結縁豆
藥堂語錄
划水仙
王凝齋〔清・王椷〕著『秋燈叢話』卷十四に云ふ、
航海者が俄かに颶風の起るに遇ひ、檣も舵も折れ傾き、智慧も力も盡き果てた時、ここに划水仙〔划は「漕ぐ」意味で、水神(水仙尊王)に祈りを捧げる動作を指すという。〕の事がある。按ずるに水仙は海中の神であつて、その姓氏は詳かにせぬ。或は帝禹といひ〔治水の伝説からか。〕、或は伍相(伍子胥)〔身分は行人・太宰だったが、大臣に相当し、呉王夫差によって遺体を銭塘江に投げ込まれた話から、大海嘯と絡めて水神として崇拝された。〕及び三閭大夫(屈原)〔汨羅に投身した故事から、水仙になったとされ、端午の節句の競漕は屈原の霊を慰めるために行われるという。〕ともいはれる。甚だ靈驗あらたかで、求むること有れば忽ち應ずる。康煕〔康煕三六年(一六九七)、郁永河に従って台湾に渡航中、難船した。〕中、王云森君が舵を折られ、舟も中央から裂けるといふ難儀に遭つた際、船頭が「もはや划水仙のお加護をお祈りする外はない」と告げたので、髮をふりかぶりながら舟人と共に舷の間に蹲り、空手でもつて櫂を漕ぐやうな動作をなし、みな口々に鉦や太鼓の眞似をして、端午の節句の競渡のやうな風にやつたところが、遂にまたたく間に岸に着いた。又、顧敷公君は川の眞中で舟が壞れ〔同じ紀行(裨海紀遊)中の登場人物〕、すでに半ば沈みかけたが、划水仙に祈ると、舟は再び浮び出で、そのうちに助けの小舟が來て、その舟は沈んだ。どうも誰かが暗々の中にそれを支へてゐてくれたかのやうであつた。又、陳某は風に遭ひ、舟底はすでに裂け、鷁首〔風に勁いとされる水鳥の鷁を船首に刻んだ。〕は打俯さうとし、巨浪の中をぐる〳〵廻轉して、その危險さは一划の待つたも許されない位であつた。そのとき划水仙の事を言ふものがあつた。試みに之に傚ふと、沈んでゐたのが忽ち浮き上り、浪を穿つて飛ぶが如く、間もなく一つの島に着き、かくて恙無きを得た。この神の靈應は此の如くである。
案ずるにこの一節に言ふ所は、多分、郁永河〔清代〕著『裨海紀游』〔原文「稗海紀游」。「裨海」は小さな海の意。台湾海峡を指す。〕附錄『海上紀聞』に根據してゐる。王も顧も共に郁氏の友人であり、陳某の話も同じ頃の事で、卽ち郁が臺灣にゐた康煕丁丑〔康煕三六年(一六九七)〕、その時は八月六日であつたとある。『秋燈叢話』には乾隆戊寅年〔乾隆二三年(一七五八)〕の序文があり、相去ること正に六十年である。してみればその時郁氏の著述には傳本があつたに相違なく、故に凝齋は之を採用することが出來たのであらう。その文章も大半は同じで、たゞ少しづつ改めて簡潔にしてあるだけである。划水仙の紀事を讀むと、いつも私は愀然として〔心が暗鬱になる貌〕いやな氣持になる。人力の及ばぬ所は、たゞ之を超自然に委ねるの外なく、そして祈禱の外に更に咒禁をやるといふ、そのせつぱ詰つた氣持は益〻哀れむべきである。『叢話』には亦、俗に循つて因果や鬼狐についても記してあるが、文章の質實な點は喜ばしく、時には相當の見識もある。たとへば卷十三に蟬は決して風や露ばかり食つてゐるのではないと言ひ、卷十五に山東には虎を制することの出來るやうな豺狗も、壓して油にすることの出來る野鳥もゐないと言つてゐるのは、一般の文人が耳食を事としてゐる〔耳学問に専念している〕のとは少々ちがつてゐる。