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藥堂語錄

科擧(くわきよ)の蔽(へい)〔弊害〕

『復堂日記補錄』〔清・譚獻、字仲修、号復堂の日記〕の同治(どうぢ)七年〔一八六八年〕十二月の條に、

十日、『夷堅志(いけんし)』〔南宋・洪邁の志怪小説集〕を讀了(どくれう)。文敏(ぶんびん)(『夷堅志』の著者、宋の洪邁(こうまい))は好んで科擧(くわきよ)の小吉凶(せうきつきよう)を記(しる)してゐる。宋代に於(お)ける科目(しけん)の蔽(へい)のすでに深く、士大夫(したいふ)が之に役使(えきし)されてゐることは、これによつても想見(さうけん)される。

とある。案(あん)ずるに譚(たん)君(『復堂日記』の著者、譚獻(たんけん))の語には甚(はなは)だ見識(けんしき)がある。大抵(たいてい)中國の士人(しじん)の陋習(ろうしふ)は科目に起源(きげん)したものが多い。韓愈(かんゆ)〔唐、字退之、号昌黎、諡文公〕を觀(み)れば唐の時代にすでにさうであつたことがわかる。あれから今に至るまで千餘年(よねん)を經(へ)て、益〻積み重(かさ)なつて取返(とりかへ)しがつかなくなつてしまった。近代人の筆記(隨筆)を見るのに、擧(あ)げてある人には必ず官銜(かんがん)〔肩書〕を稱(とな)へ、記す事柄は大抵休咎因果(きうきういんぐわ)〔吉凶因果〕の話で、結局は科擧に通(とほ)つたか通らぬかといふ話に落ち、その熱中(ねつちゆう)の有樣(ありさま)は手に取つて見るが如くである〔歴然としている〕。かくて終(つひ)に〔とどのつまり〕牛肉を食はず紙反古(かみほうぐ)を大事にして冥助(めいじよ)を祈(いの)るに至つては、そのさもしさ加減(かげん)も甚(はなは)だしいと云ふべく、それこそ世道人心(せだうじんしん)の害となるに足るのである。凡(およ)そ筆記にこれらのものさへ無ければ、それだけでもう十分取るに足るのであつて、酒色財氣を談じ、市井(しせい)の語をなしてゐる〔俗世間の話柄で持ちきっている〕としても、それよりは〔科挙にまつわる話よりは〕なほ一段と立勝(たちまさ)つてゐると思ふ。私は嘗(かつ)てかう云つたことがある。讀書人の書庫に淫書(いんしよ)のあるのは構(かま)はぬが、案頭(あんとう)〔机の上〕に『陰隲文(いんしつぶん)』や『棘闈奪命錄(きよくゐだつめいろく)』〔棘闈は貢院(科挙の試験場)。行いにより科挙の結果や生命を左右されるという因果応報譚の記録。〕といつた善書(ぜんしよ)〔通俗的教化書〕のあるのはいけない。といふのは、好色(かうしよく)はまだしも人情であり、邪淫(じやいん)を愼(つつし)みさへすれば合法(がふほふ)であるのだが、道士教(だうしけう)に歸依(きえ)するとすれば、もはや白蓮教(びやくれんけう)(一種の邪敎)を去ること僅(わづ)かに紙一重(かみひとへ)で〔ほとんど一緒で〕、菜食(さいしよく)して魔に事(つか)へる人に愈(まさ)る所はないわけである。孔子は人事(じんじ)を論じてたゞ仁恕(じんじよ)を云つたのは、まさしく儒教の本色(ほんしよく)であつたが、孟子が義を説(と)くや、すでに次第に法家(ほふか)に近づいて來てゐる。老莊(らうさう)は仁恕でも役に立たぬと感じ、萬事を底の底まで考へ詰(つ)めて行つた結果、自(おの)づと消極的になつてしまつた。しかし要するに古來の聖人はそのやうな怪しげな語は絕對に口にしなかつた。しかるに後世の士人が津々(しんしん)として道(い)ふを樂しんでゐるのは、それこそ正(まさ)に儒(じゆ)の道士(だうし)化であつて、蓋し漢唐宋明を歴(へ)て遂(つひ)に完成したのである。その源流は外から來たものでなく、その影響も外國には及(をよ)ぼさなかつた。その點、婦人の纒足(てんそく)の歴史と非常によく似寄(によ)つた所があり、これ亦大いに注意すべきものである。