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結縁豆

藥堂語錄

五祖(ごそ)肉身

蔣超伯(しやうちやうはく)〔清代〕著『蔍澞薈錄(れいぎよわいろく)』〔麉澞薈錄。「麉澞」は深山幽谷の鹿のように、隠棲を楽しみながら、「薈錄」は茂った草のように詰まらないものの寄せ集めをするという謙辞。〕卷二に五祖といふ一條があつて、

『棘闈奪命錄(きよくゐだつめいろく)』〔清代、科挙の指南書。「棘闈」は貢院の意。〕に「黃梅(わうばい)(湖北省の縣名)東山(とうざん)〔馮茂山。中国禅宗五祖の弘忍大師が道場を開き、東山寺と名づけ、その教えは東山法門として普及した。元代に東山五祖寺と賜号された。〕の五祖は肉身である。明末のころ一兵士がその指を斫(き)つたが、その指は村の老婆に拾はれ、蔣文學(しやうぶんがく)なるもの〔科挙の受験生を文学と呼ぶ。〕が漆工(しつこう)に命じて上に續けしめ、元のやうに完全になつた。壬午(じんご)の秋、蔣は夢に五祖のお告げを受けた、曰く、汝が指を續(つ)いでくれた功を念(おも)ひ、試驗に及第(きふだい)させてやる。八十番で及第するであらうと。果してその通りであつた。」とあり、又按(あん)ずるに虞伯生(ぐはくせい)〔元・虞集〕の『黃梅五祖碑』に、宋の末年、國境は日に蹙(ちぢ)まり、邊障(へんしやう)〔国境の防衛線〕は兵災を受けた爲、官民は師の道體(だうたい)を奉(ほう)じて入りて福を求めたところ、州は果してその神靈の力により堵(と)に安(やす)んじ〔無事に守り抜き〕、鋒鏑(ほうてき)に遭(あ)はずに濟(す)んだ。〔戦禍を免れた。〕五祖の神異(しんい)かくの如し。」とある。

私はさう考へてゐるのだが〔以下の判断を指す。〕、神異を談(かた)るのは一向差支(さしつか)へない。どころか、確かに自(おのづか)らその佳趣(かしゆ)もある。たゞ肝腎(かんじん)なのはそれを上手に談り、さうしてそこに何かの底意(そこい)があつてはならぬ。ところが上に擧(あ)げたやうなのは鄙陋(ひろう)も甚だしい。一體蔣君は何の見どころがあつてこんなのを記したのだらうか。佛教では固(もと)より奇瑞(きずい)を持ち出さぬわけではない。しかしあの洒脱(しやだつ)な禪宗(ぜんしう)が、さういふ事を重んずる筈(はづ)はない。肉身を留(とど)めておくさへ既(すで)に餘計(よけい)な事であるのに、何の僅(わづ)か指の一本かそこらを、くよくよと思ひわづらふことがあらう。及第を餌(え)にして人に賴むなどとは、市井(しせい)の俗氣(ぞくけ)も甚だしい。識者は當然之を笑ふだらう。念佛婆(ねんぶつばば)のやうにすぐと眞(ま)に受(う)けてしまつてよからうか。これこそ正(まさ)に譚復堂(たんふくだう)〔清・譚献〕の言(げん)の如く、「科擧の蔽(へい)すでに深く、士大夫之に役使(えきし)されてゐる」からで、さればこそ『棘闈奪命録』といつた類(たぐひ)の莠書(しゆうしよ)(碌(ろく)でもない本)が書齋に出現し、經史と席を爭(あらそ)ふに至つたのである。私は前に文文山(文天祥(ぶんてんしやう))〔南宋代〕の『指南後錄(しなんこうろく)』に據(よ)つて、六祖(りくそ)〔唐・慧能〕の眞身(しんじん)が元兵によつて剖割(ほうかつ)された話を記(しる)したのであつたが、いま五祖もまた清兵によつてその指を切られてゐる。師匠も弟子も共に兵刄(へいじん)に厄(やく)せられてゐるわけで、まとに「獨(どく)なく偶(ぐう)あり」〔無独有偶。ものには必ず対になるものがある。単独の事例はない。〕である。たゞ五祖がよく蘇州に福を與(あた)へ、元兵の殘毀(ざんき)から免(まぬか)れしめた點が、六祖と正反對であるだけだ。元明より今に至るまですでに六七百年を歴(へ)てゐるが、一體(いつたい)兩祖の眞身はなほ存(そん)してゐるかどうか。若(も)しも功德(くどく)の人が發起(ほつき)して之を荼毗(だび)に付し、舍利(しやり)も一緒に埋めて一切合財(いつさいがつさい)の締(し)めくくりをつけて上げたならば、それこそ大(たい)した功德だらうに。