結縁豆
藥堂語錄
許敬宗の語
『舌華録』〔明・曹臣〕九卷十八類、古今人の妙語を集録したもの、萬暦乙卯〔万暦四三年(一六一五)〕の刊行だから、今を去るすでに三百二十五年になるわけである。雨が降つてする事もないので全部通讀したが、面白いと思つたのは大抵みなやはり晉人の語であつた。晉以後の人のはどうしても眞似をした嫌ひがあるやうに思はれる。だがそれでも幾則かなかなかよいのもあつた。卷三「冷語」〔嘲罵の語〕第六に云ふ、
唐の太宗が遼を征するや、飛梯〔飛梯、雲梯等は攻城兵器〕を作つてその城に臨んだ。募に應じて梯首たらんとする者はあつたが、城中より矢石が雨の如くにして、つひに先登たるものが無い。英公(李勣)指して中書舍人許敬宗に向つて、「此人豈大いに健ならずや」といふと、敬宗曰く、「健くても一向に思量ることは解しませぬ(健要是不解思量)」〔要是は「~であるに過ぎない」意。〕といつた。太宗はそれを聞いて之を罪せんと欲した。
卷九「澆語」〔軽薄な言葉〕第十七に云ふ、
許敬宗は性輕傲、人を見て多く之を忘れた。或人彼を以て聰ならずと批評したところ、彼曰く、「君はどうも憶えにくいのだよ。若しも何・劉・沈・謝といつた人に遇つたら、暗闇の中で摸つても誰であるかわかるだらうがね。(卿自難記、若遇何劉沈謝、暗中模索着亦可識)」〔暗中模索の典故〕
袁小修〔明・袁中道〕の眉批〔上部余白の書き込み〕に「今の世この輕薄の人なし、若し之あらば、吾は樂しみて受けん」といつてゐる。案ずるに敬宗の爲人〔人物〕はどうであつたか、今それは云はぬとして、たゞその二條に記してあるのは、確かに甚だ立派である。ことに前の一條は特に見地〔定見〕がある。唐の太宗がそれを聞いて大いに冠を曲げた〔お冠だった〕のも無理からぬ次第である。賢哲が教へを垂れるにたゞ人の思量を解せざらんことを恐れるのに反し、英雄は人の思量を解するを恐れる。といふのがそんな風だと〔人の思わくなどを気にかけていたら〕健なる者を驅使することが易しくなくなるからである。俗に謂ふ所の愚民政策なるものば他無し〔ほかでもない〕、實はたゞ人をして思量することなからしめるだけのことである。『世説新語』〔南朝宋・劉義慶(臨川王)〕を讀むと、魏晉時代に於いて最も傑出してゐたのはたゞ孔文擧(孔融)と嵇叔夜(嵇康)のみであると感ずるのであるが、彼等はいづれも正にその事のためによい死目に會はなかつた。許延族(許敬宗)は唐初に生れ、その性格は右の二人と比すべきではないとしても、兎に角彼も思想することの出來る人ではあつた。どうして李世民(唐の太宗)といふやうな英雄に出會ひながら禍を免れることが出來たのであらうか。我々は『唐書』〔新唐書。北宋・欧陽脩等撰。〕を繙き、彼が『奸臣傳』の第一番目に列してゐるのを見出して、その故を知ることが出來るのである。魏晉以後、士は多く思想のために殺されたのであるが、初唐に許君がたゞ一人生き殘つてゐる。彼はその一部分の思想をば一身一家を保つことに用ひ、さうしてつひに成功したのだ。これはまことに小さな事ではあるにしても、甚だ有意義な思想史料の一つであらう。
譯註