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結縁豆

藥堂語錄

讀詩管見(とくしくわんけん)

江叔海(かうしゆくかい)〔清・江瀚〕の『石翁山房札記(せきおうさんばうさつき)』卷三に『牟陌人(ぼうはくじん)〔清・牟庭〕の詩切(しせつ)』といふ一則があつて云ふ、

棲霞(せいか)(山東省の縣名(けんめい))の牟廷相(ぼうていしやう)(陌人)は孜々(しし)〔こつこつ、営々〕三十餘年にして『詩切』の一書を成し、手稿(しゆかう)凡そ六たびも、書き易(か)へた。その大旨はよろしく鄭玄(ぢやうげん)〔後漢〕の箋(せん)を劾(がい)し〔告発し〕、衞宏(ゑいくわう)〔後漢。「毛詩序」を著す。〕の序を黜(しりぞ)け、博徴〔博引旁証〕を尋(たづ)ね、浮丘(ふきう)〔戦国、浮丘伯〕(荀子(じゆんし)の弟子、詩を受く)申培(しんばい)〔前漢代〕(浮丘公の弟子、魯詩〔詩経の四学派の一つ。魯詩・斉詩・韓詩・毛詩。〕を傳(つた)ふ)の墜義(つひぎ)を申(の)ぶべきであると謂(い)ふのであるが、たゞ改むる所の詩序は類多く影響依附(いふ)し、或は鑿空臆探(さくくうおくたん)して、謂ふ所の博徴を尋ね墜義を申べたのではない。その最も嗤鄙(しひ)すべき者は、『桑中』〔国風・鄘風〕は醜夫(しうぶ)が美妻を得んと欲(ほつ)して諧(かな)はざるを刺(そし)るなりとなし、『中谷有蓷(ちゆうこくいうたい)』〔国風・王風〕は醜婦がその夫に去られんとするを咏(えい)ぜるものとなし、『有狐(いうこ)』〔国風・衛風〕は童子が宦學(役人見習)せんとするを、その友が詩を作つて之を戒(いま)しめ、衞には女閭(ぢよりよ)(遊廓)が多いといつてゐるのだとなし、『葛生(かつせい)』〔国風・唐風〕は寡婦(くわふ)の謹(つつし)まざるを刺(そし)るなりとなし、『東門之池(とうもんのいけ)』〔国風・陳風〕は美女の舟に戲(たはむ)るるを觀(み)るなりとなし、『東門之楊(とうもんのやなぎ)』〔国風・陳風〕は夜游ぶに燈(とう)〔灯籠〕を張れるなりとなし、『澤陂(たくひ)』〔国風・陳風〕は婦を怕(おそ)るる人を嘲(あざけ)るなりとなし、『魚麗(ぎよれい)』〔小雅・鹿鳴之什〕は衆客(しうかく)の廉恥(れんち)無くして飮食を嗜(たしな)むを刺るなりとしてゐる如(ごと)きである。詩を說(と)いて此に至り、風雅は地を掃(はら)つてしまつた。近人羅愼齋(らしんさい)〔清代〕の詩說〔後出「読詩管見」を指す。〕は特に創論が多いが、「爾(なんぢ)を視るに𮎢(けう)の如し、我に握椒(あくせう)を貽(おく)る」(『東門之枌(とうもんのふん)』〔国風・陳風。枌は楡の木。〕の句)を謂ひて男女陰を指すと爲(な)すに至つては、これ眞に『詩』の一厄(やく)である。

案ずるに江君のこの說は頗る轉訛(てんくわ)〔いつの間にか意味が変わってしまったこと。〕がある。亡友餅齋(へいさい)(錢玄同(せんげんどう))は嘗てこれに就いて餘杭(よこう)先生(章炳麟(しやうへいりん))に「𮎢(けう)といふのはどんなものですか」と問うたことがあつた。すると先生は「大頭菜(蕪漬(かぶづけ))さ」と答へられた。この語は今に至つて流傳(るでん)してゐるが、その後餅齋は老鐵(らうてつ)(趙蔭棠(てういんとう)、現北京大學文學院敎授)〔音韻学の友人というような意味らしい。〕から凝齋(ぎようさい)〔清・羅典、号愼齋〕の『讀詩管見』〔凝園読詩管見〕を借りて之を讀み、始めてその說く所事實でなかつたのを知つた。羅氏の原書卷五に云ふ、

「繭(まゆ)を視(み)るに𮎢(けう)の如(ごと)し」とは、その色の𮎢の華と同じきを謂へるのみ。𮎢の華(はな)は白くして淺紅、地に布(し)きて密に繁り〔原文「繋り」〕、亦穠麗(じようれい)〔華麗〕にして愛すべき者である。〔ゼニアオイの花とされる。〕椒(せう)はその性辛温大熱(しんおんたいねつ)、之を食へば氣分を走らせて火を助く。

とあるのみで、男女陰を指すなどとは一向いつてゐない。恐らく江君の記憶ちがひではなからうか。また羅氏は乾隆の時に生れてゐるのに之を近人と稱してゐるのも誤りである。たゞ凝齋は椒を以て春藥〔催淫薬〕となし、猝(には)かに之を投じて强(し)ひて之を呑(の)ましめるのだと謂つてゐるのや、又「子仲の子」(『東門之枌』の句)を解釋して、「子は子仲の丈夫子(ぢやうふし)〔息子〕にして、女子に非ざるなり」といひ、詩は強暴者が白晝(はくちう)稠人(ちうじん)〔衆人〕の間で美少年を掠(かす)め去るのを咏じたものであると見てゐるのは、その解釋も隨分變つてゐるにしても、『札記』に云つてゐる程ではない。牟氏の『詩切』は見ることが出來ないが、その序はなほ傳本(でんぽん)があるし、また羅氏の『詩問』〔読詩管見の内か。〕の中にも時にその數語を引いてある。「爾を視るに𮎢の如し」の二語の下に「牟陌人云ふ、婦人相語るなりと」と引いてあるから、きつと何か別の解釋を施してゐることと思はれるが、惜しむらくその詳(くはしき)を知り得ない。『詩切』にある序は、奇拔なのが多いやうだけれども、中には頗る適切な者もある。たとへば『澤陂』第三章の「彼の澤の陂(どて)に、蒲(がま)と菡萏(はちす)あり、美なる一人あり、碩大(せきだい)〔高大な貌。美丈夫をいうか。筆者は女丈夫という解釈に傾いているか。恐妻家のイメージが出てくる。〕にして且(か)つ儼(げん)たり、寤寐(ごび)爲す無し、輾轉(てんてん)枕に伏(ふ)す」とあるのを、牟氏は解釋して陳人の婦を怕れた詩であるとなしてゐるのは、いかにも成程(なるほど)と思はせ、徐(おもむ)ろに一讀してみると、思はず吹き出さずには居(を)られない。これは的確な解釋であるとは謂へないにしても、兎に角なかなか頭を捻(ひね)つたものと言はざるを得ない。