼べませう。今まではどんなことでも、あなたに話してゐましたが、けふのこの危險なことを、〔どうして〕わたしは、あなたに敎へられませう。あなたが、こんなに優しくしてくれたのは、神さまが憐んでくれたのかもしれない。これからのち、どんな意外なことが起るか分りませんが、いつかまた逢ひませう。お歸りなさい。ありがたう。歸つてください。年取つたお母あさんのために孝行してください。早く歸つてあげて」
「連れていつてくれなければ、死んでもこゝから歸らない」
妹は泣き縋つて歸らない。仕方なく妹を連れていくことにした。
二人が鬱蒼と樹木の繁つた南山で麥を刈つてゐると、知らないうちに、草叢から二三匹の惡い獸がでてきた。妹の生き生きした美しさを見て、とやかくいはずかの女をさらつていつた。姉は驚いて、大聲で泣き叫び「助けて、助けて」といつた。
人を呼んだが、この深山にどこに人がゐよう。追ひかけたが、三寸の小さな纏足〔人為的に成長を止めた足〕では、どうしても走られない。姉が家に知らせに歸つても、姑が反つて極度に怒るばかりだらう。悲嘆の極に達した姉は、進退谷まつて大きな聲で妹の名を呼びながら谷底に妹を求めに飛び込んだ。
かの女が谷底で死んでから、亡骸は一羽の小鳥になつて、家へ飛んでいき、土塀のうへから、姑にいつた。
「南山の谷で、 惡い猿が雛をさらつていきました」
雛(チュ)とは妹の幼い名である。その後、しば〳〵家のまはりへ來ては鳴いた。姑はこの鳥が鳴くのをうるさがり、石を投げた。鳥は飛び去つた。しかし依然として大空で鳴き叫んでゐる。
「南山の谷で雛が惡い猿にさらはれた」
その後、毎年麥を刈るころになると「雛が惡猿にさらはれた」と叫ぶ鳥〔啼き声が「悪猴掠雛」と聞き做される緋水鶏という。日本では水鶏は戸を叩く声で啼くとされた。〕が村に飛んで來る。これは、可愛さうな兄嫁の變つた姿である。