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結縁豆

藥堂語錄

洪幼懷(こうえうくわい)

偶〻(たまたま)『𥲳廊瑣記(たくらうさき)』〔籜廊瑣記とも。〕四册を買ひ入れた。凡そ九卷、固始(こし)〔県名〕の王守毅(わうしゆき)著と題す、咸豐(かんぽう)甲寅(かふいん)〔咸豊四年(一八五四)〕刊。紙も墨もさほど良くはないが、字體(じたい)が中々變(かは)つてゐる。多く文體(ぶんたい)及び別體字に就いて説き、記(しる)す所は狐鬼怪異を出(い)でぬが、文章は頗(すこぶ)るよい。署名(しよめい)した個所(かしよ)をよくよく視(み)ると、「守毅」の二字は重ねて貼りつけた者だつたので、紙の裏の方を覗いて見たら、王濟宏(わうせいくわう)なのであつた。嘗(かつ)て『七經樓文鈔(しちけいろうぶんせう)』〔清・蔣湘南〕を讀み、王君の序文のあるのを見てその名を覺えたわけだが、いま文中に馬春圃(ばしゆんぽ)や洪幼懷(こうえうくわい)に言及(げんきふ)してあるのを見ると、それが卽ちその人なることは疑ひ無いと知つた。『瑣記(さき)』は無論普通の小説家の言(げん)ではあるが、その文を讀むと、どうも毛色(けいろ)のちがつたものを感ずる。この中にはどうやら信用出來る者もあるらしく、たしかに蒋子瀟(しやうしせう)(『七經樓文鈔』の著者)の友人たるに愧(は)ぢぬ。卷六の洪幼懷について記した一則は甚だうまい。惜しいことに八百餘言(よげん)もあるので轉錄(てんろく)出來ぬが、その虞城(ぐじやう)(河南省の縣名)で初めて會つた時の事を叙(の)べた一節は、どうしても拔鈔(ばつせう)せぬわけに行(ゆ)かぬ。その文に曰(いは)く、

幼懷が來て記室(きしつ)(秘書)となり、東西屋(をく)に分(わか)れ住むことになつた。會(あ)ふといきなり私に郷里を訊(たづ)ねたので、私が河南(かなん)だと答へると、洪は呉音(ごおん)で「中州(ちゆうしう)の河南(ホーナン)か、湖北湖南(フーナン)か?」といふ。「中州の河南だ」と再び答へると、洪懷〔ママ〕は目を見張つて天を視(み)つめながら、忽(たちま)ち傖語(いやしきことば)をなして「河南の野郎(やらう)に何がわかるか」(河南人知甚鳥)〔『南村輟耕録』(元・陶宗儀)中の語。〕と云つた。

しかし間もなく二人は非常な親友となつた。そして洪がその爲に詩集の序を作つてやつた所の蔣子瀟(しやうしせう)が亦恰(あたか)も河南人であつたのも一奇(いつき)である。世に王鳳洲(わうほうしう)〔明・王世貞〕が『金瓶梅(きんぺいばい)』を作つて唐荊川(たうけいせん)〔明・唐順之〕を毒殺しようと謀(はか)つたと傳(つた)へ、蔣瑞藻(しやうずいさう)も孔另境(こうれいけい)も共に『寒花菴隨筆(かんくわあんずゐひつ)』〔明末清初、佚名氏〕を證據(しやうこ)に引き、その撰人の姓名を出してゐないが、いま卷六の最後に『書毒荊川(しよどくけいせん)』を記してゐるのは、即ち上の話の出處(しゆつしよ)であり、且(か)つ「洪幼懷(こうえうくわい)これを説(と)く、果(はた)して然(しか)るや否(いな)やを知らず」と云つてゐる。王君が前に記す所に據(よ)れば、幼懷は蓋(けだ)し一奇人である。恐らく龔孝拱(きようかうきよう)〔清・龔橙。龔自珍の子。〕と同じ類(たぐひ)の人ではなかつゝかと私は思ふ。まことに有名な父の子たるに愧ぢ(は)ぬわけだ。たゞその荊川(けいせん)の事を述べたのはいかにも奇拔(きばつ)で面白いけれども、これは東坡が鬼の話を聽(き)いたくらゐの氣持〔前章、前々章で触れていた「姑妄言之。姑妄聽之。」を指す。〕で見るべきであつて、恐らく依據(いきよ)して典故(てんこ)となしてよい程(ほど)のことではあるまい。若(も)しも更(さら)に〔全く〕その來源(らいげん)〔典拠〕が無いのだとすれば、特に具合がよいとは云へぬわけだ。洪幼懷は天才絶倫(ぜつりん)、痴(ち)を以て世の中を茶(ちや)にして暮(くら)し〔真面目な事柄もふざけ散らして〕、「洪獃子(こうがいし)」〔洪家のおとぼけさん、たわけ者〕と云はれた。けれども蔣子瀟は極めて彼を重んじ、詩に「論交兼生死(まじはりをろんじてせいしをかぬるは)、只一洪符孫(ただいつのこうふそんあるのみ)」〔符孫は幼懐の字。洪亮吉の子。〕の句があるし、洪の序の中にも蔣の語を述べて「詩に於いては吾は幼懷に服す」とある。王懺生(おうさんせい)(王守毅(しゆき))は『瑣記』に又一再(いつさい)ならず〔幾度も〕その言行(げんかう)を記述してゐるのであるから、洪幼懷の著作こそ多く見ることは出來ぬけれども、その人はすでに傳(つた)はるに足(た)るわけである。

譯註

*明の文士王鳳洲(正貞)〔ママ。世貞〕は、その父が嚴嵩(げんすう)に殺されたのは唐荊川(順之(じゆんし))の讒言(ざんげん)に由(よ)るとなし、唐を刺して父の仇(あだ)を報(むく)いんものと屢〻(しばしば)刺客(しかく)を放(はな)つたがその都度(つど)失敗、最後の手段として、『金瓶梅』を著(あら)はし、毒汁を入れた墨でこれを印刷して唐に奉(たてまつ)つた。荊川は本の讀み方が速い。墨がべと〳〵して頁(ページ)がくつついてうまく開(ひら)かぬので、屢〻指を〔に〕唾(つば)をつけて開ける。そのうちに毒が利(き)いて唐は死んだといはれる。(蔣瑞藻『小説考證(かうしやう)』による)
*龔孝拱は龔自珍(きようじちん)の子であり、洪幼懷は洪亮吉(こうりようきつ)の子である。