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藥堂語錄

繞竹山房詩稿(ぜうちくさんばうしかう)

『繞竹山房詩稿(ぜうちくさんばうしかう)』〔清・朱文治〕は、餘姚(よえう)の朱文治(しゆぶんぢ)著、正續(せいぞく)合(あは)せて二十四卷。餘姚は會稽(くわいけい)の隣縣であるからこれを買ひ入れた。詩はよく解(わか)らぬが、『續稿(ぞくかう)』の中に郷土の風物を紀(しる)した絶句が數十首あり、頗る面白いと思つた。たゞ註の中の解説はみんなあまり感心(かんしん)出來ない。卷七の『消寒竹枝詞(せうかんちくしし)』中に兒童(じだう)の玩具(ぐわんぐ)を詠(えい)じてをり、その註(ちゆう)に、「不倒翁(ふたうおう)〔起き上がり小法師、達磨〕は人をして脚(あし)をしかと立たしめんとするのである。假面(かめん)は小兒が遊戯(いうぎ)をなす場合にも、先(ま)づ面を蒙(かうむ)り以て羞惡(しうお)の心を有(いう)せしめんといふのである。吾(われ)おもふに、古人は一つの物を作るにも大方(おほかた)みなこのやうであつた」とある。案ずるに『潜夫論(せんぷろん)』〔後漢・王符〕の「浮侈(ふし)」〔浮華で奢り高ぶること〕第十二の中に「或は泥車(でいしや)〔泥人形の車〕、瓦狗(ぐわく)〔素焼きの犬の人形〕、馬騎(ばき)〔騎馬の泥人形〕、倡俳(しやうはい)〔役者・踊り子のからくり人形〕など、諸〻の戲弄(ぎろう)の具(ぐ)を作りて巧みに小兒を詐(あざむ)いてゐるのは、宜(よろ)しく禁ずべきであると思ふ」とあるのは、無論あまり嚴肅(げんしゆく)に過ぎてゐる。しかし今それを顚倒(てんたう)させて道德的解釋を加へてゐるのは、その笑ふべきこと殆(ほとん)ど一層(いつそう)之に過ぎるものがある。又、卷十の『夏日遣懷詩(かじつけんくわいし)』の五に「楓樹(ふうじゆ)は豐市(ほうし)の好(よ)きに如(し)かず、六書(りくしよ)原(もと)是(こk)れ諧聲(かいせい)〔形声〕有り」とあり、その註に「最近、石婆橋廟(せきばけうべう)〔明代に石婆と呼ばれた陳氏の老婆が資材を擲って石製の橋を架けた故事に由来。〕を修築し、余は爲(ため)に額を書き、そこで豐市と改めた」といつてゐる。つまり地名は元來「楓樹」といふのであるが、餘姚の土音(どおん)で樹と市とは同じに讀む。そこでさう書き改めて利市(りし)(縁起(えんぎ))〔商売繁盛の縁起物〕をかついだといふのである。だが私に云はせると、楓樹といふ名もなかなかよいのであつて、何も改めるには及ぶまい。豐市と改めるなぞは、特に俗臭(ぞくしう)が見られて、いはゆる市井(しせい)の小兒(せうに)の見(けん)〔子供だましの浅見〕に近い。我々が『詩經(しきやう)』を讀んで、最も變(かは)つてゐると感ずるのはそのいはゆる「興(きよう)」〔詩の六義の一つ。比興。〕であり、それはまた最も風致(ふうち)のあるものでもある。孔子は「多く鳥獸草木(てうじうさうもく)の名を識(し)る」といつたが、單に動植物を識るだけでも隨分(ずゐぶん)と面白いものである。讀書人にすらそのへんの面白さがなかなか呑(の)みこめぬのであつてみれば、商人や職人が「興」「隆」「豐」『盛」といつた字をさかんに用ひて名前をつけ、街に滿(み)ちみちた招牌(かんばん)に、さういつた縁起のよい語ばかり書かれてあるのもまことに無理からぬ次第(しだい)である。だが三多九如(さんたきうじよ)を希望するのは、もとより人情の常ではあるにしても、これはたゞ一方面にのみ認(みと)むべきものであつて、今もしこれでもつて一切(いつさい)を統(す)べしめ〔統合させ〕、自然に對する趣味を悉(ことごと)く消滅せしめたならば、學問はもはや芽(め)をふく餘地(よち)もなくなり、その損失(そんしつ)は小さいものではあるまい。

譯註

*三多九如——三多(さんた)とは『莊子(さうじ)』に見え、多福・多壽・多男子〔家を盛り立てる男子に恵まれること〕をいひ、九如(きうじよ)とは『詩經』の『天保篇(てんぽうへん)』〔詩経・小雅・天保〕に見える「如山如阜(やまのごとくをかのごとく)、如岡如陵(をかのごとくおほをかのごとく)、如川之方至(かはのまさにいたるがごとく)、以莫不増(もつてまさざるはなし)〔絶え間なく増え続ける意。〕」又「如月之恆(つきのつねなるがごとく)、如日之升(ひののぼるがごとく)、如南山之壽(なんざんのいのちながきがごとく)、不塞不崩(ふさがらずくづれず)、如松柏之茂(しやうはくのしげるがごとく)、無不爾或承(なんぢのうくるあらざるはなし)〔すべてをあなた(君主)が受け取らないものはない。〕」に本(もと)づく。みな緣起をかつぐ語。