結縁豆
藥堂語錄
洞靈小志
この頃は專ら呑氣な本を讀んで日を送つてゐるが、龍顧山人〔清・郭則澐、号蟄園〕著『洞靈小志』及び『續志』を手に入れて、甚だ嬉しかつた。これで又數日寢轉んで讀む材料が出來たといふものだ。『小志』は甲戍に〔蟄園木刻本は民国二三年甲戌(一九三四)刊行〕、『續志』の方は丙子〔一九三六年〕に刻されたもので、今を去ること僅か三四年にしがならぬ。しかも板刻は中々見事な出來であり、鉛字で洋紙に印刷したものに比べてずつと感じがよい。近年木刻の書物は隨分少くなつたが、天津の金氏の『屏廬叢刻』〔金鉞、民国一三年(一九二四)〕及び『天津文鈔』〔原著華光鼐。金鉞刊行は民国九年(一九二〇)〕等は、刻も印も中々立派で、水竹村人(徐世昌)〔袁世凱に続く民国第二代大総統〕の詩文各集とよく似てゐる。或は同一系統であらうか。もつとも『天津詩人小集』〔高凌雯。民国二五年(一九三六)金氏刊行。〕の方は、稍細弱の嫌ひがあるが。鬼怪を談ずることは殊に佳趣に富むものである。たゞそれは藝術的に之を出さねばならぬ。東坡居士〔北宋・蘇軾〕が人に強ひて鬼の話をさせ、「姑く妄りに之を言へ」と云つたのは、甚だよくこの中の三昧を得てゐる〔夢中になる三昧境をうまく表現している〕。鬼を説かんが爲に鬼を説くには〔怪談咄をもっともらしく語るためには〕、第一にどうしても上手に説かなくてはいけない。文章は宜しく樸實明淨なるべきである。六朝・唐の人の志怪は最もその獨擅場であつたが、傳奇文になるともう大分落ちる。つまり次第に華麗彫飾に走つてしまつたからである。『閲微草堂筆記』〔清・紀昀〕と『聊齋志異』〔清・蒲松齢〕の比較も亦正にその通りである。第二に底意の無いことが必要である。卽ち因果乃至譬喩を持出さぬことである。そこへ行くとこんどは『聊齋』の方が反つて一段勝るといふのが、その狐鬼の豔情〔艶情〕を記してゐる中には、別に何の底意も抱いてをらぬからで、『閲微草堂』はその點全然よい所がない。たゞまだしも文章が佳いので一讀されるまでである。『洞靈』二志は、若しもこの例に當嵌めてその長短を論ずるならば、正に『閲微』五記〔閲微草堂筆記は五部で成り立つ。〕と同じであると言ふことが出來よう。私は一通り通讀して、その記述の大樣〔鷹揚〕なのを好もしく思つた。それに多く近人の事に觸れてゐるので、中々興味がある。たゞその鬼神に託して敎誡を垂れる趣旨の如きは、私は全然お宗旨違ひ〔お門違い。無縁。〕だ。數ケ所鬼趣を寫したものがあつたが、それは人情に本づき、中々うまいと思つた。たとへば『續志』卷四に、許潤齋が廣西で客死し、その魂が家中の傭ひ婆に附き、づか〳〵客廳にはいつて來て、喪具が並べてあるのを見て首をふり、何もこんな事はしないでもよいと云つた話を記したのや、卷五に、李檗子の喪の受弔の日に、李の魂が喪棚の下の方で輓聯〔死者を悼む対聯〕を見てまはつてゐるのを黄桐生が見たといふ話を記してゐるのなどは、何れもさうである。この外の記述は、今人の見聞に出でたとはいつても、實は陳々相因つたもので〔因襲的に繰り返されてきたもので〕、讀んで實に單調な感じがする。それといふのが、これらの材料はすでに甘蔗の食べ滓〔蔗渣。残滓。〕となつてしまつたものであつて、よし〔たとえ〕それが吝嗇者の嚼つたものではなかつたとしても、もはや毫も滋味が無く〔旨味も栄養もなく〕、何のよいおやつにも成らなくなつてゐるからである。