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結縁豆

藥堂語錄

曲詞(きよくし)の穢褻(わいせつ)

周壽昌(しうじゆしやう)〔清代〕の『思益堂日札(しえきだうにつさつ)』〔日札は日々の読書備忘録〕卷七に『讀曲雜説』十八則あり、その第十三にいふ、

笠翁(りふおう)(李漁(りぎよ)、『笠翁十種曲(じつしゆきよく)』の作者)の『凰求鳳(わうきうほう)』〔司馬相如「鳳求凰」を捩った命名。〕の『小引(せういん)』に『字々雙』(曲の名)といふのがあるが、これは市井(しせい)の穢褻(わいせつ)を極(きは)めた語で、目に入れるに堪(た)へない。『西廂記(せいさうき)』〔元・王実甫。元曲(北曲)。〕の『酬簡(しうかん)』の一折(いつせつ)〔一幕。元曲は四折を基本とする。〕、『牡丹亭(ぼたんてい)』〔「牡丹亭還魂記」、明・湯顕祖。宋代以来の南戯の流れをくむ江蘇省・崑山一帯の曲を取り入れた伝奇(崑曲)。〕の『驚夢(きやうむ)』の一折の内にも狎語(かうご)が無いわけでは決してなく、『長生殿(ちやうせいでん)』〔清・洪昇の伝奇(崑曲)。〕の『窺浴(きよく)』の一折は特に蕩冶(とうや)を極めてゐるけれども、たゞその雋艶(しゆんえん)〔あでやかな艶めかしさ〕を覺ゆるのみで、笠翁のそれの如く嘔吐(おうと)を催すやうな穢(きたなら)しさはないのである。ここらの事がわかるにはどうしても萬卷(ばんくわん)を讀破(どくは)しなければならぬ。かくして始めて筆を下(くだ)して神(しん)有るが如(ごと)きを得るのである。雅俗(がぞく)の分(わか)れ目が學問の根柢(こんてい)の有無(うむ)によることかくの如くである。

案ずるに周君の言ふ所の最後の數語は甚だ理がある。大抵、藝と文とはみなこの一點を爭ふのである。趣味といひ書卷(しよくわん)の氣(き)といふも、その實は多く讀み多く書き、經驗を積み、好醜(かうしう)を識別するだけである。たゞ上に擧(あ)げた實例はどうもあまり適當であるとはいへず、これによつてもこの事の實に容易でないことがわかる。或は笠翁に反對する成見(せいけん)を有してゐるが故であらうか。『西廂記』と『牡丹亭』は三十年前に一讀し、あらあら〔ざっと〕憶(おぼ)えてゐるが、『長生殿』は少し忘れてしまつたので、こんど取出して見ると、卷二第九折(せつ)『窺浴』中の「鳳釵花絡索」(曲の名)に四語あり、女人の身體を描寫したものであるが、實は極めて平凡なものである。しかるに呉舒鳧(ごじよふ)〔清・呉儀一〕がこれを評註して、「冶麗(やれい)を描摹(べうも)して、玉環(ぎよくくわん)(楊貴妃)之を呼べば出でんと欲(ほつ)するもの有るが如し、『雜事秘辛』は猶ほ形似にして神似に非(あら)ざるを覺(おぼ)ゆ」といつてゐるのは、あまりに過分(くわぶん)な賞(ほ)め樣(やう)である。或は友人同士慣(な)れ合(あ)ひの拍手喝采(はくしゆかつさい)かもしれず、これ亦人情の常(つね)に屬(ぞく)する。周自菴(じあん)〔周壽昌〕が更に「特に蕩冶を極(きは)めてゐるけれども、たゞその雋艶を覺ゆるのみ」と謂つてゐるのは、ことさらに甲(かふ)を揚(あ)げんが爲(ため)に乙(おつ)を抑(おさ)へてゐるものと思はれ、これこそ評家の惡習であつて、一層取るに足らぬ。若(も)しも平心に言ふならば、「特に…を極める」といふ言葉の用ひ方も不當(ふたう)である。呉評を聞きかじつて、その『秘辛』にも優(まさ)るといふのを信じた故ではあるまいか。笠翁の戯曲は主題も本々(もともと)鄙俗(ひぞく)なのが多く、『凰求鳳』の一曲の如きは、男子が淫(いん)を愼(つつし)しんだ爲(ため)に三妻を得たうへ、状元(じやうげん)(進士第一席及第者(きふだいしや))に中(あた)つたといふ筋であつて、その曲詞(きよくし)の如何(いかん)についても、作者の爲に辯護(べんご)を買つて出ようとは思はない。それは私にわかることではないからである。たゞここにいふ「字字雙」の小引は、もともと佳(よ)くはないにせよ決してさう穢(けがらは)しいといふ程ではなく、第六齣〔この「齣」の音訓は安定しないが、「しゆつ・せき」「く・せつ・こま」の場に応じた読みになる。一場(シーン)の意。〕『倒標』中の普賢歌(ふげんか)こそ反(かへ)つてもつと問題であらう。案ずるにこの小引は第三齣『夥謀』の最初の三章であつて、繰返し熟讀してみるのに、いかにも市井の鄙語(ひご)ではあるにしても、別に目に入れるに堪へずといふ程の處もない。この齣は大體(だいたい)、娼家(しやうか)の商賣(しやうばい)が寂(さび)れたので、集つて相談した末(すゑ)、脚色(きやくしよく)が三人、一人は副淨(わる)で村妓(そんぎ)錢二娘(じやう)に扮(ふん)し、一人は丑(どうけ)で肥妓(ひぎ)孫三娘に扮し、一人は淨(わる)で老妓(らうぎ)趙(てう)一娘に扮する。讀者はこの筋と登場人物とを見ただけで、そこに言つてあることが大して立派なものでないに相違(さうゐ)ないと知るであらう。もしもそこに鶯々(あうあう)(『西廂記』のヒロイン)や麗娘(れいじやう)(『牡丹亭』のヒロイン)や玉環(ぎよくくわん)(『長生殿』のヒロイン)が登場する時の空氣を見ようと注文するならば、それこそ以(もつ)ての外(ほか)の〔とんでもない〕難題といふものである。だがたとへば『長生殿』の『窺浴』の文にしてもが、雋艶であるとは云へるにしても、起首(きしゆ)〔幕開け(オープニング)〕の時に丑が宮女に扮して登場し、唱(うた)ふ所の小引〔導入歌〕「字字雙」の「小監胡纒」(若い宦官(くわんぐわん)がうるさく言ひ寄る)云々(うんぬん)にしろ、正(まさ)しく市井の鄙語であつて、「鳳釵花絡索」と同じでない。これによつてもかうした處には正に一種必要なる諧和(くわいわ)〔雅俗のバランスをいう。〕のあることが知られよう。假(かり)にたゞ高雅(かうが)一方(いつぱう)であつたとしても、軌道を脱(はづ)れる時で〔がカ〕あるのである。『讀曲雜説』の七に、「元人の院本(ゐんぽん)〔短い演劇〕は多く好句を貪(むさぼ)りて、本人の口吻(こうふん)にふさはしからず。李逵(りき)(水滸傳(すいこでん)の豪傑(がうけつ))が『風雨、花のために愁(うれ)ふ』と唱へる如き、その詞(ことば)は圓美(ゑんび)ならざるに非(あら)ざるも〔立派なものだといえなくはないが〕、反つて可笑(をか)し」と云つてゐるのは、即ちこの理である。