← 次の章 目次 前の章 →
|
赤線の原注をクリック→章末注記を表示。  

結縁豆

藥堂語錄

入都(にふと)日記

杭州(かうしう)書店から古書(こしよ)數種を求めたが、どれも相當(さうたう)私を喜ばせた。この本屋は淸波門(せいはもん)〔杭州古城の西門〕内の花牌樓(くわはいろう)〔街区の名〕に在つて、私が戊戌(ぼじゆつ)(一八九八)杭州に居(ゐ)た時分はこの街に住んでゐた。塔兒頭(たふじとう)〔街区名〕から程遠(ほどとほ)からず、まことに思ひ出の深いところである。本はいづれも小品(せうひん)である。その一は醫俗道人(いぞくだうじん)著『俗語指謬(ぞくごしびゆう)』三卷。『杭州白話報』〔同年創刊の啓蒙紙〕の切拔(きりぬ)き本であつて、木板竹紙(ちくし)、辛丑(しんちう)年〔光緒二七年(一九〇一)〕刊。その二は錢大昭(せんだいせう)〔清代、錢大昕の弟〕著『邇言(じげん)』〔身近な俗語の意。〕六卷、光緒四年〔一八七八年〕嘯園(せうゑん)重刊(ぢゆうかん)巾箱本(きんさうぼん)〔清・葛元煦(号嘯園)が重刊した古典籍の叢書。「嘯園叢書」もあった。巾箱本はハンディな小型本。〕である。この本が茹(じよ)氏〔清・茹敦和〕の『越言釋(ゑつげんしやく)』〔越地(紹興地方)の俗語の考証〕と共に叢書〔嘯園叢書〕の中に收められてゐないのは一體(いつたい)なぜであらうか。その三は南菁叢書〔光緒八年(一八八二)創設の江南最高学府南菁書院編集の南菁書院叢書〕本『戴氏論語注』〔清・戴望〕二十卷である。さうしてその四は『入都日記』一册不分卷〔巻に分けられていない和漢書〕である。撰人の姓名を著(しる)してない〔ママ〕けれども、その第一葉(えふ)を讀んだだけで李圭(りけい)〔清代。「環遊地球新録」を著す。〕の著であることがすぐにわかつた。この本は光緒丁亥〔光緒一三年(一八八七)〕に京師(けいし)に入(い)り驗看引見せられた事を記したもので、六月十九日から十月十二日まで逐日(ちくじつ)記(しる)してあり、極めて細々(こまごま)と有りの儘(まま)に書いてあつて面白い。日記の中に常に黃思永(くわうしえい)と會(あ)つた事に及(をよ)んでをり、更に『思痛記(しつうき)』と關係のある所が數ケ所(すうかしよ)ある。たとへば八月十七日の條下(でうか)に、「下僕(げぼく)に命じて子疇(しちう)・愼之(しんし)ら同鄕の人々に土產(みやげ)を送らせる。火腿(ハム)各一肘(ちう)、茶の葉各四瓶(びん)、環游地球新錄(くわんいうちきうしんろく)・思痛記各一部づつ」とあり、又九月二十三日の條には「愼之、余が思痛記を讀みて、往日(わうじつ)難を被(かうむ)りし慘(さん)の余に劣(をと)らざるを悲しみて、余が爲(ため)に序を加へてくれたり」とある案ずるに『思痛記』一本、黄思永の序があり、光緒十三年〔一八八七年〕九月下浣(かくわん)〔下旬〕と署(しよ)してあり、時日(じじつ)がちやうど合ふ。卷末にまた省城(しやうじやう)(杭州)に到着した記事を附(ふ)してあつて、十月二十九日の條下に、

申刻(さるのこく)〔午後四時頃〕、城隍山(じやうくわうざん)〔呉山〕に登り、伍公祠(ごこうし)〔伍子胥の廟〕に行つて遭難(さうなん)してゐた當時、壁に題した詩をさがしたが、すでに見えなくなつてゐた。前の詩に云ふ、「罡風(かうふう)〔強風〕我を吹きて杭州に下る、江水滔滔(たうたう)去つて休(や)まず、今日伍公祠畔(はん)に立つ、何ぞ期(はか)らん吾尙(な)ほ吾頭を戴(いただ)くを」と。昔日(せきじつ)遭(あ)つたことを追憶(ついおく)して、今なほ酸鼻(さんぴ)を禁じ得(え)ない。〔太平天国の乱で杭州に抑留されていた三年近くの惨劇を回顧してよく生きていたものだという感慨を歌う。〕

この一絶句も『思痛記』の中に補(おぎな)ひ入れることが出來よう。前後相去ること蓋(けだ)し二十七年である〔太平天国の乱から入都日記までの年数〕。李君の著作を私は注意して蒐集(しうしふ)してをり、重複(ちようふく)してもかまはず買ふことにしてゐるが、今又ゆくりなくも〔はしなく、偶然にも〕、この日記を手に入れたのは、まことに嬉しい事であつた。

譯註

*李圭の事に就いては前文『鴉片事略(アヘンじりやく)』に詳しい。
*驗看(けんかん)といふのは、淸朝(しんてう)の制度で、京官(きようくわん)では郎中(ろうぢゆう)以下、地方官では道(だう)以下知縣(ちけん)等まで、その任官(にんくわん)に先立(さきだ)ち、天子(てんし)より差遣(さしつかは)された高官による口頭試問を受け、その形貌(けいばう)言動を調べられる。これを驗看といふ。引見(いんけん)とは驗看にパスして天子の御前(ごぜん)に出て謁(えつ)を賜(たまは)ることで、こゝに正式に任官するわけである。