結縁豆
藥堂語錄
曾衍東の詩
この春、偶〻『啞然絶句詩』一册を手に入れた。内に「啞然詩句、七如道士曾衍東著」と題してゐる。手寫木刻、半葉〔一頁〕六行、毎行十二乃至十五字。みな七言絶句。毎首、題共に四行で、一葉に三首づつ、凡そ七十七葉だから、都合〔合計〕二百四十首餘あり、末尾は殘缺してゐる。卷首に序があつて、
七如の詩句は多く話を成さず、そこに反つて可笑しみを生じたり。話を成さねば瓿の蓋にしかなるまじ。たゞその可笑しみ多きに因つて、之を巾箱にとどめ置き、かいやり捨つるに忍びざりしが〔投げ捨ててしまうのも惜しかったが〕、之を久しうしていつしかうづ高く積りたりければ、おこがましくも纒め上げぬ。古き言草にも「下士、道を聞きて大いに之を笑ふ。笑はざれば以て道と爲すに足らず」とあり。啞然絕句自序。嘉慶戊辰〔嘉慶一三年(一八〇八)〕、七如道士曾衍東。
私はその詩やその序文を讀み、その字や、「嘉慶戊辰」の四字を二行に並べて書いたその欵式〔書式、作法〕や、「曾大詩書畫」「曾先生妙筆」といつたやうな印章を見て、彼が鄭板橋(鄭燮)〔清代。詩書画いずれにも優れ、三絶の称がある。〕の一派であることを知つた。又「宗聖裔六十七世孫衍東」〔宗聖は曾子(曾参)。儒教で孔子を至聖とし、それを支える四聖人として復聖(顔淵)・宗聖・述聖(子思)・亜聖(孟子)ということがある。朱子による四書の指定等に始まり、元明代に確定したという。〕といふ印章もあるから、曾子の後裔なのであらう。曾て王西莊(王鳴盛)や郝蘭皐(郝懿行)〔どちらも清代〕の書いた手紙に板橋の體〔書体〕を模倣したのがあるのを見たことがある。當時の氣風の一斑を想見することが出來る。たゞ惜しいことに今日材料を捜すことがちよつと容易でない。この詩集の如きもその點で頗る價値があるわけで、その可笑しみが多く讀んで面白いのは、二の次〔二番手〕である。曾君の事に關しては、たゞ方士淦〔清代〕の『蔗餘偶筆』の中に一則があつた。いはく、
「樓の未だ起らざりし時は先づ鶴あり〔黄鶴楼伝説を踏まえる。〕、筆の擱かれしより後は更に〔まったく〕詩無し」と、これは曾大令(衍東)が黄鶴樓の太白堂に題せられた楹帖〔柱に掲げる対聯、また対句〕である。超妙の作、この樓に冠するに足る。阮太傅(阮元)〔清代、乾隆・嘉慶・道光三代に歴仕し、三公の一つ太傅に至った。〕が楚中に總制〔総督〕たるや、命じて之を取りはづさせたが、早くもすでに人口に膾炙してしまつてゐたのである。
今、集中に『黄鶴樓』一首あり、「樓の高さ多少ぞ樓梯に歩し、直ちに高樓に上れば遠水低し、鶴を畫いて鶴飛び都て見えず、大江東に去つて夕陽西く」といひ、又『下郷詩』に、「絲繐榔竿大轎〔房飾りの付いた紐を垂らし、立派な木材で組んだ大きな役人の車〕に乘り、四圍雲のごとく亮らかに玉壺冰のごとし〔ガラス製の窓は周囲を明らかに見渡せる。〕、村姑〔村の娘たち〕は識らず波璃の面、纎手もて摸り來り一層を隔つ」とある。これは恐らく役人たりし時の作であらうが、一體どこの令君〔高官〕であつたらうか。或はやはり湖南か湖北であつたらうか。〔湖北だったという。〕曾君は聖裔〔曾子第六七代の裔孫。通天譜に連なる四聖の裔孫には明清の代、皇帝から同じ世代に共通の世代字一字を下賜された(字輩)。排行と類似した輩行の字であり、それによれば曾家六七代は「衍」であった。〕であつたに拘らず、喜んで打油詩〔落首〕を作つた。きつと世人から寄つてたかつて叱責罵倒されたことであらう。この一事も私に興趣を覺えさせる。前に孔傳鐸〔清代。孔子の直系裔孫。伝は明代に孔家第六七代に与えられた字輩。世代はずれていくので、同時代の裔孫たちに共通の字を割り当てた。〕の作つた『申椒集』及び『紅萼詞』各二卷を見て、雋艶喜ぶべきものが多かつたが、この人は衍聖公(孔子の聖裔)である。性質はいささか同じくないにしても、亦「獨無くして偶あり」と謂ふべきである。〔論語の句を引き、曾衍東もまた独往でなく孔伝鐸のような同志ができたことになる、という意。〕
譯註