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藥堂語錄

瑣事閑録(さじかんろく)

張林西(ちやうりんせい)〔清代の人〕著『瑣事閑録(さじかんろく)』正續(せいぞく)各二卷、咸豐(かんぽう)年刊。本は普通ありふれた本であるが、最近書賈(しよこ)〔本屋〕が奇價(きか)居(お)くべし〔将来高値で売れるからと流通させない〕となしてゐるため、高い金を出してやつと一部手に入れた。たしか十元(げん)近くも取られた。林西は河間(かかん)(河北省の縣名)の人で、その同郷の先達(せんだつ)たる觀奕道人(くわんえきだうじん)(『閲微草堂筆記(えつびさうだうひつき)』の著者、紀昀(きゐん))を慕(した)つてゐる人と覺(おぼ)しく、やはりいろんな因果怪異(いんぐわくわいい)を談(だん)じてゐる。たゞまだしも質樸(しつぼく)な點が好ましく、又好んで細々(こまごま)した事柄(ことがら)に就(つ)いていろいろと記(しる)してゐるのは、確かにその題名に負(そむ)かぬ〔細々した事柄を瑣事という〕。即ち卷上の林檎(りんご)・棗(なつめ)及び甜瓜(まくはうり)、續編(ぞくへん)卷上の麵(めん)の如(ごと)き、みな普通の隨筆(ずゐひつ)書中には滅多(めつた)に見られぬものである。續編卷上には又「詩話(しわ)に入らず」といふ一條があり、

今は亡き叔祖(しゆくそ)〔祖父の弟。大叔父。〕は幼(えう)にして讀書しなかつたに拘(かかは)らず聰明頴悟(そうめいえいご)の人で、古體近體(こたいきんたい)の雜作(ざつさく)に頗(すこぶ)る富(と)んでゐたが、惜しくも悉(ことごと)く散佚(さんいつ)してしまつた。江南に幕賓(ばくひん)〔顧問〕たりし時代に袁太史(ゑんたいし)(袁枚(ゑんばい))とも往來(わうらい)し、袁が恰(あたか)も〔ちょうど、折しも〕『隨園詩話(ずゐゑんしわ)』を出版してゐる頃であつたが、叔祖は袁の行状(ぎやうじやう)を輕蔑(けいべつ)して、終(つひ)に詩稿(しかう)を出して見せることを肯(がへ)んじなかつた〔どうしても見せようとはしなかった〕。「袁といふ男は人のあら探(さが)しをするのが好きな奴(やつ)だ。二三度會(あ)つて顏を見知ると、必ず後でいろいろやつて證據(しやうこ)を握(にぎ)らうと狙(ねら)つてゐる。實に輕蔑すべき奴だ。」と叔祖は云つてゐた。

案ずるに隨園(袁枚)は死後いろいろと批評のあつた人であるが、私の考へでは、詩文の方面に關(くわん)する限り、蔣子瀟(しやうしせう)〔清・蔣湘南〕が『游藝録(いうげいろく)』〔蔣湘南の著〕の中に言つてゐるのが最も公平であると思ふ〔袁枚、趙翼ら性霊詩派に批判的な言辞があるという〕。又その人物を論ずるとなれば、たゞ著作のみによつてその風丰(ふうぼう)〔風貌〕を想望してゐる者と、曾(かつ)て面接したことのある者とでは、兩方非常に大きな距離があり、そのどちらにも道理があると云つてよい。林西の叔祖弼亭(ひつてい)は、『閑錄』の中に記す所に據(よ)れば、曾て兄に金を無心(むしん)して〔せびって〕ことわられ、兄を咒(のろ)つて紙錢(しせん)〔葬儀で死者に供える紙製の銭〕を持つて行つて燒いたさうであるから、その人とて君子(くんし)ではなかつたと思はれる。たゞその云ふ所の隨園の陋習(ろうしふ)も、全(まつた)くの作り話ではなかつたに相違ない。といふのが士大夫(したいふ)の間ではかうした事はごく有りふれた事であるからだ。無論、續編の『食性』といふ一條(でう)に記してある痰(たん)と鼻汁(はなじる)を好んで食ふ男の特別珍(めづ)らしい話ほどにはひどくないにしても。張君がかうした瑣事(さじ)を記したのは、たとへ目的は袁を非難することに在(あ)つたにせよ、やはり貴(たつと)ぶべき事であつた。私は曾て亡友(ばういう)燁齋(えふさい)(錢玄同(せんげんどう))〔魯迅・周作人等と共に章炳麟に学ぶ。〕から名人の逸事(いつじ)を三つ四つ聞いたことがあり、私自身見聞したのも多少あるが、後世の人々の茶話(ちやばなし)の種(たね)として供(きよう)する爲(ため)に、筆を振(ふる)つて直書(ぢきしよ)する程の勇氣はいまだ持合(もちあは)せぬ。とすれば樸直(ぼくちよく)といふ點に於いて前人(ぜんじん)に及ばざること遠しである。