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藥堂語錄

如夢録(じよむろく)

『如夢錄(じよむろく)』一卷、撰人(せんじん)の姓名を著(しる)さず。明末(みんまつ)に於(お)ける開封(かいほう)〔かつて北宋の都だった。八朝古都(夏・魏[春秋]・後梁・後晋・後漢・後周・北宋・金)といわれ、また北宋以後抃京(べんけい)と呼ばれた。〕の繁華(はんか)なりし有樣を記したものである。その『自序』に「抃京(べんけい)無邊(むへん)の光景の、たゞ一場(いちば)の夢境(むきやう)と爲(な)り果てしことを知らしむ。故(ゆゑ)にかく名づく」とある。今見る所の印本に二種ある。その一は寫夢菴(しやむあん)鉛字(えんじ)印本であり、その二は河南圖書館の木刻本(もつこくぼん)である。二者いづれも民國になつてから出來たもので、鉛字本の方が少し早く出たものと思はれる。この本の中に記してあることは頗る細緻(さいち)で好もしく、文章も質樸(しつぼく)であるが、惜(を)しむらく刊本ではすでに刪削(さんさく)が施されてゐる。もしも原本を見つけ出して讀むことが出來たならば、佳(よ)い處(ところ)がもつと澤山(たくさん)あるに相違(さうゐ)ない。前に咸豐(かんぽう)二年〔一八五二年〕常茂徠(じやうもらい)の序があり、それに

錄中の語は多く鄙俚(ひり)、類みな委巷(ゐかう)〔路地裏や横丁〕の秕稗(ひはい)小說〔俗悪な読み物〕であつて、荒誕無稽(くわうたんむけい)、文人學士の吐棄(とき)〔唾棄〕する所である。繁塔(はんたふ)〔開封市内最古の仏塔〕が龍の爲(ため)に半分撮(つま)み去られたとか、吹臺(すいたい)〔由緒ある高台の名〕はある婦人が首帕(しゆはく)〔頭巾〕に土を包んで抛(ほう)り投げて出來たのだとか、北關(ほくくわん)の關帝(くわんてい)〔北関地区の関帝廟に祀られた関羽の像〕が臨埠集(りんぷしふ)(地名)へ泥馬(でいば)〔泥人形の馬。玩具や供物。〕を買ひに行つた〔売りに行ったとも。〕とか、相國寺(しやうこくじ)〔大相国寺〕の大門(だいもん)の下の仁王(にわう)樣は咬臍郎(かうせいらう)〔元曲「白兎記」で後漢の初代皇帝劉知遠の忘れ形見として登場する人物。〕がその臂(ひぢ)の上で縊死(いし)したので、吃驚仰天(びつくりぎやうてん)して暗夜(あんや)北門から逃げ出したものだとか、凡そさういつた類(たぐひ)は、指を折つて數へ難く、實に捧腹(ほうふく)に堪(た)へたる次第である〔枚挙に遑がなく、どれも笑止千万だ〕。

などとある。これを見ても刪去(さんきよ)された者が如何(いか)に面白い傳説(でんせつ)であつたかがわかる。それこそ千金でも買ひ難い民間傳説の好(かう)資料であつたらうものを。明末の遺老(ゐらう)の手で辛苦(しんく)して記録せられ、その寫本が二百餘年の後に流傳(るでん)されたのが、贋(にせ)風雅の文人學士の爲に悉(ことごと)く抹殺(まつさつ)されてしまつたのは、返すがへすも惜しいことであつた。王阮亭(わうげんてい)(漁洋山人(ぎよやうさんじん))〔清・王士禎、号阮亭・漁洋山人〕も『夢梁録(むりやうろく)』を評して「その文は雅馴(がじゆん)ならず」と謂(い)うてゐるが、その貴重すべき點は實にその雅馴ならざる處に在ることを知らなかつたものである。大體民間の生活といふものにしてからが、文人學士の期望(きばう)するやうな具合に風雅ではあり得ないのだから、それが彼等(かれら)のお氣に召さぬのはまことに無理からぬ話である。しかし如實(によじつ)に記録して、しかもそこに別種の雅趣(がしゆ)が生ずることもあり得るわけだが、それは又彼等の知り得ない所の者である。