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結縁豆

藥堂語錄

日本國志

廿六(にじふろく)年〔民国二六年(一九三七)〕二月に私は小文を書いて『人境廬詩草(じんきやうろしさう)』(黄遵憲(くわうじゆんけん)の詩集)につき略談(りやくだん)し、その「附記(ふき)」としてかう書いておいた。〔同題のエッセイ「人境廬詩草」〕

去年の秋、我國の駐日大使館の役人がさる席上で、『日本國志』は黃公度(くわうこうど)(黃遵憲)の作つたものでなくて、姚棟〔姚文棟(えうぶんとう)〕の原著であると聲言(せいげん)〔声明〕したといふ話を聞いた。友人がこれを聞いて駭(おどろ)き怪しみ、私の處へ來て姚棟その人の事蹟(じせき)を訊(たづ)ねられたが、私は愧(はづ)かしながら〔恥ずかしいことだが〕答へることが出來なかつた。たゞ假(かり)にその言ふ所が姚文棟であつたとすれば、私も些(いささ)か知つてゐる。といふのは私は彼の『日本地理兵要』一部を有(いう)してゐるからである。しかし彼が『日本國志』のやうな本を書き上げることの出來ない人であることは斷定(だんてい)し得(う)る。

當時私が根據(こんきよ)としたのは作者の態度(たいど)の同じからぬことであつた。自ら決して見誤(みあやま)つてゐないと信じてはゐたが、やはり多少とも主觀に傾(かたむ)いてゐた嫌ひは免(まぬか)れなかつた。最近、姚文棟の雜文集を手に入れ、姚・黄二家(にか)の書は名は同じでも實は異(ことな)るもので、截然(せつぜん)として別の物であることを證明することが出來た。姚の集は名づけて『讀海外奇書室雜著』といひ、中縫(なかぬひ)〔中綴じ〕には『東槎雜著(とうさざつちよ)』と題してある。全て文二十四篇、蓋し公使館で隨員(ずゐいん)をつとめてゐた時の作である。『陳元贇(ちんげんゐん)先生事略(じりやく)』はまづまづ讀めるが、他は大抵みな例によつて例の如き慷慨(かうがい)的な時局論(じきよくろん)ばかりである。卷末に「日本國志凡例(はんれい)」がある。光緖甲申〔光緒一〇年(一八八四)〕九月に作られたものだ。全書十卷を、東西兩京、畿内(きない)、東海道等の七道に分(わか)つて記(しる)し、道每(ごと)に國を以て綱(かう)と爲(な)し、疆域(きやうゐき)を首(はじめ)として、地勢沿革(ちせいえんかく)から物産(ぶつさん)に至るまで、凡そ二十四門(にじふしもん)とある。蓋し地志(ちし)の體裁(ていさい)である。末に「未備」の一條があつて、自ら「刑法食貨(けいほふしよくくわ)等はみな未(いま)だ記すに及ばず、後の君子尙(ねがは)くばそれこれを補(おぎな)へ」と言つてゐる。日人(にちじん)星野、川口、宮原の三人がみな跋(ばつ)を書いてをり、姚氏編『海外同人集』卷上に見えるが、星野はその「我邦地志書を譯(やく)してその大成を集む」と謂(い)ひ、凡例(はんれい)に記しある採用書籍凡そ九十九部といふのも、みな舊地志である。これに由(よ)つて觀(み)るならば、二書の性質の同じからぬは明らかに知ることが出來る。姚氏の著書も無論自ら一種の『日本國志』を成(な)してはゐるが、若(も)しもこれを黄氏の著書と比較するならば、日を同じうして語ることは出來ない〔同列に見做すことはできない〕のである。黃の著は四十卷、地理は三卷しかないにしても、刑法と食貨とは合せて十一卷の多きに達(たつ)してゐる。しかもその最も特色ありて、前に古人無き者は、當然學術(がくじゆつ)、禮俗(れいぞく)の二志(し)を推(を)すべきであらう。見識(けんしき)もあれば風趣もあり、蓋し思想家と詩人と合併(がつぺい)して始めて成し得(う)るものである。若(も)しも「瑜(ゆ)は瑕(か)を掩(おほ)はず」〔礼記・聘義篇。宝玉はその瑕(きず)を隠すことをしない。美点も欠点も明らかにする意。〕と言ふならば、文中惜しむらく出處(しゆつしよ)を註(ちゆう)しなかつたことで、たとへば『禮俗志』の中に、多く村瀬栲亭(かうてい)〔原文「川瀨栲亭」〕の『藝苑日渉(げいゑんにつせふ)』中の「民間歳時」や、寺門靜軒(てらかどせいけん)の『江戸繁昌記(はんじやうき)』を用ひ、往々一篇一卷の全文を收録(しうろく)してゐる。あれがもしも一々註記してあつたならば、體例(たいれい)は一層完全であつたに相違(さうゐ)ない。