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藥堂語錄

夢の如(ごと)し

『夢の如し』九篇、凡(およ)そ四萬餘言(よげん)、文泉子(ぶんせんし)〔阪本四方太〕著、明治四十二年己酉(きいう)〔一九〇九年〕東京民友社(みんいうしや)刊、菊半截(はんせつ)一册。赤金巾地(かねきんぢ)表紙、定價(ていか)金(きん)三十五錢(せん)。案ずるに文泉子は本名坂本四方太(しはうだ)、明治六年生(うま)れ、三十一年東京帝國大學文科出身、正岡子規(まさをかしき)に隨(したが)ひ、新派(しんぱ)の有名な俳人(はいじん)の一人である。また子規と共に寫生文(しやせいぶん)を提唱(ていしやう)して、多くの作品があり、單行本(たんかうぼん)に『寫生文集』『帆立貝(ほたてがひ)』『夢の如し』等がある。大正六年(一九一七)卒(しゆつ)す、年四十五歳。私は丙午年(へいごのとし)(一九〇六)に東京に行つたが、そのとき子規はすでに卒し、雜誌『ホトトギス』は高濱虚子(たかはまきよし)により編輯(へんしふ)され、俳句寫生文(しやせいぶん)小說でひどく景氣(けいき)のよい時分(じぶん)であつた。書架(しよか)に現(げん)にその第九卷七號(ごう)が一册存(そん)してゐるが、夏目漱石の小説『坊(ぼつ)ちやん』〔坊つちやん〕はこの中に發表(はつぺう)せられ、『吾輩(わがはい)は猫である』の第十回もやはりこの卷頭(くわんとう)に載(の)つてゐる。以(もつ)て當時の形勢を想見(そうけん)することが出來る。坊ちやんは中國では普通に「哥兒(あにき)」と譯(やく)されてゐるけれども、方言の中にこれよりもつと適(てき)した言葉が別にあるやうに思はれる、たとへば紹興(せうこう)地方の「阿官」〔若旦那、坊ちゃん〕などがそれである。あの頃私は東京で寫生文と自然主義の潮流(てうりう)に遇(あ)ひ、自然主義の理論には大(おほ)いに感心したが、寫生文の方は實際の成績の上に頗る觀るべきものがあつた。私は『ホトトギス』に載つてゐる俳句は解(わか)らなかつた。しかしその散文は相當澤山(たくさん)讀んだ。漱石、文泉子以下長塚節(たかし)の著作はすべて最初はそれに現(あら)はれて持(も)てはやされたものである。その中でも文泉子は一番變(かは)つてゐた。彼は他の人々のやうにだんだんと小説家に變つて行くやうなことはなく、最後まで寫生文の範圍(はんゐ)から出なかつた。彼の『寫生文集』や『帆立貝』等は、前にも蒐(あつ)めてゐたのであつたが、歸國の際どうしたわけか失(なく)してしまひ、今持つてゐるのはこの子供の生活を追憶(ついおく)した一小册(せうさつ)『夢の如し』のみである。庚戌(かうじゆつ)年(一九一〇)の秋、本鄕(ほんがう)から麻布(あざぶ)赤羽橋の近くに引越(ひつこ)した。そこは芝區(しばく)と隣接(りんせつ)し、芝公園や增上寺(ぞうじやうじ)は往(ゆ)き歸りに通る路(みち)であつた。いろんな買物をする時には、慶應義塾の在(あ)る三田(みた)の方へ行つたが、『夢の如し』はその三田で購(あがな)つたものである。そしてその本屋がまた特別にむさぐるしい店で、小學校の子供を唯一(ゆいいつ)のお得意(とくい)〔お客〕としてゐたらしい程(ほど)であつた。その小さな書架で思ひがけなくこの本を見つけ、殊(こと)にそれが意外だつたので、今に至つて忘れず、店頭(てんとう)の樣子も今尙(いまなほ)ぼんやり目の前に浮(うか)ぶのである。三田は大きな通りであつた。しかし大抵(たいてい)夕方しか散歩しなかつたせゐか、印象がどうも暗くて寂しく、本郷とちがふ。辛亥(しんがい)(一九一一)の初冬に故鄕に歸り、小文(せうぶん)を作つて舊遊(きういう)を紀(しる)したが、それもたゞ一則を書いたのみに止(とどま)つた。その文の後に詩を題(だい)し、中に「寂々(せきせき)たり三田の道、衰柳(すいりう)何ぞ蒼黄(さうくわう)なる」といふ句があつたのは、つまりさういつた氣持を述べたものである。それも今ではもう古い夢となつてしまつた。文泉子の文を讀むと、更に雲烟(うんえん)の感がある〔遥かに遠くぼんやりと霞んでしまう〕。文章の恃(たの)むべからずして恃むべきは〔頼りにならないようでそれでも無きに勝るのは〕、まづかいつたものであらう。〔追憶の文も亦かくのごとし、懐旧の情はとどむべくもないが、せめて文章の功徳はこのあたりにあるのだろう、という意か。〕