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結縁豆

藥堂語錄

銷夏(せうか)の書

大暑(たいしよ)の折(をり)から〔七八月のこの猛暑の時期に〕、名古屋から一包(ひとつつ)みの古書を買ひ入れた。書物は三部あり、いづれも繪畫(くわいぐわ)に關(くわん)したもので、頗(すこぶ)る銷夏(せうか)〔暑さをしのいで過ごすこと〕に適(てき)してゐる。もつともその爲に容易に見終(を)へもするわけだが。その一は『集雅齋畫譜(しふがさいぐわふ)』〔明・黄鳳池〕四册である。原板本は六種あるのであるが、これは圖本叢刊(づほんそうかん)〔大正一二年(一九二三)、図本叢刊会〕重刻本〔翻刻の初刻は寛文一二年(一六七二)〕で、『五言唐詩畫譜(ごごんたうしぐわふ)』『木本花鳥譜(もくほんかてうふ)』『草本花詩譜(さうほんくわしふ)』『梅竹蘭菊譜』〔梅竹蘭菊は四君子〕等四卷のみであり、六言(ろくごん)七言(しちごん)唐詩〔六言唐詩画譜・七言唐詩画譜。他に唐解元(唐寅)倣古今画譜、張白雲選名公扇譜を入れて八種画譜と言われる。〕を缺(か)いてゐる。しかし刻印共によろしく、四大册で僅(わづ)かの三圓(ゑん)とは、まことに廉(やす)いものである。その二は『彩畫職人部類(さいぐわしよくにんぶるゐ)』二册、橘珉江(たちばなみんかう)〔江戸の浮世絵師〕畫(ぐわ)、風俗繪卷圖畫刊行會(ふうぞくゑまきづぐわかんかうくわい)重刻(ぢゆうこく)である。すべて二十八圖(づ)、百工の樣子を寫(うつ)したもので、木板着色、甚だ精緻(せいち)にして、見てしまふのが惜しい位(くらゐ)である。無論見終(をは)ればまた繰返(くりかへ)して見ても厭(あ)きはしないわけだが、やはりこの幾葉(いくえふ)きり〔しか〕ないのが惜しまれてならぬ。その三はちよつと變(かは)つてゐて『和譯桐陰論畫(わやくとういんろんぐわ)』である。一帙(いつちつ)四册、本田成之〔風軒〕譯、大正三年(一九一四)出版。『桐陰論畫』〔清・梁渓、秦祖永〕の原本は實はごく容易に手に入るのであるが、それは多くは初編だけであつて、三編全部を求めようとなると、大抵『畫學心印(ぐわがくしんいん)』〔清・秦祖永〕と一緒になつてゐて、私にとつて別段(べつだん)役に立たぬ。私は繪は解(わか)らぬ。『桐陰論畫』を讀むのは、實はその文章を見るだけなのである。その外にはその註の中に畫家(ぐわか)の生卒(せいそつ)年月や年齡を澤山擧(あ)げてあるのを取るので、これは普通の本には極めて珍らしいことである。和譯は三編全部あり、價(あたひ)も一圓(いちゑん)なにがしに過ぎぬので、買つておいて參考に備へておけると考へたわけであつた。しかし私がすぐに思ひ浮んだのは原本に誤字が多いといふことであつた。「畫(ぐわ)」といふ字がよく「晝(ひる)」になつてゐたり、「龔芝麓(きようしろく)」〔明・龔鼎孳〕が「襲方伯(しふはうはく)」などとなつてゐる。私が譯本を開いてみると、果して「顧眉生(こびせい)〔明・顧横波、歌妓・詩人・画家〕、方伯芝麓ノ妾(せふ)ヲ襲(おそ)ヒ」となつてゐて、この「襲」の字を動詞として譯(やく)してあつた。〔「方伯(地方長官の称呼)龔芝麓の妾」でなければ通じない。〕そのすぐ後が李因(りいん)〔明代の歌妓、詩人、画家〕の一節だ。譯文のしまひの方(はう)に「海寧ノ光祿葛ニ在リ、奇妾無シ」とある。文句があまり變(へん)なので、原文を査(しら)べてみたら「海寧葛光祿無奇〔明・葛徵奇の字〕妾(海寗〔ママ〕の葛光祿〔光禄大夫〕無奇の妾)」といふのであつた。この外にも類例は尚(なほ)多いのである。飜譯(ほんやく)といふものはこれでみても生易(なまやさ)しい事でないことがわかる。私のやうに譯本を利用しようと考へて原書を搜(さが)さないと、上手(じやうず)にやらうとして反(かへ)つて下手(へた)をするといふ證明(しやうめい)になる。