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結縁豆

藥堂語錄

姚鏡塘集(えうきやうたうしふ)

私の書物の買ひ方は甚だ亂雜(らんざつ)を極めてをつて、いつも瓜(うり)の蔓(つる)が連(つな)がり合つた具合(ぐあひ)である。たとへば『困學紀聞註(こんがくきぶんちゆう)』〔清・翁元圻。南宋・王應麟『困学記聞』に註を施したもの〕に因(よ)つて翁鳳西(おうほうせい)〔鳳西は翁元圻の号〕の『逸老巢詩集(いつらうさうししふ)』〔佚老巣遺稿〕に及び、舒白香〔清・舒夢蘭の号。詞の概説書『白香詞譜』等を著す。〕に因(よ)つて龔漚舸(きようおうか)〔清・龔鉽の号〕の『玉蔬軒集(ぎよくそけんしふ)』〔「欧可詩文鈔」所収〕に及び、潘少白〔清・潘諮。文集「布衣集」に「姚鏡塘駕部伝」があり、親友姚鏡塘の「問心無愧」の生き様を伝えるという。「少慕顔曾管楽非,胸中海嶽夢中飛。近来不信長安隘,城曲深蔵此布衣。」(龔自珍「己亥雑詩」) 〕よりして姚鏡塘(えうきやうたう)〔清・姚学塽。龔自珍は「姚帰安」の評価を聞き、自作の八股文二千篇を「一炬」した(くべた)という。〕の『竹素齋集(ちくそさいしふ)』に及ぶといつたのは、みなその口である〔そんな具合である〕。ところでこれらのずる〳〵連がつて出て來たのには大抵目ぼしいのは無いのであるが、結局それでも厭(いと)つて棄てることもしないでゐる。姚集の最初に手に入れた一部は、光緒年間に重刻(ぢゆうこく)した者で、甚だ意に滿(み)たなかつたところ、最近、道光丁亥〔道光七年(一八二七)〕の刊本を買ひ入れることが出來たので、前から持つてゐたのは閒歩菴(かんぽあん)(沈啓无(しんけいむ))に贈つた。といふのが彼もまた潘少白の集(『林阜間集(りんふかんしふ)』)を有してゐることを知つてゐたからである。龔定菴〔龔自珍の号定盦と同義〕の『己亥雜詩(きがいざつし)』の六十に姚鏡塘に言及(げんきふ)し、それに注して、

功令文(こうれいぶん)(八股文(はつこぶん))〔功令(規則)に則って定められた科挙の答案。破題・承題から起講・領題・入手と進み、起股・中股・後股・束股と股(対偶)を連ねていく構成のため、八股文という。〕二千篇を抱(いだ)いて歸安(きあん)の姚(えう)先生学塽(がくさう)に見(まみ)えたところ、先生は初(はじめ)は賞讃して貸してくれと仰(おほ)せられたが、忽(たちま)ち色(いろ)を正(ただ)して〔厳粛な表情になって〕、「我文(わがぶん)は墨を著(つ)けて筆を著(つ)けず、汝(なんぢ)の文は筆墨(ひつぼく)兼(か)ね用(もち)ひたり。〔撲実さよりも潤飾が目立つ。〕」と云はれたので、私は自ら功令文を燒いてしまつた。

