結縁豆
藥堂語錄
右台仙館筆記
『藝風堂文續集』〔清・繆荃孫〕卷二に『兪曲園先生行狀』〔兪曲園は清・兪樾〕あり、その最後に云ふ、
古來の小說のうち、『燕丹子』〔漢代以前、佚名氏〕は傳奇の體である。『西京雜記』〔伝晋・葛洪〕は小說の體である。『太平廣記』〔北宋・李昉等〕に至つては、博采を以て宗旨と爲し、兩體を合して一帙と爲したもので、後人は遂に分つことが出來なくなつてしまつた。先生の『右台筆記』〔右台仙館筆記。右台仙館は兪樾の書斎名。〕は、晉人の淸談を以て宋人の名理〔名分と天理〕を寫したもので、善を勸め惡を懲し、人をして自ら知らざるに觀感せしめる。之を前にしては『閲微草堂』五種〔清・紀昀。灤陽消夏録・如是我聞・槐西雑志・姑妄聴之・灤陽続録の五種。灤陽は熱河。四庫全書総纂官であった紀昀がその一つ文津閣のあった清室の承徳避暑山荘で公務の余暇に著したという。〕、之を後にしては『寄龕』四志〔清・孫徳祖(号寄龕)の筆記「寄龕甲乙丙丁志」の四種。〕があり、みな世道に功ある文にして、私かに才華を逞しうする者〔個人的に自分の才能を自慢する底の者〕の比すべき所ではない。
繆君(『藝風堂文集』の著者繆荃孫)は目録學の專門家たるに愧ぢない。そのうへ『書目答問』の著者でもあるので、言ふことが甚だ要領を得てゐる。紀曉嵐〔暁嵐は紀昀の字〕、孫彦清〔彦清は孫徳祖の字〕二家の筆記を以て曲園(兪樾)のそれと比較したのは、たしかに識見もある。だがその實、その評價はどうも悉く當つてゐるとは申しかねる。といふのが紀・孫二君はいづれもあまりに氣を使ひすぎて、つまり世道人心に功あらんことを希望しすぎて、その爲に惡趣味に落ち入り、宣傳の書となつてしまつた嫌ひがある。たゞその文筆のなほ簡潔な爲、まだしも一讀することが出來、どうにか人をして唾棄させるまでに至らぬだけである。『右台仙館筆記』十六卷にも、やはり勸戒の意圖があることはある。けれどもその態度が樸實で、聞いた話をそのまま記録し、どんなに途方もない話、つまらぬ話でもかまはぬとして、そこに何等の成見も設けず、時にはこときらに寓言をなしてゐるなどは、自ら他に一等〔または一頭〕を抽んでてゐるもので、碌々たる餘人の企て及ぶ所ではない。試みに卷一を例にとるならば、第一則に、『馮孝子』を記し、「以て純孝を表はし、左氏の義に庶幾す〔左氏伝の義例に近づくことを冀う。〕」といつてゐるにしても、その書き方はいかにも大樣に〔鷹揚に〕ゆつたりしてゐて、古への孝子傳の風がある。又『何明達』『王慕堂』の二則は、士大夫を愧しめるに足る市井の細民の高義を寫したものであるが、そこに因果的な結末の全然見られぬのは、近世の說部〔小說や逸話、雑話などの散文作品・物語の類〕中極めて珍らしいものである。その范婉如及び揚州の某女の事を記せるものの如きは情に發して禮義に止り得なかつた痴兒怨女の情死である。にも拘らず多くの恕詞〔寛大な評言〕が見られのである。これこそは又儒家の精神でもあり、私の最も崇敬する所の者である。潮州の乾柿を作る男が虎の尾を斷ち切り、たうとう虎を捕まへたといふ話の最後に、
孔子曰く、上士は虎の尾を捉ふと。然れども下士亦正に未だ爲し易からざる也。
といひ、應敏齋〔清・應寶時〕が錢塘江の沙洲で綠色の巨人を見たといふ話の最後には、
『捜神記』〔東晋・干宝〕に、孔子が陳國にて厄にあひ〔陳蔡の厄〕、館中に弦歌し給ひしとき、夜、身のたけ九尺餘、皁衣〔黒衣。下級役人の服。〕高冠の人ありてその叱吒する聲左右を動かす、子路出でて之と戰ひ、之を地に仆せしに、そは大鯷魚〔カタクチイワシ〕なりしといふ話を載せたり。君の見し所は、或は亦この類ならんか。
といつてゐるが、ここらは一見例の文人の舊習、所謂考證癖にすぎないやうに思はれるけれども、實は極めて面白いものであつて、輕妙と莊重と混り合つて、滑稽の趣きを供へ〔備へ、具備し〕、よく卷中の玄怪の空氣をば忽ち一變せしめて一縷の清風の室に入り來るが如き感あらしめる。一見いかにも普通のやうであるが、實はなかなかかうは行かぬものなのである。卷首に異聞を募る廣告、幷びに小詩二首が附刻されてゐる。その一の末聯に「正に東坡〔北宋・蘇軾〕が老いて事無く、人の鬼〔幽鬼〕を說くを聽けば便ち欣然たりしに似たり」とある。夫れ鬼を說く態度に東坡の如きものあるは、いかにも嬉しく固より間然するところはない〔不足はない〕が、しかも先生が年老いて又樂天(白居易)や放翁(陸游)に似て、更に些かの迫つた氣持の無いところに、自ら愈〻その醇淨さ〔虚飾がなく優渥純真なこと〕が見られるのである。
譯註