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藥堂語錄

七修類稿(しちしうるゐかう)

郎仁寳(らうじんぽう)〔明・郎瑛〕著『七修類稿(しちしうるゐかう)』〔本集51巻、続稿(七修続稿)7巻〕は文筆(ぶんぴつ)もしどろもどろなら、見識も卑陋(ひろう)で、讀んでゐてまことに氣がふさがる。けれども何(なん)〔に〕せよ卷帙(くわんちつ)が非常に多く、資料としては取れるわけだから、依然(いぜん)として明代(みんだい)に於ける重要な說部(せつぶ)〔説話、逸話、奇談、小説、雑記類〕の一たるを失(うしな)はぬ。卷十五から十八までが「義理類」〔経書の解釈、道徳、学問論など〕であつて、意見を發揮(はつき)してゐるのは大抵(たいてい)この數卷の内に在る。だが偶〻(たまたま)立派な議論もあり、たとへば卷十七「鄧攸(とういう)〔晋代、字伯道〕わが子を棄(す)てて弟の子を全(まつた)うす」といふ一條に

鄧攸が自分の子を棄てて弟の子を助けたことに就(つ)き、『中興書(ちゆうこうしよ)』〔南宋・何法盛の著。晋中興書。〕には、その子が夕方になつて追ひついて來たので、彼は又もその子を樹に縛(しば)りつけたとあるが、余思ふに、自分の子も弟の子も幼(をさな)く、二人とも助けられぬ立場にあつたればこそ、自分の子を棄てて弟の子を助けたわけである。これも一緒に連れて行けるばかりでなく、路(みち)も知つてゐる者でもあるのだ。劉須溪(りゆうしゆけい)〔南宋・劉辰翁〕は「實際にその事があつたのではなからう。弟の子を全(まつた)うしたことを感心して話すの餘(あま)り、このやうに潤色(じゆんしよく)したまでであらう」と言つてゐるが、之を鄧攸の本傳(ほんでん)や當時の人の言(げん)に照(てら)して考へるにみな一致してゐるのだから、やはり實際この事があつたと思はれる。嗚呼(ああ)、一緒に連れて行けるのに又もこれを樹に繋(つな)ぐとは、人の心を持つ者に之が忍(しの)べるであらうか。これこそ「伯道に兒(こ)無かりし」所以(ゆゑん)である。「天道の知る無かりし」爲(ため)なぞで何(なん)であるものか。あゝ、晉人(しんひと)の名を好むこと此(ここ)に至(いた)つて極(きは)まれり矣。

案(あん)ずるに鄧攸の事は郭巨(くわくきよ)が兒を埋(う)めた話と正に同類(どうるゐ)である。人には或(あ)る方面に偏向(へんかう)する性質がある。當時或(あるい)はせつぱ詰(tま)つてさうせざるを得なかつたのかも知れず、後世の人はたゞ默(だま)つて憫(あは)れみの情を以て之に處(しよ)して然(しか)るべきで、何(なに)も餘計(よけい)な詮議(せんぎ)をすることはないのである。もつとも、之を以(もつ)て孝悌(かうてい)の手本として標榜(へうばう)するが如きは甚だしく道理を害(そこな)ふものだ。愈理初(ゆりしよ)〔清・兪正燮の字〕の所謂(いはゆる)「酷儒(こくじゆ)の莠書(しゆうしよ)」(『癸巳存稿(きしそんかう)』〔兪正燮〕卷十四に見ゆ)〔愚にもつかない書物〕は輕々(かるがる)しく許すべきではないのである。郎氏が人に忍(しの)びざるの心〔酷い行いができない心〕を以て論を立ててゐるのは、いかにも正論である。たゞ「これこそ伯道に兒無かりし所以」と云つてゐるところに、やはり報應(ほうおう)〔因果応報〕の陋見(ろうけん)が見られる。實はこれとてただ「仁(じん)を求めて仁を得た」〔自己の信念を貫いた〕だけのことである。又「晉人の名を好むこと」に結論を持つて行つたのも、見當(けんたう)はづれである。といふのが、莠書(しうしよ)の目的は私利(しり)に在つて、名とは關係が無いからである。嘗(かつ)て啓蒙書(けいまうしよ)の中に陸隴其(りくろうき)〔清代〕著『崇明老人記(すうめいらうじんき)』を引いてあるのを見、つい最近も『甘泉郷人稿(かんせんきやうじんかう)』〔清・銭泰吉〕を讀み、又それを演述(えんじゆつ)して詩としたものを見て、その爲に幾日間も不愉快でならなかつた。その老人が自分の四人の子供を人の奴隷(どれい)として賣り、晩年それらの子供の孝養(けうやう)を受けて、賭博三昧(とばくざんまい)に日を送つたといふのであるが、これこそ太平の世の莠民(しうみん)ではないか。しかるに陸・錢の諸公(しよこう)が盛(さか)んに之を賞(ほ)め上げて、幸福な父親の手本のやうに言つてゐるのである。儒生(じゆせい)もここまで理性を失つてしまつては、鄧攸や郭巨を表彰(へうしやう)するのに比較して更に更にひどいものだと言はねばならぬ。

譯註

*『晉書(しんじよ)鄧攸傳』に曰く、「攸(いう)、字(あざな)は伯道(はくだう)、河東(かとう)の太守(たいしゆ)となる。永嘉(えいか)の末〔西晋の末年。4世紀初め。〕、石勒(せきろく)〔後趙の建国者〕の陷沒(かんぼつ)する所となる。勒の泗水(しすい)を渡るや、彼は乃(すなは)ち牛馬に妻子を負はせて逃げしが、賊に遇(あ)ひてその牛馬を掠(かす)め去られ、步走してその子及び弟の子の綏(すい)を擔(かつ)ぐ。兩全(りやうぜん)すること能(あた)はざるを度(はか)り、乃ちその妻に謂(い)ひて曰く、吾(わが)弟早く亡(ばう)じて唯(ただ)一息(いつそく)あるのみ、理として絕つべからず、たゞ應(まさ)に自(みづか)ら我兒(わがこ)を棄(す)てんのみと。妻泣いて之に從(したが)ふ。乃(すなは)ち之を棄てて去り、つひに以て嗣(し)無し。時人(じじん)義として之を哀(あは)れみ、之が爲(ため)に語(ご)ありいふ、天道知る無し、鄧伯道(とうはくだう)をして兒無からしむと。」
*郭巨(くわくきよ)は漢の人。家が貧乏で母に滿足に食事もさせきれぬので、妻と相談の上、食扶持(くひぶち)を減らす爲に三歲の子供を地に埋めることにし、二尺ばかり穴を掘つた時、中から黃金一釜が現はれ、天郭巨に賜(たま)ふ、官取るを得ず、民(たみ)奪ふを得ず、とそれに書いてあつた。二十四孝(にじふしかう)の一とされてゐる。次章參照(さんせう)。