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藥堂語錄

朱詹(しゆせん)

焦廣期(せふくわうき)〔清・焦袁熹〕の『此木軒雜著(しぼくけんざつちよ)』を讀むに、卷三に『近科大小題時文題辭(くんくわだいせうだいじぶんだいじ)』といふ一則があり、かう云つてゐる。

私の家に一切(いつさい)の什物(じふもつ)〔日用品〕が揃(そろ)つてゐるといふわけでは勿論(もちろん)ないが、そのうち一番澤山(たくさん)あつてしかも何の役にも立たぬのは、近人の作つた科擧(くわきよ)の詩文である。人に與(あた)へようとしても貰(もら)ひ手のない奴(やつ)は、類別(るゐべつ)して貯(た)めておいたところが、机の上に一杯になり凡(およ)そ二百餘卷(よくわん)、答案が二三百枚にもなつた。少しづつ積(つ)んでゐたのがたうとうかうなつたもので、しかもこの傾向はまだまだ止(や)みさうもない。あゝ、これは本當(ほんたう)に何の役に立つのだらうか。北齊(ほくせい)の時、義陽(ぎやう)の朱詹(しゆせん)といふ人は、幾日(いくにち)も飯(めし)を炊(た)かずに、紙ばかり呑(の)んで腹を充(み)たしたといはれる。〔「顔氏家訓」勉学篇〕不幸にして饑饉(ききん)にでも遭(あ)つた場合には、この机の上にうづ高く積上(つみあ)げられてゐる奴で、まづ數ケ月分の食糧(しよくりやう)にあてられるであらうか。

案ずるに傅靑主(ふせいしゆ)(傅山、淸初の文人)に『成弘文(せいこうぶん)の後(のち)に書(しよ)す』〔成弘文は、明代、成化・弘治年間に流行した科挙の模範文〕といふ一篇があつて、八股文(はつこぶん)に對(たい)し痛烈(つうれつ)な惡罵(あくば)を放(はな)つてゐるが、焦君は康煕(かうき)の時に生れまたこの論を發(はつ)してゐる。流風遺韻(りうふうゐゐん)〔伝統的美俗の意。皮肉の含意がある。〕なほ未(いま)だ絕えず、しかも諧謔(くわいぎやく)を以てこれを出したところに更に別段(べつだん)の風趣のあるのを覺(おぼ)える。ここに引いてある紙を呑(の)んだといふ話は『顏氏家訓(がんしかくん)』卷三『勉學篇』中に見える。その原文に云(い)ふ、

義陽の朱詹(しゆせん)は代々江陵(かうりよう)に住んでゐたが、その後揚都(やうと)〔建康。南朝(宋斉梁陳等)の首都だった。〕に出た。學問が好きだつたが、家が貧しくて金が無いので、幾日も飯を炊くことが出來なかつた。それで時には紙を呑(の)んで腹を充(み)たしたことさへあつた。寒いのに氈(かも)〔毛織物〕の蒲團(ふとん)がないので、犬を抱(だ)いて寢た。ところが犬も腹が減つてゐるものだから起きて行つて盜(ぬす)み食ひし、呼んでも來ない。彼の哀(あは)れな聲(こゑ)が近隣(きんりん)の人を動かした。彼はそれでも學業(がくげふ)を廢(はい)せず、つひに學士(がくし)となり〔科挙の制度はまだなく、知識人として抜擢されたことを指す。〕、官(くわん)は鎭南錄事參軍(ちんなんろくじさんぐん)に至り、孝元帝(かうげんてい)〔南朝梁。武帝蕭衍の子。侯景の乱の時に即位。北朝の西魏に滅ぼされた。〕に禮(れい)を以て遇(ぐう)せられた。

これに據(よ)れば朱詹は蓋(けだ)し南朝(なんてう)に仕へ、梁(りやう)の時代の人かと思はれる。上文(じやうぶん)に北齊(ほくせい)とあるのは、多分顏氏(『顏氏家訓』の著者顏之推(がんしすい))がさうであることから誤解したものであらう。古へは紙は楮(かうぞ)の皮を用ひたから、ことによつたらこれで聊(いささ)か飯の代用(だいよう)になつたのかもしれぬ。しかし後世の竹紙(ちくし)は、筍(たけのこ)と同類であるとはいつても、一寸(ちよつと)具合はよくなからうと思はれる。焦君の饑饉(ききん)に備へようといふ考へも恐らく無駄(むだ)ではあるまいか。聞く所によれば近代文明國家では用紙を節約(せつやく)して、これを絲(いと)に改造(かいざう)して布帛(きれ)に代(か)へてゐるのださうである。古人は文章を輕視(けいし)して「飢(う)ゑても食へぬし、寒(こゞ)えても著(き)られぬ」と謂(い)うたが、今やすでにその確かならざることが證明されたわけだ。もつともさういふのに使ふのは一字も書いてない白紙の方がよいのであらうから、さうだとすれば文章はやはり不必要な者であるわけである。犬を抱いて寢るといふのは、勤學(きんがく)の佳話(かわ)となすに足り、螢(ほたる)を袋に入れたとか、雪明かりに映(うつ)して勉強したといつた話〔蛍雪の功を踏まえる。〕よりはずつと情味(じやうみ)がある。だがそれとて顏君が娓々(びび)として叙(の)べてくれたればこそであつて、文と情と相生(あひしやう)ずるの妙(めう)がある爲である。かつて聞いた笑話(せうわ)にこんなのがあつた。ある乞食(こじき)が寒い晩に屢〻(しばしば)野宿(のじゆく)をし、お蒲(こも)を頭からかぶつたけれども足が冷えて困(こま)つた。そこで犬の子を探(さが)して來てそれでもつて足を溫(あたた)めた。夜半(やはん)になつて一人大きな聲で悲鳴(ひめい)をあげたので或人(あるひと)がわけを詢(たづ)ねると、「足の指を氈毯(もうせん)に咬(か)まれました」と答へた。今と昔とその莊諧(さうくわい)〔真面目と滑稽(の判別基準)〕は同じからぬとはいへ、これは正(まさ)に獨(どく)無く偶(ぐう)あり〔物事には必ず対になるものがあるという意。〕といふべきである。錢木菴(せんぼくあん)〔清・錢良擇〕の『出塞紀略(しゆつさいきりやく)』に、歸化城(きくわじやう)の附近(ふきん)で華嚴塔(けごんたふ)に元人(げんひと)が名を題してゐるのを見た、その中に「今人(こんじん)古人と同じ、殘月(ざんげつ)新月の如(ごと)し」といふ句があつたと記してゐるが、いかにもその通りではないか。〔人のすることは古今変わらぬことをいうか。それもまた文章で伝わるので、腹の足しにもならぬ文章の持つ一徳をいったものか。〕