結縁豆
藥堂語錄
跨鶴吹笙譜
顧子山〔清・顧文彬〕著『眉綠樓詞』〔歌曲の詞集〕凡そ八種、類を分つて書を成し、その體例頗る新しい。最後の一種は『跨鶴吹笙譜』〔跨鶴吹笙とは、道教の神仙伝に基づき、周霊王の王子姫晋が笙を吹くのを好み、崇山で神仙の修行をした後、鶴に跨って天に昇ったという故事から、音楽の霊妙さを象徴する語になっているという。〕といひ、みなその園中〔後出「怡園」を指す。〕の景物を詠じたもの、「望江南」の調〔唐代に確立した詞の代表的な調べという。〕を用ひ、凡そ六百首、誠に潘遵祁〔清の蔵書家〕の云ふ如く、前人の未だ有せざる所を創めたものである。私は別に一册の單行本を藏してゐるが、それは中縫〔柱のことか。〕に譜の名がなく、前に艮菴〔顧文彬の号〕七十の小像がある。蓋し光緒庚辰年〔光緒六年(一八八〇)〕の刻〔刻版〕であらう。それが甲申年〔光緒一〇年(一八八四)〕所刻の總集では像にも題詞にも少しづつ修改が施され、七十四歲と題されてゐる。私は更に『跨鶴吹笙續譜』一册を手に入れた。詞千九十五首、毛訂批校本〔清・毛晋。批校本とは、批評や注記を書き込んだ本。〕であるが、五十五葉までしか校してなく、しかも刪削した所が多い。恐らくこれも實行出來なかつたのであらう。末尾に「辛丑正月、憶雲、武林(杭州)にて讀む」といふ一行の題字があり、小印は朱文〔陽刻〕で「巳盫」〔盫は庵の意。〕とある。どうも批校者と一手に出でたもの〔同一人の記述〕ではないらしい。東廠の圖書館(北京東廠胡同〔胡同は北京の旧市街の路地・街区〕にある東方文化事業部の圖書館)の書目續編の中にこの書が見え、民國二十二年〔一九三三年〕刊本」と註してあるのは、或は別の一本であらうか。これは平伯(兪平伯)〔兪銘衡。兪樾の曾孫。〕から聞いた話であるが、彼は幼いころ怡園(蘇州の名園)に遊んだことがあるとのことだから、光緖の末にも園はまだ完全に殘つてゐたと思はれる。岡千仞〔岡鹿門〕著『蘇杭日記』〔「観光紀游」(一八八六)所収〕卷上にも、甲申〔一八八四年〕閏五月五日に怡園に遊んだことを記して、
歸途、顧艮菴文彬〔顧文彬、号子山・艮菴(艮盦)〕を訪ふ。門に「肅靜」「道臺」「翰林」「布政」等〔静粛にせよ(他に道を開けよという意の「廻避」など)、道台は府市の間に位する地位、翰林は翰林院、布政は布政官(民政・財政の長官)。〕の朱牌〔明淸代、儀杖や役所の門前に掲出された朱塗の木札。退隠後は家の正門に並べて格式を誇示した。執事牌・高脚牌。〕を陳ねあり、みな在官當時用ひしものなり。導かれてその闢く所の怡園を觀る。曲房〔離れ屋〕無阿、間ふるに奇卉異草を以てし、澄池虚潭、交ふるに古木怪石を以てす。石の大なる者は二三丈、岩竇四に鑿ち、突怒偃塞して〔上に切り立って重畳している貌〕、斧削の痕無し。彩籠に孔雀・丹鶴〔丹頂鶴〕・錦鷄〔金鶏〕等諸〻の異禽を飼へり。未だ知らず洛陽の名園にこの壯麗ありしや否やを。(原漢文)
とある。冠蓋して遊山する〔貴紳高官が行列を仕立てて仰々しく物見遊山すること。〕は、昔人の譏る所であるが、中國の士大夫は往々にしてやりかねない。上文に見える顧君が陳べてゐた高札や鹵簿〔行列〕なども、亦その一例である。役所から歸つて冠冕を脱ぎ机の上に置くのも、石を枕にして暫し眠るのも、どちらも無論惡からう筈はない。しかし郷紳〔地方の名望家、地主階層〕の庭園の門前に清道牌〔前出の「粛静牌」「廻避牌」など、人々を避けさせる職牌〕を立てるなんぞは、よく有る事とはいへ、考へるとやはり笑止な事〔お嗤い草〕である。