結縁豆
藥堂語錄
辛卯侍行記
陶拙存〔陶葆廉〕著『辛卯侍行記』〔父陶模が甘粛新疆巡撫に任命された際の随行記。光緒二三年(一八九七)刊。題の辛卯は光緒一七年(一八九一)。〕六卷、本は手に入れにくいわけではないが、多くは毛太紙〔習字用の薄い竹製紙〕を用ひてゐる。最近漸く官堆紙印〔官堆紙で印刷された本。官堆紙はやや厚手の竹製紙。中厚のものは毛辺紙という。〕のを一部手に入れた。原板『求己録』〔陶拙存〕と酷似してゐるのも嬉しい。この本は西北〔西北の内陸部。シルクロードの入口に位置する。〕の地理を記したものであるが、處々事に觸れて叙べてゐる意見もなかなかよく、筋が通つてゐて面白い。卷一に五月十三日懷慶〔懐慶府〕の東門を出たことを記し、之に注して、
郭巨〔後漢代〕の故里の碑がある。按ずるに巨は自分の子供が母の食扶持を分けて貰つて食つたのを氣に病んだといふのであるが、そんなら何故子供を友人にでも託けるといふやうな方法を考へなかつたのだらうか。さうはせずに彼は之を埋めようとした。これは大いに母の心を傷めて、孝行とは云へぬわけである。どうしてこんなのを丹靑に傳へて〔歴史書に残して〕よからうか。凡そ訓蒙の書を編むには、宜しく情理に近い者を取るべきである。いつであつたか或る本に故事の繪のかいてあるのを見たところ、第一卷に唐人元徳秀が男の癖に乳が出るやうになつて、その兄の子に乳を飮ませてゐる繪がかいてあつたが、これは理窟から云つて絕對に有り得ないことである。近頃の子供は隨分とませてゐるから、このやうな出鱈目を敎へたところで、害にこそなれ益はない。
とある。案ずるに郭巨の事は甚だ理に悖り、後世でも之を非難する者が多い。ここの訓蒙書云々の一節は特に卓見であつて、操觚者〔文筆業者〕は知らざるべからずである。だが實を云へば元徳秀のみに限らず、董永にしても亦一例である。『太平御覽』〔北宋の類書。「太平御覧」「太平広記」「冊府元亀」「文苑英華」を宋四大書という。〕の中に董永の事が非常に詳しく出てをり、劉向〔前漢代〕の『孝子傳』より引くとことわつてある。それから馮夢龍〔明代〕の『笑府』や趙夢白〔明・趙南星〕の『笑贊』の中にも笑話が記錄されてゐる。それは「天帝、董永が孝行を賞でさせられ、仙女をば妻として賜つた。仙女達大勢見送つて來て、みな〳〵頼んでいふやう、下界に行つて孝行な息子がゐたら、どうぞ手紙で知らしてたもれ。」といふのである。これは必ずしも趙君の賛〔総評〕を待たずとも、すでにその悠謬なるはわかるわけだが、たゞ董永の場合は人に可笑しいと思はせるだけの事であつて、まだしも大きな害はない。これに反して元徳秀の方はそれこそ人痾になつてしまつてゐる。又、卷六には臘月四日、三角泉に着いたことを記し、「南山の下に泉出づ。溝を成し、草地數里あり」といひ、その注に
みな旱蘆〔枯れ葦〕と、ちり〳〵曲つた短茨、俗に刺疙疸〔刺疙瘩〕と呼ばれるものばかりである。間〻蓆具草がある。これは息鷄とも書き、或は芕萁とか、集吉とか、笈笈などとも書く。戈壁(沙漠の意)の中の水氣のある處には、專らこの三種の草が生える。遠くから眺めると芃々としてゐるが、近づいてみると數歩に一叢づつあるに過ぎず、やはり荒い沙と細い石とアルカリ性の土塊のみで、土壤は減多に見當らぬ。耕植の出來ぬばかりでなく、他處の草をここに移植しても育たない。大沙漠は不毛の地が十の七八であり、車中から遙かに荒草を望見すると、忽ち愁ひ顏が綻びて來る。
これは塞外の風物を記して、頗る風致がある。しかも之を自身の體驗に得たもので、人の話を聞き嚙つたのとは遙かに類を異にする。書中にまた蒙古に屯田すべしとの議論を主張する人をこき下してゐるが、龔定菴〔清・龔自珍〕いかに偏強でも、これには全く一言もあるまい。
譯註