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結縁豆

藥堂語錄

方曉卿(はうげうけい)の蠧存(とそん)

最近古書の値(ね)がえらく騰(あが)つたが、それでも洋書に比べると廉(やす)いので、まだしも少し買つて讀むことは出來る。私の讀書にはこれといつた限界をきめる程の專門などありはしない。ただ興趣(きようしゆ)にまかせて、簡單に言へば目的は知りたいといふだけで、しかもずる〳〵ずる〳〵引張(ひつぱ)つて行つていささか蕪雜(ぶざつ)に近いのである。いつも一部の書物を讀むと、すぐその著者の別のものを探(さが)して見たいと思ふ。その結果は往々(わうわう)にして思はぬ金を使ひ、しかも大抵の場合は讀んでも一向(いつかう)面白くも何(なん)ともないことが多いのである。姚福均(えうふくきん)〔清代〕の『鑄鼎餘聞(ちうていよぶん)』四卷を買ひ入れ、非常に事變(ことかは)つて面白かつたので、いろいろ苦心して『補籬遺稿(ほりいかう)』八卷、『海處藝文志(かいしよげんもんし)』六卷を搜して來た。その次には方旭(はうきよく)の『蟲薈(ちゆうくわい)』五卷で、それに續いて搜して來たのに方曉卿(はうげうけい)〔暁卿は方旭の字という。〕の『蠹存(とそん)』二卷(光緒戊戌〔光緒二四年(一八九八)〕刊本)がある。『蟲薈』は材料を收羅(しうら)すること頗る多く、動物に關する一部の類書(るゐしよ)〔事典〕といふことが出來る。特に蛇の部分は、讀んでゐて何だか珍らしい昔話でも聽いてゐるやうで、頗る面白い。ところで『蠧存』はたしかにこれは怪書(くわいしよ)である。目録は天文(てんもん)、時令(じれい)、神鬼、形體、婦嬰(ふえい)〔婦人と子ども〕、食物、植物等十八目(もく)に分れ、序に據(よ)れば「凡そ因應(いんおう)〔因果応報〕の大、事物の細、畢(ことごと)く具(そな)はらざるはなく、以て見聞を廣(ひろ)くし、日用に裨(たす)け〔裨益〕あらしむ」と言つてをり、まづ萬寶(ばんぽう)全書〔家庭百科事典〕の類に似てゐるが、しかもそれが實は筆記(隨筆)なのだから變(かは)つてゐるのである。た-へば「時令(じれい)」〔年中行事・時節の気候〕の中にいろんな禁忌(きんき)〔タブー〕を列擧(れつきよ)し、宮室の方位(はうゐ)や、方藥(はうやく)にも神異を雜(まじ)へ、その旨(むね)とする所は方伎(はうぎ)〔医術〕に近いやうで、現代語を用ひるならばさしづめ〔さしあたり、つまるところ〕非科學的と言はれさうなところである。しかしその爲に亦(また)いろいろ澤山の古い傳承(でんしやう)や或は民俗を保存した好資料でもあるわけである。「神鬼」といふ目は頗る『酉陽雜爼(いうやうざつそ)』〔唐・段成式〕に比擬(ひぎ)するに足り、その鬼(き)を説くや特に妙語(めうご)が多い。たゞ出處(しゆつしよ)を記してないことが少しく惜しまれる。言ふことが必ずしも一致しないから、どうも一つの源(みなもと)から出たものではあるまいと疑はれる。『水鬼』といふ一則に

鬼は紙灰の臭(にほ)ひがするものだが、水鬼だけは生腥(なまぐさ)い。もしも人が船の中で生腥い臭ひを嗅(か)ぎつけたならば、すぐ空に向つて「囂(がう)」の字を書けば害を受けない。

とある。案ずるに溺鬼(できき)は生腥い臭ひがするといふのは『子不語(しふご)』(袁枚の小說集)〔清代〕にも見える。すでにこれをば水怪(すいくわい)と視(み)てゐたが故(ゆゑ)ではあるまいか。「囂」の字を書けば害を避けることが出來るといふのも不思議で、符咒(ふじゆ)の心理も大いに研究の價値がある。たゞ恐らくさういふ閑人(ひまじん)は滅多(めつた)に得られまいが。