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藥堂語錄

南園記(なんゑんき)

奭良(せきりやう)著『野棠軒摭言(やとうけんせきげん)』〔摭は拾い集める意〕卷三「言文(げんぶん)」の中に次のやうな一則がある、曰く、

陸放翁(りくはうおう)(陸游)〔南宋代〕が『南園記(なんゑんき)』『閲古泉記(えつこせんき)』〔南園は南宋の都臨安(杭州)に韓侂冑が造った庭園。園内の溜玉亭の近くに閲古泉があった。〕を作つたのは、みな策勵(さくれい)の意を寓(ぐう)してゐる〔北伐を主張する共通点を持つ権臣への激励の意を含む〕。今の人が假(かり)に達官の爲に文章を作つたとすれば、とてもああは行くまい。韓侂冑(かんたくちう)(南宋の權相(けんしやう))の敗(やぶ)るゝや、御史臺(ぎよしだい)の彈劾(だんがい)は放翁に及んだ。しかしあれは〔御史台の弾劾は〕たゞ史彌遠(しびゑん)(當時の權相)に媚(こ)びただけのことで、何も言ふに足らぬものである。しかるに後人(こうじん)は往々これを譏(そし)り、曲園(きよくゑん)先生(兪樾(ゆゑつ))〔清代〕でさへも同樣な言(げん)をなしてゐられる(『茶香室四鈔(ちやかうしつしせう)』〔兪樾「茶香室叢鈔」第四部〕に見ゆ)。先生は至(いた)つて穩和(おんわ)なお方(かた)で、その論を持(ぢ)するや從來(じゆうらい)實に公平であられた。これは多分筆の赴(おもむ)くついでに之に及ばれたものであらう。袁子才(ゑんしさい)(袁枚(ゑんばい))〔清代〕は獨(ひと)り然(しか)らず、さすがに通人(つうじん)であつた。

前に陳作霖(ちんさくりん)〔清代〕著『養和軒(やうわけん)隨筆』を見たが、その中にこんな事をいつてゐた、云(いは)く、

大抵苛刻(かこく)なる論はみな講學家(こうがくか)から始まつた。而(しか)して文人(ぶんじん)に於(お)いて尤(もつと)も甚(はなはだ)しいとする。陸放翁の『南園記』を作つたことを排斥(はいせき)するが如(ごと)きも、亦その類(たぐひ)である。

當時(たうじ)私は甚だその見識のあるのに感心したことであつたが、いま奭氏(せきし)の言ふ所は又一歩進んでゐる。講學家が好(この)んで苛刻の論を爲(な)したのは、あれはたゞ天資(てんし)〔生まれつき〕刻薄(こくはく)であつたといふまでである。權臣(けんしん)に媚(こ)びるが如(ごと)きは、更にそれより數等(すうとう)落ちはしないだらうか。士大夫(したいふ)は秦檜(しんくわい)〔南宋の宰相〕を罵(ののし)りまた韓侘冑を惡(にく)み、不思議なくらゐそれを繰返(くりかへ)してゐるが、數百年〔ママ〕の後にまた彌遠(びゑん)に取入(とりい)らうとするとは、一體どういふ料簡(れうけん)であらうか、益〻(ますます)私にはわからない。憩叟(けいそう)(奭良)がこれを素破拔(すつぱぬ)いたのは、誠(まこと)に通人(つうじん)たるに愧(は)ぢぬ。或(あるい)は更に隨園(ずゐゑん)(袁枚)の右に出づるもの〔超えるもの〕といふべきであらうか。古人は「殷鑒(いんかん)遠からず、夏后(かこう)の世に在り」と云つたが、これこそ讀史(どくし)の正道(せいだう)である。從來文人はそのやうにやることが出來ず、却(かへ)つて妄(みだ)りに雌黃(しわう)を下(くだ)す〔都合よく改竄する〕ことを好み千百年前の人々の善悪をあげつらつた。これは恐らく書齋(しよさい)の中で史論をいくつも作つた爲ではあるまいかと私は思ふ。外國人が文章を作るのに、こんな具合に史事を引張(ひつぱ)つて來るといふ話は聽かぬ。たとへば英國のクロンウエルだとか、佛蘭西のナポレオンなどは、何といつても史上に有名ではあるし、しかも善惡どちらにでも論(あげつ)らはれる筈(はづ)であるが、そんなにしよつち〔ゆ〕うお目に掛かることはない。必ずしも西洋人の記憶力が惡いといふわけではなからう。恐らく策論(さくろん)といふものを作ること〔科挙の科目にあった。〕を學ばなかつた故であらう。どんな歴史書をみても文章材料と見做(みな)したり、題目として課(か)したりするやうなことはなく、自分の事として見て行く。かくてその中にたとへ思はず悚然(せうぜん)とする〔ぞっとする〕やうな處(ところ)が澤山見つかつたとしても、それは卽ちいはゆる殷鑒(いんかん)であつて、その時は憂(うれ)ひ思はぬわけには行かぬにしても、決して人を責めることを專門(せんもん)にした史論を書くやうな暇(ひま)は無かつたのであらう。