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藥堂語錄

郢人(えいひと)

『莊子(さうじ)』卷八雜篇(ざつぺん)『徐無鬼(じよむき)』に次の如き一則がある。

莊子、葬(さう)を送つて、惠子(けいし)〔恵施。名家に分類される。〕の墓を通りすぎた際、從者の方を顧(かへり)みてかういつた。「郢人(えいひと)が白土〔白い漆喰〕で塗つてゐたら、とばちりがその鼻の端に蠅(はえ)の翼のやうに附いてしまつたので、匠石(しやうせき)(石といふ石工)に切り取つてくれとたのんだ。石は斧(おの)を運んで風を成し、聽(き)くや否(いな)やこれを切つた。白土は盡(ことごと)くとれて鼻は傷一つつかず、郢人は突立(つつた)つたまま容(かたち)一つ崩(くづ)さなんだ〔崩さなかったのだよ〕。宋の元君この話を聞かれて、その石といふ石工(いしく)を召(め)しよせ、もう一度試(ため)しにそれをやつて見せいと仰(おほ)せられた。するとその石工、私せんには〔以前は〕隨分と切つたものでございます、だが、今はもう腕のふるひ場所がなくなつて久しいことに相成(あひな)りまするというておことわり申し上げたさうな。あんた(惠施をさしていふ)が亡くなられてからは、わしの腕のふるひ場所もなくなり、話し相手がなくなつてしまひましたよ。」

私は前から非常にこの文を好(この)んでゐる。「蠅の翼の如(ごと)し」と「斤を運びて風を成す」といふ形谷が趣致(しゆち)を盡(つく)してゐるばかりでなく、ここには亦兄(けい)たり難(がた)く弟(てい)たり難い〔甲乙つけがたい〕二人の人物が并(なら)んでゐる。好漢(かうかん)〔男伊達〕と好漢とが出遇(であ)つたのだ。正に金聖歎(きんせいたん)〔水滸伝の改作、六才子書の評価等を行う。〕が好んでいつたやうに、いはゆる「好看煞人(みごとみごと)」〔言い尽くせないほど圧巻だの意。〕である。最後のは莊公の牢騷(ろうさう)〔愚痴、鬱憤〕である。氷のやうな冷たい一句は、後世の『南華經(なんげきやう)』(『莊子』)を口にする人々〔追随者、信奉者〕をして宋の元君と同樣にあいた口のふさがらぬ氣持を抱(いだ)かしめる。郭子玄(くわくしげん)(郭象(くわくしやう)、晉(しん)の人)〔西晋代。荘子注を著す。〕はこれを註して、「かの動かざる質、言を忘れし對〔郢人と匠石の一対を指す。〕にあらずば、至言妙斲(しげんめうたく)といへども之を用ふるに所なし」と云つてゐる。しかして後人は甚だ喜んでこの典故(てんこ)を引用しながら、少々曖昧(あいまい)な具合にしてしまつた。『訂譌雜録(ていかざつろく)』〔清・胡鳴玉〕卷八「郢削(えいさく)」の條に『莊子』の文を引き、「突立つたまま容を崩さなかつた」といふ處で論じて曰く、「これを徴(ちよう)すれば鼻を塗つたのは郢人であり、斲(けづ)り削(けづ)つたのは匠石なのである。今人が郢削・郢正・郢斤〔それぞれ文章の推敲をいう語〕などといつてゐるが、それは匠石が斲つたのを郢人のしたこととなしたもので、大いに非(ひ)である。」胡氏の語は勿論(もちろん)誤りではない。が可笑(をか)しな處(ところ)はここだけではない。斧で削つたのを匠石のしたことにしたとしても、車に載せ斗(ます)で量(はか)るほどの作者達が猫も杓子(しやくし)も郢人でござるというてみたところで、恐らくは匠石も決しておいそれと簡單に力を貸すやうなことはすまい。といふのが人は誰しも石灰(せつくわい)で鼻のさきを塗ることは出來ても、突立つたまま容を崩さぬといふのは一寸(ちよつと)むつかしい業(わざ)であるからだ。我々凡夫(ぼんぷ)にどうしてさう氣易(きやす)く人のを削つてやることが出來ようか。亦同時に妄(みだ)りに人に削つてくれるやうに頼みに行くわけにも行くまい。やはり自分で出來るだけ注意して、誠實をこめて一生懸命に文章を作り、大きな過失(くわしつ)のないやうにつとめたら、それでもう足(た)れりとすべきであらう。