結縁豆
藥堂語錄
麻團勝會
私の家に昔『皆大歡喜』〔蘇州の風俗史料等。〕四册を藏してゐた。道光元年〔一八二一年〕刊で、内容は『韻鶴軒雜著』及び『隨筆』各二卷であり、撰人の名は無かつた。その後轉居した爲に失つてしまひ、北京で又一部買ひ求めたけれども、紙も墨も前のには及ばない。『雜著』の中には佳作がなかなか多い。蓋し嘉慶道光時代に盛行した滑稽文中、上乘のものであらう。卷二に「麻團勝會」の事を書いた一篇があつて、その中に
沙三少爺〔沙家の三男の若旦那という意味。〕といふ者、その名は逸す。もと豪家の子であつたが、若くして遊蕩の爲に產を破り〔落ちぶれて〕、遂に家を棄てて麻團(胡麻團子)を賣つて口を糊してゐた〔やっと生計を立てていた。「糊口」を砕いた語句〕。これに話をしかけても答へず、そのまま市に歌ふのであつた。壬戍の歳のこと、あたかも競渡の日(端午節句)〔伝統的に競艇(ドラゴンボート)が行われた。〕であつたので、沙は舟を雇つて見物に行き、麻團一筐を携へ、「麻團勝會」〔勝会は功徳の大きい法要〕と書いた大きな額を船に懸げ〔送り仮名が濁音なので、「かかげる」と読む。〕、その傍に
借徑看龍船、不衫不履、三少爺現身說法。
回頭望虎阜、是眞是假、大老官觸目傷心。
といふ對聯〔家の門や部屋、お堂や四阿などに左右対称に掲げた文句。〕を懸げ、破れ衣に裸足のまゝ、歌ひながらぼろ〳〵淚をこぼすのであつた。
とある。最近、彭昌祚〔清代〕著『恐自逸軒瑣録』〔恐自逸軒は著者の書斎の号〕を閲し、その卷一にも「沙三標子」〔標子は放蕩息子という蘇州の俗語という。〕といふ一則があつてその事を記してゐるのを見つけた。してみると實際その人がゐたのであらう。たゞ傳聞の文字を異にしてをり、
沙は龍舟〔競漕〕を見物する爲、四千金を費し、餘つた金を割いて家人に與へ、自分の手許に五百金だけ殘した。中秋節になるとまた澤山の僧侶を呼んで施餓鬼をなし、米をこねて團子を作り、これに胡麻を混ぜ、筐に入れて車に載せ、大道を埋めつくした。遠近の住民子供乞食が風を聞いて奔せ集り、その數は數萬に達した。そこで高い處に香龕〔香炉や仏具を蔵めた厨子〕を釣り、これに「麻團勝會」と大書し、その傍に
三標子現身說法
大老官及早回頭
といふ對聯を懸げた。それが終るともはや一文無しのすつてんてんになつたので、着物を質に入れて得た一串の錢〔一貫文〕を資本にして、日々びんざさら〔木の板をつなぎ合わせて鳴らす打楽器。客寄せなどに使った。〕を叩いて街中を歌ひつつ胡麻團子を賣り歩き、買ひに來た者に一曲を歌つて食を侑めた。しかし一旦行き過ぎてしまふと、いくら後から追つかけて呼んでも、返事せずにどん〳〵行つてしまふ。家人が家に連れ戾さうといろ〳〵やつてみたが、どうしても飯一つ呼ばれようとせず、遂に飢ゑ凍えて病死してしまつた。
とある。案ずるに韻鶴軒は恐らく呉(蘇州)の人であらう。書の成つたのは嘉慶年間〔一八世紀末から一九世紀初め〕である。彭君の方は江西の人で、道光甲午〔道光一四年(一八三四)〕に蘇州を通り、同舟の人が沙三の事を述べたのを聞いたであつて、嘉慶壬戌〔嘉慶七年(一八〇二)〕からすでに三十二年を隔つてゐる。恐らく二說のうち前者の方が事實に近いのではあるまいか。若しも後者も本から當地に流轉してゐたのだとすれば、無論それも沙三傳說の一說であるわけだが、たゞその聯語の缺損してうまくない所から見ても、また年代も後になつてゐる所から見ても、どうやら展轉して訛を傳へたふし〔誤って伝えられたらしい形跡。「訛伝」を砕いた言い回し。〕が無きにしも非ずと思はれる。ところで麻團は一體どういふ食物だらうか。胡麻を團子の外側に著けたものだらうか、それとも餡としたのだらうか。『瑣錄』には「米をこねて團となし雜ふるに胡麻を以てす」とあるが、どうやらこれも想像の詞ではないかと疑はれ、どういふ混ぜ方であつたかは大いに疑問である。私の郷里では糯米の飯を搗き、胡麻砂糖或は豆をつぶしたのを包んで團子にし、名づけて「麻餈」〔大福餅のような菓子〕と云つてゐる。又、湯團〔団子〕を作り外側に胡麻を著けて、香油〔ごま油の類〕でいためたのを「金團」〔ごま団子〕と云つてゐる。恐らくこの二者のどちらもそれではあるまい。
譯註