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藥堂語錄

文海披沙(ぶんかいひさ)

『文海披沙』〔随筆集。書物の海から砂金を探す意という。〕八卷、明、謝在杭(しやざいこう)〔謝肇淛(しやちようせい)〕撰。申報館(しんぽうくわん)發行の光緒丁丑(ていちう)〔光緒三年(一八七七)〕の活字本があつて今でも手に入れ易い。『申報館續(ぞく)書目(しよもく)』文海披沙の項(かう)に「聞く所に據(よ)れば、先生はこれが脫稿(だつかう)の後未(いま)だ世に問はず、繼(つ)いで東瀛(とうえい)(日本)に流れ入り、梓(あづさ)に上(のぼ)せらるるを得たのが、最近に至り始めて再び中華(ちゆうくわ)に返つたものである。」とある。案ずるに活字本には萬暦(ばんれき)辛亥(しんがい)〔明・万暦三九年(一六一一)〕の焦䇊(せうくわう)〔号澹園居士〕の序、寳暦(はうれき)己卯(きばう)〔江戸・宝暦九年(一七五九)〕の幡文華(はんぶんくわ)〔小幡(をばた)杏仙、字文華、号太室〕及び寛延庚午〔江戸・寛延三年(一七五〇)〕の魚目道人(ぎよもくだうじん)の二序があり、焦序の中に「諸子、『文海披沙』を取りて之を南中〔江南、嶺南等の南方を指す。〕に刻す」といふ語が見えるから、「未だ世に問はず」といふのは全(まつた)く事實に反する。たゞ中土の傳本(でんぽん)が稀覯本(きこうぼん)であつたので、申報館で日本刻本に據(よ)り重印(ぢゆういん)したまでである。拙藏(せつざう)〔私蔵〕の日本刻本には幡文華の序は無く、その代りに萬暦己酉(きいう)〔万暦三七年(一六〇九)〕の陳五昌〔字伯全、号胤虞〕の序文一篇が加はつてゐる。卷末に墨筆(ぼくひつ)で天明丙午歲〔天明六年(一七八六)〕八月二十八日」と書いてあるのは、購藏者(こうざうしや)の題記である。寛延庚午といふのは清の乾隆十五年〔一七五〇年〕に當り、寳暦己卯は二十四年〔一七五九年〕に當り、天明丙午は五十一年〔一七八六年〕に當(あた)る。〔特に18世紀後半の中国書籍移入熱を反映する。〕

魚目道人は誰であるか知らぬが、序中に「先師の遺書を校(かう)するに、寧馨兒(ねいけいじ)〔麒麟児〕を載(の)せ、『文海』の説を引いてあつた。」と云つてあるので、伊藤東涯(とうがい)著『秉燭談(へいしよくだん)』を檢(しら)べてみたら、卷三「寧馨」の條に『文海披沙』の語を引いてあつた。してみれば勿論(もちろん)東涯の弟子であつたわけである。序文に又、

余が在杭〔謝在杭〕を好むのは、蓋(けだ)しその氣象(きしやう)〔性質〕を好むからである。夫(そ)れ訓詁(くんこ)文辭(ぶんじ)は工夫(くふう)次第で隨分上手(じやうず)になれるし、微言妙語も深造自得(しんぞうじとく)〔造詣が深くなれば自力で修得すること〕の出來るものであるが、唯(ただ)この氣象の自(おのづか)らなる佳(よ)さといふものは、力づくで得られるものではない。

と云つてゐるが、これは甚だ理解のある言葉である。在杭の見識思想は必ずしも卓拔(たくばつ)といふ程では決してなく、『詩話』〔小草齋詩話〕の文學について談じた部分や、『塵餘(ぢんよ)』の因果について記したあたりには特に陋見(ろうけん)〔膚浅な見解〕が多い。たゞ『五雜爼(ござつそ)』や『文海披沙』が尙且(なほかつ)讀めるのは、まさしくその氣象の好(この)もしさに因(よ)るのであり、明末の文人達にも大體同じことが云へる。魚目道人の言(げん)は讀書して閑(かん)を得たる〔閑適の境地に至ったの意か。〕もので、まことに啓發(けいはつ)の價値(かち)あり〔新しい見方を示してくれる〕と謂(い)ふべきである。