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結縁豆

藥堂語錄

張天翁(ちやうてんおう)

『香祖筆記(かうそひつき)』〔清・王士禛〕卷六にいふ、

古今の傳記(でんき)、たとへば『拾遺記(しうゐき)』〔後秦・王嘉〕『東方朔外傳(とうはうさくぐわいでん)』〔佚名氏。原本は散佚。〕の類(たぐひ)は悉(ことごと)く誕謾無稽(でたらめ)であるけれども、凡(およ)そ『諾皋記(だくこうき)』(唐、段成式(だんせいしき)著『酉陽雜爼(いうやうざつそ)』の中(うち)に在(あ)り)くらゐひどい者はない。特に捧腹(ほうふく)に堪(た)へぬ〔馬鹿々々しくて笑止だ〕のが一つある。それは「天翁(てんおう)、姓は張(ちやう)、名は堅(けん)、字は刺渇(しかつ)、漁陽(ぎよやう)の人。少(せう)にして不覊(ふき)、嘗(かつ)て羅(あみ)を張つて一羽の白雀(はくじやく)を捉(つら)まへ、愛(いつく)しみ育ててゐた。ところがこんな夢を見た。天劉翁(てんりゆうおう)〔天帝〕が大(たい)へんそれを怒つて、何度も彼を殺さうとしたが、その度に白雀が堅に知らせたので、堅はいろいろな方法を設(まう)けて之に對抗(たいかう)してその害を切り拔(ぬ)けた。そこで天翁は遂に天降(あまくだ)つて見に來た。堅は大いに御馳走(ごちそう)をふるまひ、竊(ひそ)かに天翁の車に乘り、白龍(はくりゆう)に跨(またが)り、策(むち)を振(ふる)つて天に登つて行き、天翁これを追つたが追(お)つつかぬ。堅はさうしてたうとう天宮(てんきう)に到り、百官(ひやつくわん)を易(か)へ、北門(ほくもん)を塞(ふさ)ぎ、白雀を封(ほう)じて上卿(しやうけい)と爲(な)した。かくて劉翁は治(ち)を失(うしな)ひ、五嶽(ごがく)〔泰山(東岳)・華山(西岳)・衡山(南岳)・恒山(北岳)・嵩山(中岳)。道教の聖地とされたという。〕を徘徊(はいくわい)して災(わざはひ)をなしたので、堅は之を患(うれ)ひ、劉翁をば太山(たいざん)の太守(たいしゆ)となし、生死の簿籍(ぼせき)を主(つかさ)どらしめた。」といふのである。鄙悖(ひはい)〔粗野で道理に背くこと〕もここに至つては、三歳の小兒(せうに)をすら欺(あざむ)くことは出來ぬ。しかも公然と之を書に筆(ひつ)するとは、本當(ほんたう)に氣が狂(くる)つたのではあるまいか。段柯古(だんかこ)(段成式)は唐の文人であるのに、どうしてかほどまでにひどいのであらうか。

案ずるにこの話はたゞその出鱈目(でたらめ)な處が面白いのだ。それは傳説と童話の特色なので、經史(けいし)と正に異(ことな)る點なのだ。震鈞(しんきん)〔清代、漢名唐晏〕著『庚子西行記事(かうしせいかうきじ)』〔光緒二六年(一九〇〇)の義和団事件で西太后や光緒帝が西安に避難した記事。〕の中にいふ、

又聞く所に據(よ)ると、某處(ぼうしよ)に拳壇(けんだん)といふのがあり、何でもその壇の上にはたゞ伏魔大帝(ふくまたいてい)の神牌(しんぱい)を祀(まつ)り、或は鴻鈞道人(こうきんだうじん)を祀つたのもあるが、街々(まちまち)に告示(こくじ)を澤山(たくさん)貼り出すのださうである。これは希臘(ギリシヤ)神話とよく似てゐる。

