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結縁豆

藥堂語錄

存拙齋札疏(そんせつさいさつそ)

羅叔蘊(らしゆくうん)(羅振玉(らしんぎよく))〔清代、号雪堂・貞松老人〕は私の鄕里の傑出(けつしゆつ)した學者たるに愧(は)ぢぬ。それになかなかなか見識もありその文章は樸實(ぼくじつ)で特に好もしく、作る所の序跋(じよばつ)も實に立派で、私は最近これに比肩(ひけん)すべきものは一寸(ちよつと)無いのではないかと考へてゐる。『雪堂校刊群書叙録(せつだうかうかんぐんしよじよろく)』二卷は鉛字(えんじ)を用ひて印刷され、「仿宋(はうそう)」〔宋朝体〕とはいふものの、實に讀みにくい。なぜ木版(もくはん)にしなかつたらうかと惜(を)しまれてならぬ。舊刻(きうこく)の諸書は昔全部所有してゐたが、その後大抵は散失(さんしつ)してしまひ、最近再び蒐集(しうしふ)し始めた。『讀碑小箋(どくひせうせん)』『眼學偶得(がんがくぐうとく)』〔「眼学」は、眼で鑑識する考古学・金石学等を指す。〕『面城精舍文(めんじやうしやうじやぶん)』〔面城精舎雑(襍)文とも。面城精舎は羅振玉の書斎の名。〕などは、いづれもまだ得易(えやす)いが、『存拙齋札疏(そんせつさいさつそ)』〔札疏は札記(箚記)。「讀碑小箋」と本書は著者十代の著述。経学大師兪樾が札記を引用して識者の話題となったという。〕は稍少(ややすくな)い。ところが私は思ひがけずもそれを二冊まで手に入れ、少しく異同があるので、合訂(がふてい)〔照合訂正〕して之を藏してゐる。第一本は扉(とびら)に篆書(てんしよ)で五字の書名があり、その裏に光緒戊子(ぼし)〔光緒一四年(一八八八)〕夏刊と題してあり、本文が十二葉(えふ)、最後に汪悔翁(わうかいおう)〔汪士鐸〕の跋(ばつ)がある。第二本には題葉(だいえふ)はなく、本文十八葉、汪跋の後に自題記があつて、壬辰(じんしん)〔光緒一八年(一八九二)〕仲夏(ちゆうか)と署してある。つまり四年後に改訂したものである。本文は、前の五葉は兩本悉(ことごと)く同じであるが、第二本の六から十一までの六葉は新たに増入(ぞうにふ)したものであり、十二から十八までは第一本の六から十二までの各葉と全く同じく、たゞ最後の二葉の中から三則を刪去(さんきよ)し、一則を補入(ほにふ)したのが異(ことな)つてゐるだけである。又、第一本の卷頭(くわんとう)の「小引(せういん)」には「羅振鈺」と署名してあるのが、第二本では「振玉」と改められてをり、第一本の末尾に「弟振銘(しんめい)〔羅振玉の弟は羅振常・羅振甲の二人だという。誤植または庶弟か。〕校字(かうじ)」とある一行五字も削去(さくきよ)されてゐる。かうした異同は無論大局(たいきよく)から見ればどうでもよいことではあるが、しかしまことに面白いことであつて、ちやうど文章の草稿(さうかう)をみて、その塗抹(とまつ)したり書き加へたり改めたりしてある處に反(かへ)つてよく作者の意向(いかう)が那邊(なへん)〔どのあたり〕にあるかが窺(うかが)はれるのと同樣である。羅君が晩年に作つた文章を讀むと、きまつて自分の忠義を賣物(うりもの)にしてひけらかし、范嘯風(はんせうふう)〔清・笵寅〕の言つたやうにどうも「令人心㽹」(嘔吐(おうと)を催(もよお)させる)〔「人心をして㽹(むねわるく)せしむ。」㽹は音ハン・ホン。〕次第であるが、あれはつまり無くて七癖(ななくせ)〔人は癖を免れない〕の一つであらう。