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藥堂語錄

燕窗閒話(えんさうかんわ)

『燕窗閒話(えんさうかんわ)』二卷、光緒辛卯(しんばう)年〔光緒一七年(一八九一)〕刊。江陰(かういん)の鄭守庭(ていしゆてい)先生著と題す。蓋しその門人輩(はい)の編刻(へんこく)せる所の者である。卷末に墓誌銘(ぼしめい)が附してあるが、それもその門人の撰(せん)する所である。しかも生卒年月は考ふべからず、その七十五歳の時の事を誌して、「明年(みやうねん)卒(しゆつ)す」とあるばかりで、雲(くも)を抓(つか)むやうだ〔曖昧模糊としている〕。たゞ卷上に擧人(きよじん)に中(あた)つたことを誌(しる)せる時に自(みづか)ら己未(きび)の生れであると云つてゐるので、彼が嘉慶四年〔一七九九年〕に生れ、同治十三年甲戌(かふじゆつ)〔一八七四年〕に卒したことがわかつた。中國では傳記を作る場合にこの點にあまり注意しない。『疑年錄』〔生没年を考証した書物。清・銭大昕の同名書等がある。〕の類(たぐひ)がいくつも現はれるのも恐らく已(や)むを得(え)ないのであらうか。『閒話』に記してあることは悉(ことごと)くその半生(はんせい)の閱歷(えつれき)であつて、果報(くわほう)妖異(えうい)を說(と)かぬところに自らその特色がある。大事件といつても敎師になり、飢饉(ききん)に賑恤(しんじゆつ)〔原文「賑洫」〕し、鄕約(きやうやく)を講ずる〔自治会を組織する〕といつた事柄を出でぬけれども、たゞ小さい時分の瑣事(さじ)を書いたのは、なかなか樸實(ぼくじつ)でよろしい。その中の一節にこんなのがある。

予は小さい時、本を讀むのに呑込(のみこ)みが早く、そのため脇路(わきみち)から入つた。十歳の時だつたと憶(おぼ)えてゐるが、祖母のお伴をして西郷の顧宅に壽祝ひについて行つた。折(をり)から陰雨が十日以上も續いてゐた。机の上に『列國志』一部があつたので開いてみると、解(わか)るのはほんの數語きりであつた。それでも三册か四册も見て行くうちに解るところがだん〳〵多くなり、再び初めから繙(ひもと)いてみたところが、解るのが大半であつた。家に歸つた後、さつそく小説のやさしいのを借りてよむと、その八九まで解つた。大晦日(おほみそか)の夜、祖母に侍(じ)して歳送りをし、その一晩のうちに『封神傳(ほうしんでん)』を半分、『三國志』を半分よんだ。もつとも中にはいつてゐる細かい批評文は詳しく讀む暇(ひま)はなかつたが。その後『左傳(さでん)』を讀み、その事柄はもう知つてゐるものだから、たゞ字句の不明なところを、講説の時一心に耳を澄まして聽くだけでよかつた。そのため他の本を讀む場合に一層解り易(やす)かつた。しかしその解釋には時々とんでもない誤りをしてゐるのもあつた。「子罕言利」(子は罕(ま)れに利を言ふ、論語の句)を讀んで、子罕といふのを宋〔春秋の宋〕の樂喜(がくき)〔字子罕〕のことだと思ひちがへてゐたり、『易經(えききやう)』の「象曰、不知爲大象小象」(象(しやう)に曰く、大象小象たるを知らず、象は易の十翼(じふよく)中の象傳(しやうでん)をいふ)を讀んで、象を舜(しゆん)の弟だと早合點(はやがてん)して、なかなか立派なことを云つてゐるわいと思ひ、大方(おほかた)舜の感化(かんくわ)を受け、仲直りをした後學問が大いに進んだのだらうと考へたりしたものだ。今から思ふと吹き出したくなる。〔笑止なことだ。〕

私は前に『私が國文(こくぶん)を學んだ經驗(けいけん)』といふ文章を書き、「以前讀んだ經書(けいしよ)は私にとつて毫(がう)も益(えき)はなかつた。その後多少とも文章が書けるやうになつたのは、全く別の方面から來たものであつて、それは即ち閑書(かんしよ)〔雑多な書籍〕や小説をよむことであつた」といつたことがある。普段私は青年に外國文をなるべく多く讀むやうに勸(すす)めてをり、強引(がういん)な讀み方を主張してゐる。つまり何かの外國語に對して大體(だいたい)の入門がすんだら、字引(じびき)を引いて本を讀むのである。最初のうちはたとへ十の一二しか解らなくても、どん〳〵先を讀(よ)んで行き、後でまた讀み返すと三四分(ぶ)通りは解るやうになる。さうしてだん〳〵やつてゐるうちに七八分通りまでも解るに至り、つひには自分の物になるわけである。鄭君の言つてゐることは殆(ほとん)どそのまま私の爲に證明をしてくれたものだ。古人いはく「徳孤(こ)ならず、必ず隣(となり)あり」〔論語・里仁〕と。それこれの謂(いい)であらうか。

譯註

*拙譯(せつやく)『周作人文藝(ぶんげい)隨筆抄』所収。