抑〻(そもそも)關公(くわんこう)(伏魔大帝)と鴻鈞老祖(らうそ)(鴻釣道人、道敎の始祖(しそ))とは『三國演義(さんごくえんぎ)』『封神傳(ほうしんでん)』〔封神演義〕の中ではあのやうに非常によい役割を振當(ふりあ)てられてゐる人々ではないか。いくら何でも壇上に坐(ざ)して實際に刑政(けいせい)を司(つかさど)り、害を邦國(はうこく)に及ぼすやうな事をなさらうとは思はれぬ。上古(じようこ)希臘に於(お)いて人を神の犠牲(ぎせい)に供(きよう)したのは、いかにも恐ろしい事であつた。しかしその後、處女神(しよぢよしん)アルテミスはたゞ神話の中に出現(しゆつげん)するだけであり、その莊嚴(さうごん)の美を詩人が歌に詠(えい)じて歎美(たんび)するのは無論(むろん)一向(いつかう)差支(さしつか)へないのである。それと同じ事である。私は『聊齋志異(れうさいしい)』〔清・蒲松齢〕に題した漁洋山人(『香祖筆記』の著者)の詩を最も好み、今でも暗誦(あんしやう)出來る。それは「姑(しばら)く妄(みだ)りに之を言へ姑く之を聽かん〔東坡志林の語〕、豆棚瓜架(とうほうくわか)雨は絲(いと)の如(ごと)し、料(はか)るに應(まさ)に人閒(じんくわん)の語を作(な)すを厭(いと)ふなるべし、聽(き)くを愛す秋墳(しうふん)に鬼(き)の詩を唱(とな)ふを。」〔大意。まあとにかく好きなように書きなさい。自分も聞きたいように聞いていよう。豆や瓜の棚に寂しく雨が降っている。こんな時には世間の利欲の絡んだ話しはしたくないだろう。それよりは秋の墓場で幽鬼たちが詩を口ずさむのを聞く方が好ましいものだ。〕と云ふのである。(案ずるにこの詩は王漁洋の『蠶尾集(さんびしふ)』の中にも見える)この意味が解(わか)るならば、當然『諾皋記』や希臘神話の故事も愛讀(あいどく)出來さうなものだ。それなのに王君はどうして反つて自分から忘れてしまつて、段柯古に對して糞眞面目(くそまじめ)を求めてゐるのであらうか。中國の道教の天上に於(お)ける朝廷は、やはり元々人間界のアレ〔朝廷の反映〕なんであつて、たゞちよつとそれに鍍金(メッキ)がしてあるまでだ。たとへば李義山(りぎざん)〔唐・李商隠〕著『李賀小傳(りがせうでん)』〔李長吉小伝。李賀(字長吉)の伝記。李賀が夭折したとき、赤衣の人が白玉楼の完成を告げて迎えに来たという。〕に言ふ如く、上帝(じやうてい)が白玉樓(はくぎよくろう)を修(をさ)めて成(な)るや、長吉(ちやうきつ)(李賀)に頼んで來て貰(もら)つて記(き)を作らせたといふのなどはその一例とすることが出來よう。——金鑾殿(きんらんでん)〔紫禁城の正殿太和殿(たいわでん)〕はまだ土木(どぼく)であるが、この樓(ろう)は大方(おほかた)〔たぶん〕、白玉を以て瓦(かわら)に代(か)へてあるのだらう。さて又ここに記してある鄙悖(ひれい)の事であるが、劉と張の御兩人(ごりやうにん)が天翁の職位(しよくゐ)を交代(かうたい)したのは、實はこれも人の世に於ける簒奪(さんだつ)の藝當(げいたう)をそのまま天上へ持越(もちこ)して應用(おうよう)したまでのことであらうし、道理から言つても別段(べつだん)不當ではない。世人(せじん)はすでに天廷(てんてい)の朝見(てうけん)や除授(ぢよじゆ)〔爵位の剥奪と賜授〕を承認してゐる筈(はづ)なのに、史上に見慣れた簒奪がやはりあそこにも存在することを信ぜぬといふのは、それこそ二五(にご)を知つて十(じふ)を知らぬものである。『癸巳存稿(きしそんかう)』〔清・俞正燮〕卷十三「張大帝(ちやうたいてい)」の一則の中にもこの事を述べて、「これは張道陵(ちやうだうりやう)〔後漢・張陵。天師道(五斗米道)の創始者。〕が道書を作つた時の議論であつたに違(ちが)ひないと思はれるが、道藏書(だうざうしよ)〔道教の経典類〕を檢(けん)してもまだ見つからぬ」と云つてゐる。この評(ひやう)の甚だ確かであることは、劉〔漢王朝の国姓〕・張といふ二つの姓の上から見ることが出來る。五斗米(ごとべい)の賊(ぞく)の氣焔(きえん)もなほ存在し、後世(こうせい)つひに天師(てんし)にまで任(にん)ぜられてゐる程(ほど)だから、黄巣(くわうさう)の廟(べう)を作つたらうこと〔唐末の黄巣について廟を造った記録は未詳。〕もまんざら不當(ふたう)の事でなかつたことが知られる。しかし兪理初(ゆりしよ)(『癸巳存稿』の著者)の言葉の確實なのもたゞここまでが止(とま)りである。位(くらゐ)を奪(うば)つた話は史上から取つたのだといふことは前にすでに言つたが、その他の空想及び白雀や白龍は傳說中の有り合(あは)せの材料を、そつくりそのまま拾(ひろ)つて來たまでであつて、張道陵の名の下(もと)に歸(き)して之をば彼の新意匠(しんいしやう)といふわけには參(まゐ)るまい。〔張陵が制作したとまでは断定できない。また断定もできまい。〕同一の出鱈目でも、神話の中に在るときは嬉しいが、人間の世に在るときは恐ろしい。これは一つの極めて簡單な事であつて、くだくだしく言ひ立てなくてもよいわけのものではあるが、どうも世間にその事のわかる人は多くないやうに思はれる。