とある。私は前に姚集を讀み、その中の時文(じぶん)(八股文)三卷は仕樣(しやう)のないものと見て頗る輕視してゐた。それがこのやうに貴重なものであつたとは夢にも知らなかつた。定菴の詩に「此事千秋無我席」(八股文を作る事にかけては私は永久に先生にはかなはぬ)と云ひ、故に「毅然(きぜん)一炬」に付(ふ)してしまつたのである〔思い切って火に燻べてしまった〕。果(はた)して然(しか)りとすれば〔本当にその通りだとすれば〕、私が解(かい)しなかつたのも全く無理もなかったのである。〔龔定庵でさえ暁らなかったほど深遠な文だとは夢想だにしなかった、という意味に表向きは見えるが、ここは皮肉反語の意味を含むか。〕『湖州府志(こしうふし)』〔清代に周學濬らが重修〕に周學濬(しうがくしゆん)の作つた姚君の傳(でん)があり、その中に『己亥雜詩』の注を引いて時文を焚(や)いた事を記し、「當時、仁和(じんわ)の龔自珍は才を負(お)うて傲睨(がうげい)してゐた〔世を睥睨していた〕が、獨(ひと)り彼に對しては心服(しんぷく)して敢(あへ)てその字(あざな)をいはずに、姚歸安と稱(しよう)するに至つた」と云つてゐる。〔官職や出身地で呼ぶのは字で呼び捨てにすることを避ける敬意の表現とされた。著者はこの後、その意味ではないと述べている。〕これも恐らく『雜詩』の「毅然一炬爲歸安」(思ひ切りよく焚いてしまつたのも歸安の爲である)の一詩に根據(こんきよ)したものと思はれる。しかもどうやら速斷(そくだん)に失(しつ)したやうであつて、詩の注にはちやんとその名を稱して「姚先生学塽」といつてゐる。歸安と云つたのは詩の中の語だけである。それだとて若(も)しも鏡塘とやれば平仄(ひやうそく)が合はぬし〔原詩は「華年心力九分殫、淚漬蟫魚死不乾。此事千秋無我席。毅然一炬為歸安。」なので押韻・平仄それ自体の意ととる。辻褄が合わない意味でも用いる。〕、姚公とか姚先などとやつてみたにしてもやはり穩當(おんたう)を欠く。それで便宜上(べんぎじやう)地名を持つて來ただけのことである。必ずしもそれが定稱(ていしよう)で、どこででもそんな言ひ方をするといふわけでもなからう。「或は病んで瑣窗(ささう)〔花模様を施した窓枠。深窓の雅語にも用いられる。こうした窓装飾は漢代から見られるという。〕幽(かすか)なり」といふ例の一件は、文章の爲に意境(いきやう)を造(つく)つた嫌ひがありはするが、これとて實はよくあることで、今更(いまさら)氣に病む事もあるまいと私は考へる。〔文飾を愧じて全部焼却するほどのこともなかった、という稍揶揄の含みのある表現。〕若(も)しも必ず「一筺(いつけう)の櫻桃(あうたう)を先づ予が懷王(くわいわう)に與(あた)へよ」と欲(ほつ)するならば、それは古學家に笑はれるばかりか、白話詩を作る人々からも必ずしも賛成されるときまるまい〔ママ。「とは限るまい」か〕。〔吾(あ)が仏貴(たつと)し式の「湖州府志」の郷里自慢を暗に諷刺しているか。〕

譯註

*宋の詞人張炎(ちやうえん)〔南宋代。「詞源」を著す。〕の父張樞(ちやうすう)は音律に通じた人で、一詞を作る每に必ず歌者に歌はせ、音律に協(かな)はぬと直(ただ)ちに作りかへた。この詞、最初は「瑣窗深」と作つたが、「深」の字が協はなかつたので「幽」と改め、又協はなかつたので更に「明」と改め、始めて協つたと云ふ。(張炎の『詞源』卷下に見ゆ)これは音律に合はせる爲に詞の意を曲げたもので、甚だ不合理だと今日批評する人がある。
*史思明嘗(かつ)て櫻桃〔サクランボ〕をその子の朝義(てうぎ)及び周贄に與(あた)へんとして、侍者(じしや)に命じて彩箋(さいせん)に次の如く書かしめた。「櫻桃一籠子、半赤一半黄、一半與懷王〔史思明が皇帝を自称したとき、子の史朝義を懐王に封じた。〕、一半與周贄〔史思明の側近〕」。小吏龍譚(りようたん)進み出(い)でて、「後の二句の前後をかへると聲韻(せいいん)が協(かな)ひますが」と忠告したところ、思明曰く、「韻が何だといふのだ。わが子(懷王)をまさか周贄なぞの下に置かれるものか。」〔「安禄山事跡」に史思明の「不識文字」を嗤う逸話として出てくる。〕