結縁豆
藥堂語錄
錢名世の序文
近年、古今の試帖詩〔科挙で課される詩(応試詩)、その詩形式の詩〕を蒐集し、その板刻の稍〻佳なる者を留めて、すでに一百餘種を得た。唐人の試帖に關する者が十七で、そのうち『全唐試律類箋』はそれだけで三種の刻本がある。この書は十卷、惲鶴生・錢人龍編、康煕乙未〔康煕五四年(一七一五)〕の自序がある。私の手に入れたものの中、その一は乾隆乙卯〔乾隆六〇年(一七九五)〕の萬福校刻本で、杭世駿〔字菫浦〕の序あり、その二は乾隆辛巳〔乾隆二六年(一七六一)〕の惲宗和の改訂刊本である。宗和は即ち鶴生の子である。その三は康煕乙未〔康煕五四年(一七一五)〕の原本で、最近始めて手に入れた。前に錢名世〔康熈帝の治世に翰林院に入り、「明史」編纂等に携わるが、雍正帝即位の後、年羹堯の案(粛清)に連座して「名教罪人」の汚名を着せられ失意の内に歿した。〕の序があり、蓋し人龍は名世の子なのである。序の三葉は惜しむらくその半分しか存してゐないが、これによつて略〻錢絅菴(錢名世)の文章と書法とを知ることが出來るのも大いに嬉しい。昔かつて王錫侯〔乾隆治世に挙人となるが、私撰辞書「字貫」に康煕・雍正・乾隆の諱を記載し、やはり文字の獄で九族を滅せられた。〕の『唐詩試帖課蒙詳解』十卷を得て、甚だ自ら珍重してゐるが、今この序文はまさに次位に置くべきであらうか。錢名世といへば、人は自づと例の名敎罪人の事件を思ひ出すであらう。「名敎罪人」の原册は故宮の中に存してゐる。今活字の印本があり『文獻叢書』の一となつてゐるから、極めて容易に見ることが出來る。これは天地間の一奇書である。有緣の者〔名教を振りかざす者への当てこすりの意か。〕は大いに一瞥したがよい。錢の序は康煕五十四年に作られ、名敎罪人の上諭は雍正四年〔一七二六年〕だから、その間僅かに十年の光陰を隔つるのみなのに、かういふ一大轉變を來したのである。錢序の皇帝に諂つてゐるのは、七言詩八首の年羹堯に諂つたのや、詩を賦した諸臣の雍正帝に諂つたのと、その實は一なのである。更に雍正の初年に年羹堯に下し給うた蜜のやうに甜い硃諭〔皇帝が直々朱筆で記した勅書〕を見るならば、何も他の人々の獻詩を怪しむことはない筈である。たゞ「州官の放火を許す」のはもと〳〵古へからさうであつただけのことだ。奭召南〔清・奭良〕の『史亭識小錄』に「名世が詩を投じたのは多分年羹堯が入覲〔参内拝謁〕した時のことであつたらう。當時朝廷では羹堯の功德を褒め頌へるのに日もこれ足らなかつた。詞臣がそれぞれ一篇の詩を作つて頌揚したのは、泰山の上の微塵と謂ふべく、且亦朝廷の意旨に附和したものと思はれる」といつてゐるのは、いかにも情理に協つた言ひ方である。在京科擧出身の大小臣工に命じ、みな歌詩を作つて名世の惡を攻めしめたのは、これこそ正しく科擧の眞の用ひ處、痩馬を養ふ極意に深く通じたものであつて、禛公(雍正帝)〔諱胤禛〕はたしかに金針を以て人を明度する〔金針暗度の捩りか。人を従わせる秘法をこっそり使うのでなく、あからさまにして見せしめにした行為を朧化して表現したもの。〕を惜まなかつたのである。
譯註