結縁豆
藥堂語錄
澹菴文存
數年前『芸香閣尺一書』〔清・朱蔭培。「尺一書」は尺牘(手簡・手紙)の意。〕二卷を手に入れた。無錫、朱蔭培撰。これを讀んでその「秋水軒」と關係のあるのを知つた。蓋しこの尺牘は許葭村(『秋水軒尺牘』の著者)の影響を相當受けてをり、しかもその中に許又村(許葭村の子)に宛てた書簡さへあるのである。去年、老友票八(沈兼士)〔「票八」は沈家内の排行と北京大学教授陣(十一票)の語呂合わせのようなニックネームであるという。〕から私の郷里(紹興)の平蝶園〔清代〕の『酒話』〔蝶園酒話〕の寫本を贈られたが、その本の前の方に朱氏の序があつて「平筠士に屬せらる〔依嘱された〕」と云つてをり、筠士は卽ち蝶園の子で、朱氏の門人である。『尺一書』の跋語によれば、即ち彼が編刻したものなのである。その後『咒筍園賸稿』〔清・傳霖〕を手に入れた。その作者傳霖もやはり私の郷里〔紹興〕の人であり、この本にも朱氏の序跋がはいつてゐるのである。かういつた因緣から、私は芸香閣の著作を蒐集してみたいと大いに考へてゐたわけであるが、なかなか容易に手に入らない。最近始めて杭州から『澹菴文存』〔清・呉道鎔〕一册を送つて來た。尹繼美〔清代〕の跋語に據れば、同治丁卯〔同治六年(一八六七)〕にすでに評刻されてゐるらしく、今この本の中に己巳年〔同治八年(一八六九)〕の遺文がはいつてゐるのは、多分歿後に重訂されたものであつて、寫本しか無いのではあるまいか。書は凡そ二卷、文十七篇を存す。諸人の題詞に、彼は壯年時代好んで駢儷詼諧〔滑稽〕の文を作つたが、その後、梅伯言(梅曾亮、桐城派文人の領袖)〔清代〕に從つて義法(桐城派の主張する文章作法)を聞き、はじめて宗派を識つたのだといつてゐるが、今一通り讀んでみるのに、いかにも簡錬でたしかにわるくない。しかし彼が義法になづんだ〔固執した〕個處は、きまつて略しすぎるか飾りすぎるかしてゐる嫌ひがある。これはつまり桐城派の文章の必然的な長短である。『咒筍園遺稿序』は今『文存』卷一の中に見える。原本には序と跋と各〻一つづつあつたのを、合せて一篇にして大いに修改を加へ、益〻朗々誦すべきものとなつてゐる。尹氏が「呑吐、神あり」〔緩急含蓄が最妙である。〕と評してゐるのはいかにも當つてゐると謂ふべきである。しかしその中から事實を採集しようと考へるときは、遠く原刻の二文に及ばぬ。序の言に從へば卒する時年僅かに三十七、跋の言によれば時に咸豐七年〔一八五七年〕十月五日未時であつたといふが、改本にはさうした事は何も書いてない。又、序に「遺橐〔遺産〕千金、之を散じて立ろに盡く」とあるも、改本では「萬金」となつてゐる。跋には「將に死なんとするや鄰左右これを厭苦す、雨純〔後出「傅雨蒓」〕曰く、朱某必ず殮(入棺)して我を葬らん、汝等を累はさじ」とあるが、改本では「我前世は僧なり、行々將に去らんとす」と二句を添へてゐる。實際の事實を削つて、有りもしない事實を増したのはみな文章を行る〔組み立てる〕ためにしたにすぎぬ。一唱三嘆、附するに教訓を以てしたもので、文成つて情は反つて益〻減じてをり、實際『尺一書』中の傅雨蒓に宛てた書札の一つに「どれほどの皮囊にこのやうな憂愁を入れ得ようぞ(多大皮囊裝得如許愁恨)」云々といふのに及ばざること遠いのである。これは秋水軒調ではあるが、なほ多少の情意は覗はれるからである。その他の文章には別段これといつた意見もなく、讀んで行くと自ら一篇の古文を成してゐて、われ〳〵後人は必ずしもかれこれ雌黄を下す〔訂正する〕に及ぶまい。比較材料も無いし、よしあしを言ふのも明らかでないから、今は悉く略に從ふ〔省いておく〕。