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結縁豆

藥堂語錄

落花生(らつくはせい)

東培山民(とうばいさんみん)〔淸・王孝煃(かうき)〕著『一徴硯齋筆記(いつちようけんさいひつき)』卷七に云ふ、

花生(くわせい)は長生果(ちやうせいくわ)とも云ふ。また落花生(らつくはせい)とも名づく。殆(ほとん)ど名が無いのである。その花地に落ちて一筋の長い帶(おび)が土の中に落ちて實(みの)る、故に落花生といふ。花生ともいふは一字減じて呼んだのであり、長生といふはその形によつて名づけたものである。この果は初め日本に出(い)で、康熙(かうき)年間に應元(おうげん)といふ僧が種(たね)を携(たづさ)へて歸國(きこく)し、かくて散植(さんしよく)して今に至つた。油を取ることを主要なる用途となし、これを果餌(くわじ)に資(し)するのも亦(また)應用(おうよう)の一である。

案ずるにこの說は恐らく『本草綱目拾遺(ほんざうこうもくしうゐ)』卷七に『福淸縣志(ふくせいけんし)』を引いた語に根據(こんきよ)したもので實は盡(ことごと)くは信用出來(でき)ぬ。下文(かぶん)には又『萬暦仙居縣志(ばんれきせんきよけんし)』〔明代〕を引いて「落花生はもと福建(ふくけん)に出(い)づ、近くその種を得て之を植(う)う。」と云つてゐるから、始めて中國に入つたのは康煕の時でないことがわかる。方密之(はうみつし)〔明・方以智〕著『物理小識(ぶつりせうしき)』には崇禎(すうてい)癸未(きび)〔崇禎一六四三〕の序があるが、その卷六「番豆(ばんとう)」の下に、

一に落花生、土露子(とろし)と名づく。二三月に之を蒔(ま)く。一畦(いつけい)に數粒に過ぎず。枝を匐(は)はせて甕菜(ようさい)・虎耳藤(ゆきのした)の如く、横枝は土を取りて之を壓(おさ)ふ。藤(かづら)の上に花を開く。花絲(くわし)は土に落ちて實(み)と成る。冬後に土を掘りて之を取る。殼(から)に紋(もん)あり。豆は黃白色(くわうはくしよく)、炒(い)り熟(じゆく)すれば甘く香(かうば)しく松子(まつのみ)の味に似たり。

これはどうやら今日いふ小花生(せうくわせい)〔小粒の落花生〕に近いが、その當時恐らくすでに普遍(ふへん)〔普及〕してゐて、福建(ふくけん)・浙江(せつかう)一帶に限られなかつたのであらう。中國の言ひ傳(つた)へでは、落花生は扶桑(ふさう)〔日本〕から來たといふことになつてゐるのであるが、日本では俗に南京豆(なんきんまめ)といつて、寺島良安著『和漢三才圖會(わかんさんさいずゑ)』卷五十六「落花生」の條下(でうか)には、明の周文華(しうぶんくわ)の『致富全書(ちふぜんしよ)』の語を引き、更に「按(あん)ずるに落花生は近年(きんねん)長崎に來(きた)れり」とも云つてゐる。同書の前の方に正徳二年〔一七一二年〕の自序がある。即ち淸の康煕五十一年に當(あた)るのである。この事にはちやうどよい類例(るゐれい)がある。同じく一つの瓜(うり)を、中國では倭瓜(わくわ)といひ、日本の方では唐茄子(たうなす)といつてゐる。たゞ中國では通稱して南瓜(なんくわ)ともいひ日本にもカボチヤといふ別名がある所から見ると、その原産地は安南〔ベトナム〕方面に在るに違ひないと想像がつく〔カボチャの語源はカンボジアという〕。それが先(ま)づ中國に來て、それから更に日本へ渡つたのであらう。花生の經路(けいろ)も恐らくそれと同じやうなものであつたらう。たゞその來た路が何處(どこ)であつたかは、南瓜のやうに推測し易(やす)くないだけである。〔今日では南米由来といわれる。〕